【新刊】銀幕の中のキリスト教

 初の単著「銀幕の中のキリスト教」が、キリスト新聞社から発売になりました。16年前の編著「シネマの宗教美学」(フィルムアート社)と同じく、今回も「映画+キリスト教」がテーマです。

 版元が専門書の出版社なため、一般の書店では手に入りにくいかもしれません。Amazonでも入荷するとすぐ品切れになってしまいます。実店舗で手に取りたい場合は、全国のキリスト教書店(東京なら銀座の教文館、御茶の水のCLC、オアシス新宿西口店など)に並んでいると思います。教文館のネット通販でも購入できます。

キリスト教の10大事件(7)

 キリスト教がどうやって世界最大の宗教になったのかには、歴史上の多くの出来事が複雑に絡み合っています。

 そこでキリスト教の長い歴史の中から、「この出来事がなければキリスト教は存在しなかった」「このことがなければキリスト教は現在まで生き延びることができなかった」という重要項目を紹介したいと思います。

 細かく数え上げるときりがないので、思い切って10の出来事に絞り込んでみました。貧しい知識に基づく独断と偏見に満ちた選択ですので、異論もあるとは思いますが、そのへんは少し大目に見てください。

 なお僕自身はキリスト教徒ではありませんので、その点は誤解の無きようにお願いします。

7. カノッサの屈辱(11世紀)

 5世紀西ローマ帝国が衰退して滅びた後、一度は世俗権力の後ろ盾を失ったキリスト教でしたが、6〜7世紀にはゲルマン人王族たちが次々カトリックに改宗し、再びキリスト教は世俗権力の強大な後ろ盾を得ることになります。教会のパトロンになった世俗の権力者たちは、領内に聖堂や修道院を建てて教会に寄進するようになりました。

 領主が建てた聖堂や修道院は彼らの信仰心の証であり、教会という世俗を超えた権威への貢ぎ物です。しかしこうした聖堂や修道院の管理は、寄進者である領主の任命した聖職者や修道院長に委ねられるのが普通でした。権力者は自分の任命した教会の役職者を通じて、その地域の教会財産を管理し、教会の運営にも口を出すことができるようになったのです。

 地域の教会の大口スポンサーとなった王侯貴族は、自分の友人や親族に教会の要職を与え、その見返りに世俗の権力者たちも教会から何かと特別な便宜をはかってもらうになります。世俗権力と教会との、持ちつ持たれつの関係が出来上がるのです。

 こうした世俗権力との馴れ合いに、異を唱えたのが教皇グレゴリウス7世(在位:1073年〜1085年)でした。彼は聖職者の叙任権を教会が取り戻すべきだと考え、この主張に強く反抗する神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門しました(1076年)。宗教的権威を失ったハインリヒは、翌年1月、教皇の滞在するカノッサ城に赴き、城外で3日に渡って赦しを請うたのです。これが「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件です。このパフォーマンスが功を奏して、皇帝の破門は解かれることになりました。

 これは世俗の権威に対する教会の絶対優位性を象徴する事件ですが、この後も教皇と皇帝の対立は継続して混乱が続きました。しかしカノッサの事件から半世紀後には、叙任権については教会の権利とし、教会の財産権など世俗の経理については王が管理するという協定が結ばれます(ヴォルムス協約)。

 こうして聖なる権威を確立した教皇は、世俗の権力者たちに号令して、11世紀末からは聖地エルサレムに十字軍を派遣するに至るのです。

もしもカノッサの屈辱がなければ?

 世俗の権力者たちの保護下に存続していた教会組織が、世俗の権力者に従属する立場ではなく、むしろ世俗の権威を超えた上位の立場にあることを主張したのが叙任権闘争でした。カノッサの屈辱はその象徴的な事件ですが、こうした出来事を通して、20世紀まで続く「キリスト教のヨーロッパ」が確立したのです。

キリスト教の10大事件(6)

 キリスト教がどうやって世界最大の宗教になったのかには、歴史上の多くの出来事が複雑に絡み合っています。

 そこでキリスト教の長い歴史の中から、「この出来事がなければキリスト教は存在しなかった」「このことがなければキリスト教は現在まで生き延びることができなかった」という重要項目を紹介したいと思います。

 細かく数え上げるときりがないので、思い切って10の出来事に絞り込んでみました。貧しい知識に基づく独断と偏見に満ちた選択ですので、異論もあるとは思いますが、そのへんは少し大目に見てください。

 なお僕自身はキリスト教徒ではありませんので、その点は誤解の無きようにお願いします。

6. クローヴィスの改宗(5世紀)

