最近よく眠れない

 ここ何日か、夜よく眠れない日が続いている。こむら返りが原因だ。

 正確にはこむら返りというより、その前兆のような足のしびれ、足の筋のこわばり、あるいは小さな痙攣で飛び起きる。

 こむら返りがクセになっている人はわかると思うが、ふくらはぎの筋肉が完全に引きつって激痛でにっちもさっちも行かなくなる前に、その前触れのようなものが起きる。最近はそれで飛び起きる。しかも一晩に何度もだ。

 足の痙攣は寝ているとそのまま進んで大発作になるのだが、飛び起きて立ち上がっていると致命的な(というのも大げさだが)大発作に結びつかず、足のひどいしびれや筋肉のこわばりによる痛みなどで済むことが多い。少なくとも僕は、それでやり過ごすことがほとんどだ。

 前兆や軽い発作の状態で済めば、早いときは数分、ひどくても30分か1時間もすればまた横になって寝ることができる。

 おかげで最近は本格的な大発作になることは少なくなった。前兆や痛み、しびれなどで飛び起きても、大発作につながるのは数十回に一度あるか無いかだろう。しかしそれでも、毎晩のように何度も飛び起きるのだから困ってしまう。

 ベッドに入るのが夜11時過ぎから12時前後。それから最初に飛び起きるのが2時。30分か1時間してまた横になり、次は3時半に軽い発作で目を覚ます。また30分か1時間して眠り、次は5時半頃に目が覚める。それから30分か1時間すれば、もう外はすっかり明るくなってしまうのだ。

 これが何日も続けば、寝不足で頭がぼんやりしてくるよ。

 夜中に足の痛みが起きる理由はよくわからない。医者に行ってもよくわからないと言われた。個人的には4年前に受けた椎間板ヘルニア手術の後遺症ではないかと思っているが、それは「ヘルニアの腰の痛みに比べれば、何のこれしき」という自己暗示かもしれない。

 こむら返りの痛みには芍薬甘草湯という漢方の特効薬があるのだが、僕はこれもあまり効果を感じなくなってしまった。鍼灸なども効果があるらしいので、今度どこかの鍼灸院に行ってみようかと思っている。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

静かで冷たい独裁国家

 日本はもう何年も前から、独裁国家なんじゃないだろうか。ふとそんなことを考える。

 独裁者というと、ヒットラーやスターリン、あるいは毛沢東のように、権力を独占して反対者を粛清し、国民にも多くの犠牲者を出すようなイメージがあるかもしれない。

 だから現在の日本が独裁国家だと言えば、「現在の日本のどこにヒットラーやスターリンのような独裁者がいるのだ! どこに粛清があり、どこに虐殺があるのだ!」と反論されるだろう。

 でも独裁者は粛清や虐殺を行うから独裁者なのではなく、独裁者として権力を掌握した結果として、粛清や虐殺を行うようになるのだ。粛清や虐殺は独裁の条件ではなく、独裁のひとつの結果に過ぎない。

 もちろん日本は民主主義国家であって、国民には言論の自由も集会結社の自由も認められている。現在の政府が成立しているのは公正な選挙の結果であって、そこで大掛かりな選挙妨害や不正が行われた形跡もない。

 だとすれば、日本のどこが独裁なのか。もしも日本が独裁国家だとすれば、それは日本人が自ら望んで選択した独裁制であり、現在の選挙制度などが政権選択の方法として確保されている限り、それをいつ止めるかも日本人の望むままに選択できるはずだ。

 しかしそれでも、僕は現在の日本が独裁国家に思える。そこには少しの熱狂もない。ほとんどの国民の諦めと、冷笑に支えられた独裁だ。

 ネットの中は別として、僕は周囲に熱狂的な安倍自民党支持者など見たことがない。しかし野党に対する諦めと冷笑はしばしば見かける。これはテレビの中のコメンテーターなども同じだろう。

 「野党はダメだ」「反対ばかりで対案がない」「野党の批判はきれい事ばかりだ」など、その言葉の多くは紋切り型だが、日本人の多くはそれに慣れっこになってしまった。

 かく言う僕も似たようなものだ。安倍自民党はダメだと思う。あらゆる政策で、これといった成果を出せていない。何より、日本の景気が良くなっていない。低賃金のデフレ体質は変わらず、未婚化や少子化も止まらない。

 しかしだからと言って、現在の野党に政権担当能力があるとも思えない。それどころか現在の自民党内部に、安倍首相以外のリーダーをイメージすることもできない。

 日本は安倍首相という愚鈍な独裁者の下で、今後も低迷を続けるだろう。でもそれが、日本人の選んだことなのだから仕方ない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

