宅急便の総量抑制は良いことだ

宅急便

 ヤマト運輸の労働組合が今年の春闘で、経営側に宅配便の引受量を抑えるよう求めているという。

 宅配業界は人手不足に伴う長時間労働が常態化している。人手がなくても、荷物を引き受けてしまえば誰かが配らなければならない。人手がないなら、少ない人手が長時間労働でカバーするしかないのだ。

 人手を十分に確保するには、労働者の雇用条件を良くすればいい。しかしそのための原資は引き受けた荷物の運賃しかない。抜本的な雇用条件の改善には運賃の値上げが必要になる。

 インターネット通販最大手のAmazonは、プライム会員なら商品がいくらでも「運賃無料」になっている。末端で無料になっている運賃だが、Amazonとヤマトの契約はどうなっているのだろう?

 たぶんかなり大変な金額になっているはずだ。佐川急便は数年前にAmazonとの条件が折り合わなくなり、Amazonの小口宅配から撤退してしまった。ヤマトはその分を独占して売り上げアップしているはずだが、収益は悪くなっているらしい。

 当たり前だ。宅配はものすごく効率が悪い。末端の配達員が10個の荷物を持ち出しても、時間帯によっては配達できる荷物がゼロだったりするのだ。配達員は時給なにがしのアルバイト。配達する荷物がゼロでもそこに人件費は発生する。

 もちろん不在再配達が増えれば、配達員の労働時間は長くなる。それはそれで問題なのだが、労働時間が長くなった分の賃金はもらえるのだ。しかし会社の利益となるお金は、人経費が増える分だけ少なくなる。宅配の再配達は会社の収益を悪化させるのだ。

 宅配の再配達は大変だが、これは現場に人がふんだんにいれば問題は生じない。昼間配達できなかった荷物を、夜のシフトに入った別のアルバイトが配れば済む。夕方から夜にかけての再配達や配達依頼が多いなら、そこに重点的に人を配置すればいい。しかし宅配の仕事は常に人手不足なので、夜の再配達は昼間の配達員が残業してこなすしかないのだろう。

 僕自身は宅配便の引受量規制は悪いことではないと思う。それによって、宅配の運賃が値上げされる可能性があるからだ。

 例えば引受量制限が導入されると、こういうことが考えられる。

 基本的な運賃は今までと同じだが、地域ごとに引受可能な引受量の制限があって、それを超過すると営業所やセールスドライバーは荷物を引き受けなくなる。「今日はもう引き受けられないので、明日集荷します」とか「明日改めて営業所に持って来てください」ということになるのだ。

 取引先に対しては「月に荷物は◯個までで」という上限を定めた契約にする。

 しかし荷物は必然的に出てくる。それをどうするか?

 それは「割増料金」を支払ってもらった上で引き受けるのだ。「今日はもう引受量の制限を超えているけれど、30%割増しなら引き受けますよ」などとする。他にもビジネスユースの客に対しては、「毎月◯個まではこれまで通りの料金で引き受けるが、それを超えたら30%割増し」というような契約にする。

 まあ実際にどんな料金プランがあり得るかはわからないのだが、いずれにせよ「もうこれ以上引き受けません」という現場の声があったとしても、「そこを何とか頼みます」という利用者の要望があれば、両者の間で何とか金銭によって折り合いを付けるのが資本主義経済というものだ。

 しかしネット通販の荷物はとてつもなく増えている。おそらくネット通販最大手のAmazonは、近い将来品物の運送や宅配も自前で行うようになると思う。ヤマト運輸の引受量制限は、そうした動きを後押しすることになるかもしれない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

「黄小娥の易入門」を再読

黄小娥の易入門

 一昨年末に購入し、一度だけ簡単に目を通した「黄小娥の易入門」を、再び本棚から取りだして読んでいる。

 最初に読んだ時は、それほど面白いとも思わなかったのだが、これは自分で実際に易占をやりはじめると、いろいろと面白く読める本なのだ。

 というよりむしろこんなものは、自分で易占をやらない限り、なんのことやらサッパリワカラン!という本なのではないだろうか。

 この本の特徴は爻辞や変爻、さらに之卦などを無視して、陰陽六爻からなる象や卦辞にのみ焦点を当てていることだ。豊富な占例があるのだが、そのどれを取っても象や卦辞から運勢を解釈している。

 易占ではほとんどの場合、卦辞と爻辞を付き合わせて頭を悩ませることが多いのだが、この本はそれをせずに、本卦の解釈一本槍だ。この解釈の部分を読むと、「なるほど」と思わされることが多い。

 易の入門書としては迂遠なところがありお勧めできないのだが、これは本卦の解釈の実例集として読むのがいいのだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