 1世紀にパレスチナ地方で誕生したキリスト教は、4世紀にローマ帝国の国教という特権的な地位を得ることができました。ローマ帝国という強力な後ろ盾が出来たことで、キリスト教の将来は安泰だと誰もが思ったかもしれません。しかしそのローマ帝国自体は、かつての盤石な権力基盤を失いつつあったのです。

 キリスト教はテオドシウス帝によって392年に国教とされますが、皇帝が395年に亡くなると帝国は東西に分裂。東ローマ帝国はその後も15世紀まで生き延びますが、西ローマ帝国は480年に最後の皇帝ユリウス・ネポスが暗殺されて滅亡します。西ローマ帝国内のキリスト教は、こうしてローマ帝国と皇帝の庇護を失ったのです。西ローマ帝国の滅亡後に西ヨーロッパを支配したのは、ゲルマン人系の王族たちでした。

 北欧系のゲルマン人は紀元前から少しずつローマ帝国周辺部や内部に移住していたのですが、375年にフン族に圧迫された西ゴート族がヨーロッパ中心部への移住を開始し、ここから「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれる大量移住が開始されます。西ローマ帝国が弱体化した原因のひとつは、これらゲルマン民族との戦いによるものでした。

 西ローマ帝国が滅んだ後、現在のフランスからドイツにかけての広大な地域を支配したのは、ゲルマン系フランク族の王クローヴィス1世でした。当時ゲルマン系の人々の多くは、先祖伝来の北欧の神々を信じるか、ローマ帝国を追放されてゲルマン住民の間に布教が進んだアリウス派のキリスト教を信じていたようです。クローヴィスもアリウス派のキリスト教徒だったようですが、これは正統派のキリスト教から見れば、本来のキリスト教とは似て非なる異端宗教でしかありません。

 493年、クローヴィスはブルグント王国の王女クロティルダと結婚します。彼女は正統派のカトリック信徒として、夫がカトリックに改宗するよう熱心に働きかけます。その結果、496年にクローヴィスはカトリックに改宗し、ゲルマン系王族の中で最初のカトリック王になりました。

 クローヴィスの改宗を嚆矢として、ゲルマン系の王族たちは7世紀にかけて次々にカトリックに改宗。西ヨーロッパのキリスト教は、こうして再び世俗権力の後ろ盾を取り戻すことができたのです。西ヨーロッパにおけるカトリック教会の地位はローマ帝国時代以上に盤石なものとなり、これは15世紀の宗教改革まで続くこととなります。

もしもクローヴィスがカトリックに改宗しなければ?

 西ヨーロッパのキリスト教が消えることはなかったにせよ、ローマ教皇を中心とするカトリック教会の組織や権力は、今よりずっと小さなものになっていたはずです。現在のカトリック教会が世界中に10億を超える信徒を抱えるようになったのは、クローヴィスの改宗があったからです。

「シネマの宗教美学」から16年

 僕の名前で商業出版社から出ている本は、フィルムアート社の「シネマの宗教美学」が最初だった。

 これは複数のライターが参加している本なのだが、担当編集者が僕の「編著」として出してくれた。趣味的に自分で制作して販売している電子書籍を除くと、商業出版社から出ている紙の本で、僕の名前が大きく出ているのは今までこれ1冊きり。出版されたのは2003年だから、もう16年前になる。

 16年前に比べて、「映画とキリスト教」というニッチなテーマに関心を持つ日本人がどれだけ増えているだろう。「シネマの宗教美学」が出た当時は、世界同時多発テロの影響もあり、「文明の衝突」だの「一神教の排他性」だの「キリスト教文明の衰退」だのが言われていた時代だった。アメリカではジョージ・W・ブッシュが大統領になって、保守的な福音派の教会が社会的な注目を集めていた。

 そうした中では「キリスト教を理解すること」は「世界情勢を理解すること」だったし、映画はそのための格好のテキストになっていたのだ。

 「シネマの宗教美学」がそうした社会ニーズに応えられる本になっていたとは必ずしも思わないのだが、それでも当時の社会が「宗教」や『キリスト教」にそれなりの関心を持っていたことは事実だと思う。日本人も含めた世界の先進国が「世界はもうすっかり世俗化している。宗教など不要だ」と考えていたところに、イスラム過激派のテロが起き、アメリカではきわめて宗教的な大統領が軍隊の指揮を執るようになっていた。