裁判所に道徳を求めるな

 実の娘が中学生の頃から意に反する性交を何年も繰り返していた父親が、19歳になった娘に準強制性交等罪で訴えられて無罪になった事件。

 まったくむかっ腹の立つ事件で被害者が気の毒でならないし、この父親には行ったことに対して何らかの罰が加えられるべきだと思う。

 しかしこの無罪判決に対して、ネットには「そもそも近親相姦は人倫にもとる。それが裁判官にはわからなのか!」などと言っている人が少なからずいて、それはそれで暗い気持ちになってしまった。

 世の中には「人倫にもとる性行為」や「性的な逸脱」というものが山ほどある。例えば僕が子供の頃に学校で配布された保健体育の教科書では、同性愛や異性装が性的逸脱だとされていた。それは変態性欲であり、精神異常の一種であり、治療を要する重篤な心と体の病だった。

 LGBTが一定の市民権を得ている現在の目から見れば、これはまるで間違った話であり、ひどい差別だと思う。しかし当時は多くの人がそう思っていたわけだし、それに対して「それはおかしい」という声を上げる人は少なかったのだ。もちろん数の多さが正しさを保証するわけではないから、例え当時の多数意見や常識がどうであったにせよ、同性愛差別は間違いだ。それは今では当然のことだし、じつは当時もそうだったのだ。

 同性愛も近親相姦も同じだと言いたいわけではないし、同性愛と同じように近親相姦も今後は社会的に容認されるべきだと言いたいわけでもない。言いたいのは、ここで「人倫」を持ち出して人を裁こうとする人の多さに対する違和感だ。

 人倫、道徳、社会常識などを前提にして、法で規定されていない罰をこの事件の加害者に課そうとするのは間違いだ。事件や裁判の詳細は調べていないのでわからないが、今回の裁判に関しては検察側に落ち度があったようにも思うし、裁判所の判断が著しく被告人有利に働いていた可能性もある。しかし少なくとも裁判所や裁判官たるもの、「倫理」などというものを尺度にして人を裁かないのは当然であって、「裁判官は近親相姦が人倫に反していることがわからないのか!」と憤るのは間違っている。

 裁判で問われ、争われているのは、そこで行われていた行為が、果たして準強制性交等に該当するのか否かだ。裁判所はそれを認めなかった。近親相姦の有無を問うていたわけではないし、その道徳性を問うていたわけでもない。そこを勘違いしてしまうと、「人倫が!」「道徳が!」「社会道徳が!」「鬼畜の所業!」などと、抽象的な言葉ばかりが飛び交うだけになってしまう。

 僕はこの事件の被告(元被告?)を弁護する気は一切ないが、それでも法律で裁きを下すべき場に、「倫理」や「道徳」という判断基準を求めようとする人たちには反論しておきたい。

 今後この事件同様の行為を処罰するためには、法律の改正が必要だ。現在の法律条文で強制性交等罪の成立要件が「暴行又は脅迫を用いて」となっている部分を、「相手の同意なしに」に改めればよい。まあこれはこれで大変なことではあるのだが、議論の出発点としてはそこしかないように思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

140文字に切り取られた世界

 最近ブログの更新がすっかり滞っていたのは、何にせよ、書いたり読んだりすることはSNSで用が足りるようになってしまったからだ。

 インターネットが普及しはじめた今から20年ほど前、自分で何かの意見を発表をする人は、ホームページを作った。その後、メルマガやメーリングリストが流行した。さらにブログが登場した。それがSNSに置き換わって今に至る。

 他には動画配信サービスというものもあるが、僕はこれを利用していない。初期に動画に進出していれば、ひょっとしたら今ごろは有名YouTuberになっていたかもしれないのに、残念なことをした。

(……と、こういうことを書くと本気にする人がいるので念のためだが、これは冗談で書いている。大スクリーンで3時間の映画を観ることは苦にならなくても、テレビで30分の番組を見る根気が続かない僕にとって、YouTubeに代表される動画サイトは、最初から興味のわかないものだった。)

 現在僕はFacebookやTwitterを主に使っている。Facebookの投稿はTwitterにも投稿される設定にしているので、書くのはそれを見越した短文になる。140字以内。少し長いものを書くときは、これを連投する。あるいはTwitterの側で、コメントをつなげて行く。

