発達障害の子供について

 最近はあちこちで「発達障害」という言葉を見かけることが増えた。

 大きなカテゴリーとしては、広汎性発達障害(PDD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)、自閉症スペクトラムがあるらしい。学校では新学期も始まったことだし、小学校に上がった子供について学校から「落ち着きがなさ過ぎるので発達障害かもしれません。一度お医者さんに診断してもらってください」などと言われる家庭も少なくないと思う。

 発達障害については、「最近になって増えている」と言う人もいる。子育て環境の変化なのか、環境ホルモンなのか、テレビゲームのやり過ぎなのか知らないが、昔は存在しなかった発達障害の子供がぞろぞろ出現しているという説明だ。

 しかし僕自身は、それは違うだろうと思っている。発達障害の子供は昔からいたけれど、それをことさらに問題にしなかっただけなのだ。

 例えば僕は、今なら確実に発達障害だと言われたに違いないのだ。授業中は落ち着きがなく、おしゃべりしたり、周囲の子にちょっかいを出したり、教科書やノートや机に落書きしたりしていた。運動神経が鈍く、団体行動が苦手で、協調性がなく、人間関係に対しては淡白だった。

 宿題はやらないし、授業もろくすっぽ聞いてない。それでいて得意な教科は常に100点満点。しかし嫌いな教科は見向きもしない。気分屋で機嫌が良ければ調子いいが、突然不機嫌になって癇癪を起こすことがあった。他人の気持ちに鈍感で、無神経な発言でしばしば他人を傷つけたり、不快にさせたりしていたようだ。

 学校では常に問題児だから、小学生の頃から何度も親が学校に呼び出されている。素行が悪いとか、不良とつるんで非行に走っているとかではない。とにかく態度が悪くて、他の子供と同じことができない。僕だけ学校で浮いていたのだ。

 写真は僕が小学校2年生の時の連絡帳に、担任の先生が書いた家庭への申し送り事項だ。当時は僕のような子供は「家庭のしつけが悪い」ということになっていた。だから先生は親を責めるし、親もほとほと困り果てていた。僕はすぐ下に弟がいるのだが、親としては同じように育てているつもりなのに、僕だけが学校で札付きの問題児だったからだ。

 でも昔は、そういう風変わりな子はクラスに一人や二人は必ずいたんじゃないだろうか。(当時は小学校の1クラスが50人ぐらいでしたけどね。)でもそれは「変わった子」だとは思われていたけれど、「発達障害」なんて言葉で呼ばれることはなかったのだ。

 「発達障害」というのは、ここ10年か20年ぐらいで一気に広まった言葉だと思う。その結果、それまで「普通の子」の中に紛れていた「変わった子」や「困った子」「手のかかる子」が、「発達障害」というグループにカテゴライズされるようになったのだ。

 しかしこれによって、誰にどうメリットがあるのかはよくわからない。発達障害は何らかの治療によって「治る」ものではないので、その人が抱えているある種の個性として、本人も周囲もそれを受け入れて行かざるを得ないのではないだろうか。(発達障害の治療と称するものも、結局はその障害と周囲の環境の間でどう折り合いを付けていくかを調整するものだろう。)

 教室の中の「手のかかる子」に「発達障害」という名前を付けることで、学校の教師は「障害があるんだからしょうがない」と早期にサジを投げられるというメリットはあるのかもしれない。親の側も「家庭でのしつけがなってない!」などと責められることなく、「これは生まれつきの障害だから親は関係ないんです」と言えるのかもしれない。でもそれによって、発達障害を抱えた子供自身が幸福になるのかどうかはわからない。

 僕は最近になって「自分はある種の発達障害だったんだろうなぁ」と思うようになったわけだが、だからといってどこかで正式に診断してもらったことはない。いいじゃないか、それでも。

 世の中には「発達障害の有名人」なるリストがあって、そこではアップル創業者のスティーブ・ジョブズや、マイクロソフトのビル・ゲイツも、アインシュタインも、エジソンも発達障害だったなどと書かれている。でも彼らは必ずしも、医者にそう診断されたわけじゃないと思うよ。人並み外れた何らかの偉業を成し遂げた人には、多かれ少なかれ規格から外れた性格の偏りというものがあり、それについて後から「あれは発達障害だ」と言っているだけのような気もするんだけどな。

 もちろん周囲の環境に適応できなくて著しく生活が困難な人には何らかの支援が必要だと思うけど、そうでないなら「変わった子」「困った子」「手のかかる子」という曖昧なカテゴリーをフル活用してもいいような気がする。これは「大人の発達障害」についても言えることで、世の中には「変わった人」や「困った人」「手のかかる人」がいてもいいと思うのだ。それを何からの方法で矯正したり訓練したり調整したりして「普通」の枠内に押し込んでしまうのは、世の中を貧しくしていくだけのような気もするんですけどね……。

 だって中学生か高校生のスティーブ・ジョブズが発達障害の治療を受けて「普通にいい感じの人」に育ったら、世界初のパソコンは絶対に作れなかったと思うし、MacintoshもiPhoneも世の中に出てなかったと思うもんね。もちろん世の中にはジョブスほどの才能が無い、単に社会に適合できないだけの「困った人」はたくさんいるわけだけど、ジョブスの才能はそうした無数の「困った人」を許容する環境があってこそ花開いたものなんじゃないかな。

 というわけで僕は世の中に無数にいる、傑出した才能なき「困った人」のひとりとして、容易に「発達障害」という言葉を連発する今どきの風潮に異議をとなえたいと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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