アメリカ映画とキリスト教 -120年の関係史

アメリカ映画とキリスト教 -120年の関係史

 体裁としては研究論文であり、映画ガイドブックではない。しかしアメリカ映画史に興味がある人は、一読して損のない内容になっていると思う。

 ハリウッドでは聖書をモチーフにした映画や、キリスト教徒の生き方をテーマにした作品が数多く作られているのだが、この映画にもそうした作品は取り上げられている。だがそれだけではない。この本がテーマにしているのは、アメリカの映画産業とキリスト教の距離感なのだ。

 1920年代に起きた数多くのスキャンダルで、アメリカの保守的なキリスト教徒たちはハリウッドを悪徳の都だと見なした。ハリウッドは観客のボイコットを恐れて、キリスト教に媚びて擦り寄る姿勢を見せる。表現規制のための組織を作ったのだ。これは当初全く機能していなかったのだが、1930年代になって映画界の十戒とも呼べる「プロダクション・コード」を作り上げた。これがその後、30年以上に渡ってハリウッド映画を縛ることになる。

 第二次大戦が終わって冷戦がはじまると、1947年にはハリウッドで赤狩りがはじまる。共産主義者は無神論者であり、良きキリスト教徒であるアメリカ人の敵だった。ハリウッドは映画業界から共産主義者やそのシンパを追放することに決め、多くの者たちが映画業界を去った。

 1960年代にプロダクション・コードは消滅してニューシネマの時代が始まるが、その時代は10年程度しか続かない。伝統的なキリスト教からは若者が去って行ったが、「時代の反逆者」としてのイエス・キリストにシンパシーを感じる若者たちによって「ジーザス・ムーブメント」が起きる。

 1970年代にはキリスト教福音派が台頭して若者を中心に信者を増やし、1980年代にはレーガン政権が誕生。そんな時代の中で発表されたスコセッシの『最後の誘惑』は、アメリカのキリスト教界を二分する大論争を引き起こす。しかしこれに勝利したのは、保守的な福音派だった。

 1990年代からは「終末」をモチーフにしたディザスタームービーや、終末前の「携挙」をモチーフにした「ラプチャー・ムービー」がハリウッドの大手スタジオによって作られるようになる。

 この本が取り上げているのはアメリカ映画だけなので(アメリカに輸入される段階で騒動を巻き起こした『奇跡』が例外的に取り上げられている)、聖書を取り上げた映画でも、フランス映画の『ゴルゴダの丘』やイタリア映画『奇跡の丘』などは紹介されない。それらは「アメリカの映画産業とキリスト教の距離感」という本書のテーマの埒外なのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

八面体ダイス1個で易占い

八面ダイス

 易占用に八面体のダイスを1つ買ってきた。216円也。

 じつは同じようなダイスを少し前にも買っていて、それは八面ダイス2つと六面の普通のダイスが1つ。これで上卦と下卦と爻位を出すという、略式の易占法に使っている。

 今回買ってきたのはダイスが1つで、これを6回振って本卦と爻位を出す。時間はかかるが、この方が多少本格的になる。

 なぜ八面ダイス2つと六面ダイス1つの略占法ではダメなのか? この方法では易の面白さである「変化」が余り楽しめないからだ。

 筮竹を使って本式に易占を行う場合、各爻は老陽・少陽・老陰・少陰の4種類のどれかが出現する。このどれになるかは筮竹を取り分けた時の残りの本数で決まるのだが、これは以下のように決まっている。

  • 1本なら老陽(乾)
  • 2本なら少陰(兌)
  • 3本なら少陰(離)
  • 4本なら少陽(震)
  • 5本なら少陰(巽)
  • 6本なら少陽(坎)
  • 7本なら少陽(艮)
  • 8本なら老陰(坤)

 老陽と老陰は変爻で、老陽は陰に、老陰は陽に変化し、その結果が之卦になる。これを応用すれば、各爻を求める時に八面体のダイスでも同じことができる。数字の1が出たら老陽、2が出たら少陰という具合に各爻を決めていくわけだ。

 ダイスを6回振るうちに、変爻が何度も出ることもあれば、一度も出ないこともある。これが易の面白さなのだが、ダイス3つを使った略占法では、変爻が必ず1ヶ所に現れて、之卦も自動的に1つ決まってしまう。何度かやっているうちに、これがつまらないと思うようになった。

 というわけで、八面体のダイス1個で占う方式に改めてみた。この場合、陰陽や変爻の出現確率は、コイン3枚を使って各爻を出す擲銭法と同じになる。老陽と老陰が出現する確率はそれぞれ1/8で、少陽と少陰が出る確率はそれぞれ3/8だ。擲銭法なら新しい道具もいらないので、その方が手軽かもしれないけど……。

 八面ダイス2つと六面ダイスを使った占法は、筮竹を使った略筮法と同じ。八面ダイスやコイン3枚を用いた占法は、筮竹を使った中筮法を他の道具で代用したものだ。

 易占が当たるか当たらないかは文字通り「当たるも八卦当たらぬも八卦」なのだが、手近な道具で六十四卦や爻位を出し、それを易経のテキストと付き合わせて「どんな意味だろうか?」と考えるのはちょっと楽しい。