 最初はこれが物足りない部分もあってブログも更新していた。ブログとSNSの棲み分けや使い分けを考えていた。でもそのうち、SNSだけで用が足りるようになってしまったのだ。SNSだけで用が足りる世界に足を踏み入れると、140字でたいていのことは言えるし意味が通ることがわかる。

 スピーチ原稿は1分間に300字が目安で、ニュース原稿などなら350字ぐらいだという。黙読ならそれよりスピードアップするので、1分で400字は読めるだろう。映画瓦版は本文1,200字だが、これはだいたい3分で読める計算だ。

 しかしSNSは140字なのだ。目で追うだけなら数秒で読める。それがSNSのスピード感だ。ブログやメルマガが将棋の対局なら、SNSは卓球の高速ラリーみたいなスピード感になる。問題は世の中全体が、高速ラリーのスピード感で動いていることなのだ。

 140字で大概のことは言える。しかし140字からこぼれ落ちてしまうことも多い。それを補うのがSNSのリンク先にある記事本文なのだが、高速ラリーの中にいる人の多くはそれを読みもせずに、SNS記事に「いいね」したり「シェア」したりしているのだ。何を隠そう、僕もそうしている。

 SNSが主流になると、文章の中で委曲を尽くすとか、ひねりを効かせるということができなくなる。文章の構成など不要になる。起承転結なんて要らない。結論だけスパッと書く。それでOK。確かにそれで用は足りるのだろうが、そこからこぼれ落ちてしまう部分にこそ、本当に大事なものがあるんじゃないだろうか。

 ずいぶん昔、大昔の話だが、深夜テレビでシナトラ主演の『夜の豹』(1957)という映画を観た。原作はジーン・ケリーが主演した舞台ミュージカル「パル・ジョイ」で、リチャード・ロジャースとロレンツ・ハートが作ったミュージカルだ。ところがこの放送では、肝心のミュージカルシーンを全部切った短縮版になっていた。それでストーリーはわかるのだ。でもミュージカルシーンを全部切った『夜の豹』に、どれだけの価値があるんだろう。

 世の中の森羅万象を140字にしてしまうSNSというのも、それと同じなんじゃないだろうか。我々はあらゆる物事を140字にまとめられるSNSの簡便さと引き替えに、本当に大事な何かを切り捨ててしまった可能性がある。

 あの日同じ深夜テレビを見ていた人は、ミュージカルシーンを切り捨てた『夜の豹』の短縮版を見て、それが『夜の豹』という映画だと思ったことだろう。140字で流れて行くSNSというのは、そんなものの連続なのかもしれない。

 というわけで、僕はその反省も込めて、またブログに復帰しようと思っているわけだ。とはいえSNSの簡便さにすっかり慣れてしまっているので、これがいつまで続くかわからないけどね。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

新元号の発表に思うこと

 改元そのものに興味はないし、「令和」という新元号にもあまり関心がない。しかし新元号の発表に浮き足立ち、発表と同時に大騒ぎしている日本人の様子には興味がある。

 たぶんみんな「共通の話題」が欲しかったんだと思う。老若男女を問わず、国民全体で分かち合える、ひとつの物語が欲しかったんだろう。

 流行歌も、ベストセラーも、人気テレビ番組も、国民全体が何となくそれを歌い、読み、見ているという時代は過ぎ去ってしまった。誰もが参加できる共通の話題を失った日本人は、きっとそれに飢えていたんだと思う。そこに投げ込まれたのが、改元という歴史的な事件だったのだ。

 改元自体は何十年かに一度は必ず行われる出来事だ。昔は天皇在位中にコロコロ元号を変えたりもしたが、大正以降は一世一元になって、天皇陛下の生存中は元号が変わらなくなった。しかし一世一元の元号が、何百年も変わらないということはあり得ない。たいていの人は、生きているうちに一度か二度は、改元を体験するのだ。

 夏の甲子園もレコード大賞も、毎年やっているから有難味がない。それでも多少は話題になる。4年に1度のオリンピックやワールドカップも、もはやあまり有難味はないのだが、それでも大いに盛り上がる。ならば数十年に1度の改元が、盛り上がらないはずがない。

 今回の改元に関する日本中の大騒ぎというのは、たぶんその程度のことなのだと思う。新天皇の誕生を寿(ことほ)ぐとか、日本のナショナリズムがどうとか、そういう理由付けも何かしらの説明にはなっていると思うのだが、それより何より、まず日本人が共通の話題を欲しいてたということの方が大きいに違いない。

 僕は今回の改元が、これまでの人生で2度目の改元になる。僕は自分の余生があと20年ぐらいだと思っているので、さらに次の改元が数十年後にあったとしても、その時に生きているかどうかはわからない。同じようなことを考えている人は、たぶん日本に大勢いるんじゃないだろうか。