 ではそれから16年たった今はどうなのか。世界は再び脱宗教化しているように見える。各地で宗教的な動乱がないわけではないが、一時は中東地域の広範囲を勢力下に置いたISはほぽ鎮圧された。世界は再び「経済」が動かすようになっている。アメリカとイラクの対立も宗教対立というより、石油利権を巡る経済的な対立なのではないだろうか。

 まあ大きな話はともかく、僕は人間が生きていく上での根源的な「苦しさ」を解消していくには、やはり宗教的な何かが役に立つことも多かろうと思っている。僕は現在の日本を見ていると、どことなく宗教化しているようにも思う。現在の日本は、合理性を超えた別の何かに、人々が突き動かされているのではないだろうか。

 それはきわめて単純に言ってしまえば、マンモン崇拝(拝金主義)ということなのかもしれない。人は神とマンモンの両方に仕えることはできない。その点、無宗教で神を持たない日本人は、もともと拝金主義と親和性が高かったのかもしれない。であればこそ、日本人は戦後あっという間に国際的な経済大国になりおおせることもできた。金儲けに対するタブーがなかったからだ。

 バブル崩壊後にマンモンの恩恵に見放された日本人は、自分から遠ざかっていくマンモンに媚びへつらうようにして、人間を祭壇の生贄に捧げるようになった。非正規労働者の増加がそれだ。日本人はそろそろマンモン崇拝から距離を置いたほうがいいような気がするのだが、だからといって今更信じるべき神もいないしなぁ……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

キリスト教の10大事件(5)

 キリスト教がどうやって世界最大の宗教になったのかには、歴史上の多くの出来事が複雑に絡み合っています。

 そこでキリスト教の長い歴史の中から、「この出来事がなければキリスト教は存在しなかった」「このことがなければキリスト教は現在まで生き延びることができなかった」という重要項目を紹介したいと思います。

 細かく数え上げるときりがないので、思い切って10の出来事に絞り込んでみました。貧しい知識に基づく独断と偏見に満ちた選択ですので、異論もあるとは思いますが、そのへんは少し大目に見てください。

 なお僕自身はキリスト教徒ではありませんので、その点は誤解の無きようにお願いします。

5. ローマ帝国による国教化(4世紀)

 キリスト教は誕生直後から、教団のリーダーたちが激しい弾圧の中で命を落とす宗教でした。そもそもまだ「キリスト教」なるものが誕生する前から、カリスマ的なリーダーだったイエスは十字架で処刑されているのです。その後に続く教会のリーダーたちも、多くが迫害の中で殉教しています。イエスの直弟子だった十二使徒たちも、異邦人の使徒パウロも、ほとんどが殉教したようです。キリスト教は社会の中で、常に周囲の多数派から迫害を受ける少数派であり弱者だったのです。

 にもかかわらず、キリスト教は信徒を増やして行きました。ローマ帝国各地に教会(信仰者の共同体)が作られ、性別や、民族や、社会的な身分に関わりなく、イエス・キリストを信じる人が増え続けたのです。

 ローマ帝国内ではキリスト教に反発する人たちが教会を弾圧し、時にはローマ皇帝自らがキリスト教徒の取り締まりを命じることもありました。その多くは場当たり的で気まぐれなものでしたが、4世紀初頭にはディオクレティアヌス帝がキリスト教の大規模な弾圧を行って、教会は徹底的に痛めつけられました。しかしそれでも、キリスト教は消えません。

 西暦313年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世はミラノ勅令を発して、キリスト教をローマ帝国公認の宗教に改めました。キリスト教への弾圧を取りやめ、それまでとは逆に、キリスト教を保護することにしたのです。この時代にはキリスト教徒が社会のあらゆる階層に存在し、それらをいちいち排除していては、国家の運営が成り立たなかったのです。コンスタンティヌス帝の母もキリスト教徒であり、この勅令を発した時には皇帝自身もキリスト教徒になっていたという説があります。

 西暦325年、コンスタンティヌス帝は帝国内の主要の教会からリーダーたちを小アジアのニカイアに集め、キリスト教の基本的な教義を統一するための会議を開きます(第1ニカイア公会議)。ここでは三位一体の教義を正統とし、これと異なる主張をしていたアリウスとその同調者たちは異端とされました。

 このように教会内で会議によって教義の正統性を議論し、相容れない説を異端として排除するところにキリスト教の特徴があります。教会のリーダーたちが集う公会議は、その後も教会内で教義を巡る論争が起きるたびに召集され、この中でキリスト教の基本教義が確立していったのです。

 コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した後も、ローマ帝国は様々な宗教が雑多に混じり合う多神教社会でした。しかしキリスト教以外の宗教は国家の行事から徐々に閉め出され、4世紀の終わりには、とうとうキリスト教以外の宗教がすべて禁じられるに至ります。4世紀初頭にローマ帝国から大弾圧を受けて多くの殉教者を出した宗教が、百年たたないうちにそのローマ帝国で唯一の公認宗教になったのは、まさに歴史の大逆転でした。

もしもローマ帝国がキリスト教を国教にしなければ?

 この時代の他の宗教が今ではほとんど消えてしまったのと同じように、キリスト教も消えてしまったかもしれません。国家の庇護がなければ公会議で教義を統一することも出来ず、仮にキリスト教が生き延びたとしても、今とはまるで似ても似つかぬものになっていたはずです。

キリスト教の10大事件(4)

 キリスト教がどうやって世界最大の宗教になったのかには、歴史上の多くの出来事が複雑に絡み合っています。

 そこでキリスト教の長い歴史の中から、「この出来事がなければキリスト教は存在しなかった」「このことがなければキリスト教は現在まで生き延びることができなかった」という重要項目を紹介したいと思います。

 細かく数え上げるときりがないので、思い切って10の出来事に絞り込んでみました。貧しい知識に基づく独断と偏見に満ちた選択ですので、異論もあるとは思いますが、そのへんは少し大目に見てください。

 なお僕自身はキリスト教徒ではありませんので、その点は誤解の無きようにお願いします。

4. 新約聖書の成立(2世紀)

 キリスト教徒にとって、聖書はなくてはならない存在です。「うちは仏教です」という家に仏典(お経)があるとは限りませんが、「うちはキリスト教です」という家には、まず間違いなく聖書が何冊かあるでしょう。キリスト教徒にとって、聖書こそが信仰生活の中心なのです。これはプロテスタントでもカトリックでも、基本的には変わりません。

 聖書は旧約聖書と新約聖書で構成されています。旧約は旧い契約、新約は新しい契約という意味です。内容をごく大ざっぱに言えば、天地創造からイエス・キリスト以前までの人間と神の関わりが旧約聖書に、イエス・キリスト誕生後のことは新約聖書に書かれています。

 聖書は一度に出来上がったものではありません。旧約聖書はキリスト教以前からあったユダヤ教の経典で、紀元前5世紀頃から編纂が始まったようです。新約聖書は1世紀以降に各文書の執筆が開始され、2世紀には現在収録されている各文書が成立しています。そして2世紀の終わり頃には、新約聖書も旧約聖書と同等の権威を持つ文書として、キリスト教会の中で用いられるようになっていました。

 なぜキリスト教の中で、新約聖書が作られたのでしょうか。初代教会の人たちにとって、聖書といえばユダヤ教の聖書(旧約聖書)しかありませんでした。初代教会の人々はその権威をもとにして生前のイエス・キリストやその教えについて語り、各地で説教をして多くの信者を獲得していきます。最初のキリスト教は、人々の口と耳を通して広まっていったのです。

 しかしキリスト教が広まっていく中で、教会のリーダーたちが各地の教会に書き送った手紙が回覧されたり、書き写されて他の教会でも読まれたりするようになりました。これが新約聖書の原型になります。新約聖書には27の文書が収められていますが、その中でも最初に書かれたのは、異邦人への伝道者パウロが、親しい知人や各地の教会に書き送った手紙でした。新約聖書の大半は、こうした手紙類です。

 新約聖書には他にも、イエスの宣教活動を記した福音書や、初代教会の歩みを記した使徒言行録(使徒行伝)、預言書である黙示録が収録されています。これらの文書が書かれた1〜2世紀には、教会内で他にも多くの文書が書かれています。しかし教会の人々が時間をかけて少しずつ権威ある書物とそうでない書物をふるい分け、最終的に現在の27文書が新約聖書の正典として残ったのです。

 キリスト教の特徴は、あらゆる物事を聖書にひも付けて考えることです。初代教会の信徒たちは、旧約聖書に書かれていることを根拠にして、復活したイエスがキリストだと主張しました。新約聖書が成立した後は、そこに書かれていることを根拠にして、教会が神の教えを説いています。聖書に特定の根拠を持たない教えもありますが、そうした教えを説く教会や聖職者の権威は聖書を根拠にしているのですから、やはり聖書なしにキリスト教は存在しないのです。

もしも新約聖書がなかったら?