 こうして改元は、多くの日本人の身体に刻み込まれる。「生まれてはじめての改元」とか、「生涯2度目の改元」とか、「たぶん自分の人生にとって最後の改元」という形で、改元は身体に刻まれ、元号は日本人の血肉になって行く。

 繰り返しになるが、僕は改元そのものに興味はないし、「令和」という新元号にもあまり関心がない。しかし今後何年も、あるいは何十年もかけて、元号は僕の身体の一部になっていくのだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

写真は安上がりな趣味になった

 最近また写真を撮るようになった。カメラは既に何台か持っているのだが、最近購入したのはRICOH GXRとレンズユニットA12 50mmとA12 28mmだ。どちらもGRレンズ搭載。これがじつによく写る。欠点は同じようにGRレンズを搭載したコンパクトカメラGRDシリーズやGRシリーズに比べると、大きくと重いことぐらいだろう。

 現在、写真は安上がりな趣味だ。カメラさえ購入してしまえば、あとはランニングコストがかからない。何百枚写真を撮っても、それによって生じる費用はゼロ。これはフィルム時代から見ると夢のような話だ。

 デジタルになっても、かつては写真を保管・保存するのにそれなりの費用がかかった。しかし今はそれもタダだ。撮った写真はプリントせずに、SNS(TwitterとかInstagramとかね)などに投稿してそこでおしまいにすればいい。それ以外の写真も、GoogleやAmazonのサービスを使えば無限に保存しておくことができる。

 カメラも安くなっている。最近使っているGXRは10年以上前に発売されたデジカメ。デジカメもここ10年ぐらいは大きな技術革新のない枯れた製品になっていて、10年以上前のカメラでも、普通に何の不満もなく使える。10年前の高級デジカメを中古数万円で購入すれば、あとは写真をいくら撮っても、いくら写真を保存しておいてもお金はかからない。

 一方で趣味や道楽にはお金をかけられる部分がないとつまらない。その点で写真は、金をかけずに趣味として楽しもうとすればほとんどタダみたいなコストで参加できるし(カメラだってスマホでいいのだ)、お金をかけようとすれば際限なくお金をかけることもできる奥の深い世界になっている。

 カメラに投資しようとすればいくらでも高価な機材が存在するし、交換レンズだの、ストロボだの、カメラバッグだのと、周辺機器も多い。写真の加工にパソコンやソフトに投資する人もいる。写真を撮るために世界中を旅する人もいるだろう。プロのカメラマンではなく、あくまでも趣味としての話だ。

 まあ僕は少ない投資でちびちびと写真を楽しんでいるわけだが、それでもGXRには何万円かかけてしまった。今後はこれで何年か楽しむつもりだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

まだ生きてます

 日記ブログの更新がずっと止まっているので、生存証明のようにたまには書きますか……。

 このブログが更新停止状態になっているのは、別に僕が隠遁生活に入っているわけではないのです。映画を観るたびに「映画瓦版」は更新しているし、FacebookTwitterも更新しています。Instagramで外食の写真も投稿してますよ。SNS漬けですね。

 最近はブログでまとまった量の文章をしっかり書くより、SNSで短文を連投する方が気楽だし楽しいのです。まあこういうのはすべて「今はそうだ」というだけで、今後どうなるかはわかりませんけどね。そのうち、思い出したようにまたブログに記事を連投するようになるかもしれません。

 最近考えているのは、アカウントを持っているだけでやはり放置状態になっているnoteの活用。ある程度ボリューム感のあるテキストの投稿ならnoteに投げて、そこからSNSにリンクした方がいいのかもしれないなぁ……と思ったりはしています。まあ、まだそうしたことをしていないので、思ってるだけなんですけどね。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

趣味の易占

 物事に対して飽きっぽい性格なのだが、どういうわけか易占は今でも続いている。最近は毎日サイコロを振って記録を付けるのが、ハミガキなどと同じ生活習慣になった。

 旅行にもサイコロを1個と岩波文庫の「易経」上下巻を持って行けば、それで占いができるという気楽さがある。最近はKindle版の「易経」も購入したので(元版は徳間文庫版の「易経」だ)、スマホなどで簡単に卦の意味を調べることができるようになった。