 最初のキリスト教は、新約聖書なしに成立しています。しかし2世紀以降のキリスト教に、新約聖書は必要不可欠なものです。

キリスト教の10大事件(3)

 キリスト教がどうやって世界最大の宗教になったのかには、歴史上の多くの出来事が複雑に絡み合っています。

 そこでキリスト教の長い歴史の中から、「この出来事がなければキリスト教は存在しなかった」「このことがなければキリスト教は現在まで生き延びることができなかった」という重要項目を紹介したいと思います。

 細かく数え上げるときりがないので、思い切って10の出来事に絞り込んでみました。貧しい知識に基づく独断と偏見に満ちた選択ですので、異論もあるとは思いますが、そのへんは少し大目に見てください。

 なお僕自身はキリスト教徒ではありませんので、その点は誤解の無きようにお願いします。

3. パウロの異邦人伝道(1世紀中旬)

 キリスト教は1世紀に、当時のユダヤ教の中から生まれた宗教です。イエス自身もユダヤ人の巡回説教師でしたし、直接の弟子たちもすべてユダヤ教徒でした。しかし現在のキリスト教は、ユダヤ教とは別の独立した宗教になっています。ユダヤ人たちが立ち上げた初代教会の教えを、ユダヤ教徒以外の人々にも広め、後のキリスト教への道を切り開いたのがパウロです。

 パウロはもともと、サウロと名乗っていました。小アジアのタルソス(現在のトルコのタルスス)出身で、熱心なユダヤ教信者として初代教会の人々を迫害していたといいます。しかし彼は復活したキリストに出会うという神秘体験を経て、キリスト教の信者に転向したのです。サウロはこの劇的な回心以降、パウロというギリシャ風の名前で熱心な伝道活動を行うようになりました。パウロは初代教会の本拠地があったエルサレムを避けるように、ユダヤ周辺地域のユダヤ人や非ユダヤ人(異邦人)たちにキリストの教えを伝えていきます。

 この当時、多神教社会だったローマ帝国内で、一神教のユダヤ教に興味を持つ非ユダヤ人は少なくなかったようです。しかしユダヤ人には独特の文化があります。モーセを通して神から与えられたとされる律法が、ユダヤ人の生活すべてを事細かく規定し、ユダヤ教徒になるためには律法のすべてを受け入れなければならないとされていたのです。非ユダヤ人にとって特に大きな障害になっていたのは、ユダヤ教徒になるには割礼(ペニスの包皮の一部を切り取る儀式)を受けなければならないという規定でした。

 これは信徒のほとんどがユダヤ人だった初代教会でも同じです。このため初代教会の教えに興味を持ち、イエス・キリストを信じたいと思いながら、教会の正式メンバーになれない人たちが少なくなかったのです。ユダヤ人キリスト教徒たちは、それを「神を畏れる人」と呼んでいました。神を信じてはいるが、正式なメンバーではない人たちです。

 パウロはこうした人たちに向けて、「神を信じる非ユダヤ人が、ユダヤ式の生活習慣を受け入れる必要はない」と宣言したのです。パウロによれば、神がモーセを通してユダヤ人に対して与えた律法は、イエス・キリストの死と復活を通して無効になりました。人間はモーセの律法を守ることではなく、イエス・キリストへの信仰を通して神とつながることができるのです。異教の生活習慣に馴染んだ非ユダヤ人たちは、今現在の生活を基本的には何も変えることなく、ただイエス・キリストを信じることでキリスト教の共同体に受け入れられます。

 こうしたパウロの主張は、初代教会で多数派だったユダヤ人キリスト教徒たちに、すぐに受け入れられたわけではありません。パウロの説く教えに反対し、イエス・キリストを信じるためにはユダヤ教徒と同じように律法を守ることが必要だと考える人たちも多かったのです。初代教会は発足から十数年で、深刻な分裂の危機を迎えます。もしここで教会が分裂していたら、その後のキリスト教は存在しなかったでしょう。

 しかし批判を受けながらもエルサレム教会を尊重し続けたパウロと、非ユダヤ人に対するパウロの布教活動に理解を示すエルサレム教会の幹部グループの努力で、教会の分裂はかろうじて回避されました。初代教会は非ユダヤ人の信者の負担にならない最低限のルールだけを残し、その他の律法について、非ユダヤ人は守る必要がないと決めたのです。この決定によって、初代教会の中に従来からのユダヤ教的なキリスト教と、非ユダヤ人たちのキリスト教が共存することになりました。キリスト教はローマの習慣や異教的要素を取り込みながら、多様化していくことになります。

 初代教会の中ではその後もエルサレムのユダヤ人教会が指導的な立場にあり、ユダヤ的なキリスト教が全体の主流でした。しかし西暦70年のユダヤ戦争をきっかけに、エルサレム教会の指導力は急速に衰えます。2世紀初頭の第2次ユダヤ戦争でエルサレムへのユダヤ人立ち入りが禁じられると、初代教会の流れをくむエルサレム教会は歴史の闇の中に消えてしまいます。ユダヤ的なキリスト教は消滅し、パウロが正当性を主張し、伝道に力を入れた非ユダヤ的なキリスト教が、その後のキリスト教の主流になったのです。

 現在エルサレムには、初代教会の流れをくむ正教会のエルサレム総主教庁があります。しかしこれはユダヤ戦争の後に再建された教会です。

もしもパウロの異邦人伝道がなかったら?

 キリスト教はユダヤ教に吸収されて消えてしまったはずです。

キリスト教の10大事件(2)

 キリスト教がどうやって世界最大の宗教になったのかには、歴史上の多くの出来事が複雑に絡み合っています。

 そこでキリスト教の長い歴史の中から、「この出来事がなければキリスト教は存在しなかった」「このことがなければキリスト教は現在まで生き延びることができなかった」という重要項目を紹介したいと思います。

 細かく数え上げるときりがないので、思い切って10の出来事に絞り込んでみました。貧しい知識に基づく独断と偏見に満ちた選択ですので、異論もあるとは思いますが、そのへんは少し大目に見てください。

 なお僕自身はキリスト教徒ではありませんので、その点は誤解の無きようにお願いします。

2. 初代教会の誕生(1世紀中旬)

 紀元30年頃、ナザレ出身の巡回説教者イエスは、過ぎ越し祭の巡礼客で賑わうエルサレムで逮捕され、十字架で処刑されました。逮捕直前まで彼に従っていた弟子たちは、ほとんどが身の危険を感じて姿を消してしまいます。イエスの遺体は裕福な支援者が引き取って墓に葬られましたが、それからわずか数日後、墓に安置されたはずの遺体が消滅するという事件が起きます。墓から消えたイエスは復活して次々に弟子たちの前に現れますが、やがて彼らの見ている目の前で天に昇って行きました。

 こうしたことはすべて新約聖書に書かれているのですが、記述はあちこちに混乱があり、イエスの死後に何が起きたのかは実際のところよくわかりません。しかし間違いのない事実として、残った弟子たちの誰もがイエスの復活を確信し、復活したイエスこそ人々が待ち望んでいたキリストだと主張しはじめたのは確かです。こうして誕生したイエスの弟子たちのグループを、世界で最初のキリスト教会、初代教会と呼びます。

 人望のあるカリスマ的なリーダーが逮捕処刑されたのですから、イエスの教団は弱体化し、解体や消滅しても不思議ではありませんでした。むしろそうなるのが自然だったようにも思います。しかしどういうわけか、多くの弟子や支援者、支持者たちが教団に残ったのです。イエスの伝道活動に付き添った十二人(十二使徒)と呼ばれる幹部たちのうち、初代教会には11人が残っています。脱落したのは、裏切り者とされたイスカリオテのユダだけです。

 イエスが逮捕処刑されたのはエルサレムですが、生前の活動のほとんどは、イエスの故郷ナザレも含めた北部のガリラヤ地方で行われています。しかし初代教会は、イエス処刑の地であり、ユダヤ教の神殿がある大都市エルサレムを拠点としました。そしてイエスの一番弟子だったペトロらが中心となり、処刑され復活したイエスこそが聖書に預言されたキリストであり、人々はイエス・キリストによって罪を赦されると説きました。こうした説教と同時に、ペトロらはあちこちで奇跡を行い、人々を驚かせてもいます。

 弟子たちの熱心な説教を聞いて、多くの人が教団に加わりました。教会に集う人々はイエスが復活したとされる日曜日ごとに集会を開き(主日礼拝のはじまり)、新たに参加するメンバーには入信儀礼としての洗礼を施し、パンを裂いて分かち合い(聖餐式のはじまり)、神の国の到来を願って熱心に祈っていました。信者たちは必要があれば互いに資産を持ち出し、必要に応じて分配する親密な共同体を作っていたようです。

 しかし教団が大きくなることで、周囲の他のユダヤ教徒たちとの対立や軋轢も生じます。イエスこそ神の子でありキリストだと主張する人たちは、従来からの信仰を守る保守的なユダヤ教徒たちの神経を逆なですることになったのです。ペトロたちは逮捕拘束されたり、鞭打ちなどの罰を受けることもありました。