 こんなに便利なら、もっと早くにKindle版を買っておけばよかったなぁ……。

 易経が面白いのは、毎日の生活に特別な「意味」が付くことかもしれない。特別なことが何もない1日を、易を通じて外側から眺めることができるのだ。朝は「今日はこんなことに注意しよう」と思うこともあるし、夜は「今日あった出来事にはこんな意味があったのかも」などと勝手に想像することができる。

 僕自身は占いをまったく信じていないし、毎日易を立てるようになった今も信じていない。占いとしては信じていなくても、易は面白い。これは、信じていなくてもキリスト教や仏教が面白いのと同じかもしれない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

日本の映画産業は今のところ堅調

 今年1月に映連から全国映画概況が発表されたので、それについて簡単にまとめておく。

 日本映画は昭和30年代の黄金時代には及ばないものの、かつてない勢いをいまだ保っている。観客動員数推移のデータを作ってみたが、1990年代後半からの堅調がいまだ続いているようだ。一昨年は『君の名は。』というモンスター級のヒット作があって観客数を押し上げたが、昨年はそうしたブームを呼ぶ作品がないにも関わらず、前年比96.8%という堅実な成績を残した。

 例年こうしたグラフを作る時は映連が発表しているデータをすべて使うので、昭和30年代の山が大きすぎてそれ以降の数値の推移がわかりにくくなってしまう。今回は昨年までの過去30年間に絞ってみた。気象庁の「平年値」も過去30年間の平均値だというから、30年というのもまあ妥当なものではないかと思う。(特に関連性はないけどね。)

 映画の公開本数は、年間1187本で過去最高を更新した。(これまでの最高は2014年の1184本。)僕が映画批評家として試写室で映画を観始めた1997年頃は、年間の公開本数が600本前後。毎日せっせと試写室に通っていれば、劇場公開される映画の7〜8割は観てしまうことができた。しかし今はその倍以上が公開されるわけで、これをすべて観ている人は誰もいないはずだ。

 映画は大量に作られ、大量に消費され、ほとんど観られまま消えて行く作品も多い。

 日本の映画産業は数値を観る限りでは堅調なのだが、話を「日本の映画産業」から「日本映画産業」に移すと話は違ってくる。日本映画と外国映画の市場シェアは、1990年代には完全に洋画優位だったが、2000年代後半に逆転して「邦高洋低」などと言われるようになった。日本映画は利益を上げられる優良ビジネスとなり、これがいわゆる「邦画バブル」を生んでもいたわけだ。

 ところがこの日本映画の勢いは、ピークを越えてダウントレンドに入っているようにも見える。シェア自体はまだ50%以上を維持しているが、シェアは60%ぐらいで頭打ちのような気がするのだ。

 その理由を分析するには個々の作品を取り上げねばならないだろうが、映連の概要データだけではそれが見えてこない。というわけで、今回の話はここまで。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 映画

「わろてんか」は晩婚・未婚時代の朝ドラだ

 朝の時計がわりに朝ドラの「わろてんか」を見ているのだが、これは晩婚・未婚化時代を象徴する朝ドラではないだろうか。ヒロインはあっという間に結婚するが、周囲の人たちがまあ結婚しない。

 風太とトキはいよいよ結婚しそうな雰囲気だが、この二人はいったい幾つになっているのだろうか? 物語の中の時間を考えると、どう考えても30歳は過ぎている。40歳に近いかもしれない。風太はともかく、トキは大年増もいいところだ。

 映画女優になったリリコも結婚しないし、映画会社の経営者になった伊能も結婚の気配がない。藤吉の幼なじみである芸人のキースも、相方のアサリも結婚しないままだ。団吾師匠もまだ独身なんだろうか。

 いい年した男と女がごろごろしていて、これほど独身者ばかりという朝ドラがこれまでにあっただろうか。もちろんこれが現代なら、このぐらいの年齢で独身者ばかりでも別におかしくはない。でも物語の時代背景は現在昭和初期だ。昭和初期というのは、こんな時代だったのか?

 「わろてんか」はタイトルほどには笑えないと、あれこれ批判されることも多いドラマだ。僕も実際に笑えない。ときどきすごく面白いこともあるのだが、それが週に一度あるかどうか……というレベルだ。そんな中で、このドラマの「登場人物たちを結婚させない」という展開が気になって仕方がない。

 独身の登場人物たちに対して、それを批判したり揶揄したりする者が誰も出て来ないのも不思議だが、こうした部分を見る限り、やはりこれは「大正から昭和」の物語ではなく、平成30年の今の物語なのだと思う。

 だとすれば、このドラマの独身組は物語の終わりになるまでずっと独身なのかもしれない。むしろ、独身で居続けていて欲しいとさえ思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記