 初代教会には、ユダヤ以外の外国で生まれ育ち、当時ローマ帝国の共通語だったギリシャ語を母語とするユダヤ人たちも大勢参加していました。こうした人たちは初代教会の中でも不利に扱われることが多かったばかりか、周囲の他のユダヤ教徒たちからは特に目の敵にされました。初代教会の中でギリシャ語を話すユダヤ人のリーダーだったステファノは、対立するユダヤ教徒のグループに捕らえられて殺されてしまいます。これがキリスト教での、最初の殉教者になったのです。

 こうした激しい迫害や弾圧にも関わらず、初代教会の信者は増え続けます。信者たちはエルサレムだけでなく、ローマ帝国内の大小さまざまな町や村に信者グループを作りました。

もしも初代教会が誕生しなかったら?

 イエスがキリストと呼ばれることはなく、その存在もあっという間に忘れ去られたでしょう。

キリスト教の10大事件(1)

 キリスト教がどうやって世界最大の宗教になったのかには、歴史上の多くの出来事が複雑に絡み合っています。

 そこでキリスト教の長い歴史の中から、「この出来事がなければキリスト教は存在しなかった」「このことがなければキリスト教は現在まで生き延びることができなかった」という重要項目を紹介したいと思います。

 細かく数え上げるときりがないので、思い切って10の出来事に絞り込んでみました。貧しい知識に基づく独断と偏見に満ちた選択ですので、異論もあるとは思いますが、そのへんは少し大目に見てください。

 なお僕自身はキリスト教徒ではありませんので、その点は誤解の無きようにお願いします。

1. イエスの宣教(1世紀前半)

 ほぼ二千年に渡るキリスト教の歴史の第一歩は、イエス・キリストの宣教です。キリスト教史の10大事件として、他の項目に異論をはさむ人がいるかもしれませんが、この項目については、おそらく誰も異議を唱えないでしょう。何しろキリストがいればこその、キリスト教なのですから……。

 イエスはナザレという小さな村の出身で、30歳頃に巡回説教師としての活動をスタートしました。説教師の生活に入る前に、イエスがどんな暮らしをしていたのかはよくわかりません。職業は何だったのか。結婚していたのか。家族構成はどうなっているのか。どこで聖書について学んだのか。はっきりしたことは誰にもわかりません。

 今ではキリストと言えばイエス・キリストのことですが、イエスの生前に、彼がキリストと呼ばれたことは(たぶん)ありません。イエスがキリストと呼ばれるようになったのは、彼の死から少し後のことです。彼がキリストと呼ばれるようになったところから、つまりイエスの死後に、キリスト教はスタートしたわけです。イエスの活動はキリスト教の誕生以前のことですが、イエスの存在なしにキリスト教は生まれず、やはりこれをキリスト教の歴史のはじまりと呼ぶべきでしょう。

 巡回説教者としてのイエスが説いていたことの中心は、神の国の到来と、悔い改めの勧めでした。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ 1:15)。神の国とは、神が直接統治する国という意味です。イエスが活動していた当時のユダヤ地方はローマ帝国の支配下にあり、古来より独立心旺盛なユダヤ人たちの不満は爆発寸前に膨れ上がっていました。イエスはその人々に向けて、間もなく人間による支配の時代は終わり、神が直接地上を支配するようになると説いたのです。現在の世界は一度終わり、新しい世界が出現します。人間はそれに備えて、生き方を改めなければなりません。神が支配する新しい世界にふさわしい、新しい人間に生まれ変わらなければならないのです。これが悔い改めです。

 イエスは巡回説教のために訪問する先々で、奇跡を起こすことでも知られていました。奇跡のほとんどは病人の癒やしですが、イエスはこれらの活動を通して支持者を増やし、旧約聖書の預言者たちと同じように、神から与えられた特別な能力(カリスマ)を持つ聖者として人々の尊敬を集めるようになっていきます。

 しかしイエスの活動は、たった2年ほどで終わってしまいました。紀元30年頃、訪問先のエルサレムで逮捕され、処刑されてしまったからです。イエスの生涯については、新約聖書の福音書に書かれていることしか資料がありません。そこには、イエスの活動を危険視したユダヤ教主流派の人たちが彼を逮捕し、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の総督の力を借りて処刑したと書かれています。しかしこれはイエスの死後、彼をキリストだと信じる人たちによる一方的な記述です。イエスの逮捕から処刑に至る過程でどんなことがあったのか、本当のことはよくわからないのです。

 イエスの活動は2年で終わりますが、その後、彼の弟子たちが「処刑されたイエスはキリストだった」という新しい宣教活動をはじめました。ナザレ出身の巡回説教者イエスは、弟子たちによってキリストと呼ばれるようになったのです。それがキリスト教の歴史の、本当の出発点になります。

もしもイエスの宣教がなかったら?

 イエスをキリストだとする信仰が生まれるはずもなく、キリスト教はこの世に存在しません。

「3人産め」は何が問題なのか

 自民党の桜田前五輪相が、同党参院議員のパーティーで「子どもを最低でも3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」などと発言した問題。

 マスコミが発言を切り取っているとか、「お願い」だから問題ないなどと擁護する人もいるのだが、僕はやはり問題だと思っている。

 なぜ問題なのか。

 それはこうした発言が、少子化問題を「女性が子供を産むか産まないかの話」にしてしまっているからだ。

 子供を産むのは女性だ。だから国の統計である「合計特殊出生率」なども、一人の“女性”が一生のうちに何人の子供を産むかという数値になっている。

 だが当たり前の話だが、女性は一人で子供を産めないのだ。子供を産むには父親になる男性の協力が必要になる。ならば少子化問題は「女性」だけの問題ではなく、そのパートナーとなる「男性」の問題でもあるはずだ。

 しかし桜田元大臣の発言や、それを擁護する人たち、場合によってはそうした発言を批判する人たちの思考回路からも、しばしばそうした視点が抜け落ちている。

 日本には今でも「子供を産むのは結婚してから」という強固な社会的規範が存在する。もちろん日本にもシングルマザーはたくさんいるのだが、そのほとんどは離別や死別によるものであって、結婚せずに独身で子供を産む人はまだ少数派だ。

 「子供を産むのは結婚してから」という規範が存在する以上、女性に子供を産んで貰おうとするなら、まず女性に結婚して貰わなければならない。

 桜田元大臣はこれについて「結婚しなくていいという女性がみるみる増えちゃった」と言っているらしいが、これもまったく現実を無視した話だ。女性の結婚意欲は今も旺盛で、それは統計の数値を見ても一目瞭然だろう。

 2015年の国勢調査では50歳男性の23.4%、50歳女性の14.1%に一度も結婚歴がなかった。この数値を生涯未婚率と言うのだが、はたして「結婚しない」のは女性なのだろうか? それとも、男性なのだろうか? 数値を見る限り、結婚しない男性の方がずいぶん多いのだが……。

 男性が結婚しない(できない)理由について、「高望みする女性が増えたからだ」と言う人がいるが、この数値はそれが眉唾であることを物語っている。女性はむしろ、なり振り構わず結婚を目指して行動している。相手がバツイチでも構わず結婚する女性が多いからこそ、生涯未婚率にこれだけの差が付くのだ。

 周囲を見回しても、女性向けの婚活情報は溢れているのに、男性向けのそれは少ないように思える。結局、世の中にニーズがないのだ。女性は婚活に熱心だが、男性はぼんやりと独身生活を謳歌している。今の世の中で「みるみる増えちゃった」のは、「結婚しなくていいという女性」ではなく、じつは「結婚しなくていいという男性」だという現実がある。

 こうした現実が少しでもわかっていれば、桜田元大臣が「結婚しなくていいという女の人が増えている」「お子さん、お孫さんには子どもを最低3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」と言うのが、いかにトンチンカンなことなのかがわかろうというものだ。

 桜田元大臣はその後、「子供を安心して産み、育てやすい環境を作ることが重要だとの思いで発言した」などと言い訳しているらしいが、これにしても前提が「女性が」ということであれば、まったく筋違いのことを言っているとしか思えない。

 とは言え政治家の中にもマスコミの中にも、少子化問題を「男性の問題」として語る論調が少ないのは気になっている。これは何年か前に独身の女性政治家が、「早く結婚して子供を産め」のようなヤジを飛ばされて問題になった時から気になっていたことだ。

 ヤジを飛ばす政治家の周囲には、独身の若い男性政治家が大勢いるだろう。自民党の中にもまだ独身の男性政治家がたくさんいる。政治家は地元に帰れば、後援会にもその家族にも、いい年した独身の男がゴロゴロしているはずだ。なぜそれを少子化にからめて批判せず、女性ばかりを揶揄するのだろうか。

 繰り返しになるが、少子化問題は女姓だけではなく、半分は男性の問題だ。それを両方見ないままどんな政策を打ち出しても、問題は永久に解決しない。底の抜けたバケツでいくら水を汲もうしても、まるで無駄なのと同じ事。しかし「子どもを最低でも3人くらい産むように」と言う政治家に、そうした意識は微塵もないだろう。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記