 じつはこれが、自分の生活を振り返ったり、日頃の考え方を整理する手助けになるのだ。そういう意味で、易経や易占は大人のための知的遊戯みたいなものだと思う。

 そんなこんなで、朝日選書の「易」もAmazonに注文しちゃいました。もうしばらくは、易にはまりそうです。

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投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

相手をバカにする人の考え方

うまくいっている人の考え方 完全版 (ディスカヴァー携書)

 ジェリー・ミンチントンの「うまくいっている人の考え方」を、空いた時間に少しずつ読んでいる。本のテーマは「自尊心をどう高めるか」で、具体的な方法が100のコラムになっている。

 昨日たまたま読んでいたコラムは、「バカにされても相手にしない」というタイトルが付いている。少し長いが、前半から中盤までを引用してみる。

 なぜ相手をバカにするようなことを言う人がいるのだろうか? それには多くの理由があるが、どれをとっても健全な理由ではない。
●相手が不愉快な思いをしているのをおもしろがる。
●自分と違っている人をバカにすることで優越感に浸る。
●精神的苦痛を相手に与えれば、自分の苦痛が減るような気がする。
●自分がバカにされるのを避けるために、人々の注意をそらそうとする。
●自分がバカにされると深く傷つくが、相手は自分ほどには精神的苦痛を感じないと思っている。
 幸せで充実した人生を送っている人は、誰にも苦痛を味わわせる必要性を感じない。こういう「必要性」を感じる人は、自分の不適切な行動の原因が未熟さと不幸にあることに早く気づいて反省してほしいものだ。

 SNSには「相手をバカにするようなことを言う人」があふれている。他国や多民族、日本国内でも自分と考えが違う人たちへの侮蔑的な発言を繰り返す「自称保守」や「ネトウヨ」は、その代表例だろう。

 ジェリー・ミンチントンはそうした人たちを『幸せで充実した人生』を送れない、『未熟』で『不幸』な人たちだと断じている。この本のテーマに沿って言うなら、他人をバカにする人には「自尊心」がないのだ。

 自尊心を持つ人は、言い換えるなら「自分自身を愛することができる人」は、他人をバカにしたりしない。それがかえって自分を貶めることになると知っているからだ。

 「わたしは価値ある人間だ」と誇りに思うのは良い。それは自尊心のあり方のひとつだ。だがそのために、自分を他人と比較する必要はない。他人と比較することで生じる相対的な優位性など、その分野で自分より優れている人が現れれば途端にペシャンコにされてしまうではないか。

 「わたしはAより価値ある人間だ」という相対的な評価は、「わたしはBより劣った無価値な人間だ」という評価を生み出すリスクをはらんでしまう。その恐怖から目を背けるため、人は自分より劣ったAをバカにする。Aを不愉快にさせ、場合によっては足を引っ張り、仕事を妨害する。でもそれは、自分自身の劣等感の裏返しに過ぎないのだ。

 「日本は良い国だ」と自慢したり、誇りに思ったりするのは結構な話だ。しかしそのために、日本を外国と比較する必要はない。そんなことをすれば、日本はたちまち「他国との相対的な比較」の中で、大きな劣等感を抱え込むことになる。

 かつての日本は、アジアの中で唯一の経済大国だった。「日本は良い国だ」「素晴らしい国だ」と思っていた。日本が世界の中で唯一頭が上がらないのはアメリカだけで、他の国に対して日本は何らの引け目を感じることもなかった。しかし「経済的な優位性」というモノサシで自国を見ていた結果、ここ十数年で韓国や中国が急激な経済発展を遂げて追いついてくることに恐怖を感じざるを得ない。

 もう十年以上前からサラリーマン向け雑誌の表紙には「間もなく中国経済のバブルは崩壊する」とか「韓国経済は失速する」という文字が踊っていたが、今のところこれらの国が完全に崩壊したり失速した事実はない。日本は追いつかれ、部分的には追い抜かれているところもある。

 その結果日本で吹き荒れているのが、中韓に対するヘイトスピーチではないのか。日本は自分自身に対する自信をなくしてしまったのだ。だから自分より下であった中国や韓国をバカにして、少しでも溜飲を下げようとしている。なんだか情けない話だと思う。

 日本人が日本を好きであることや、日本人が日本を誇りに思うことに理屈はいらない。子供が理屈抜きに自分の母親を慕うように、その国で生まれ育った国民は母国を誇りとし、理屈抜きに愛すればいいのだ。なぜそこで、中国や韓国を引き合いに出さねばならないのだろう。そんな必要性は毛頭ないのに……。

 日本人は健全な自尊心を取り戻さなければならない。中国や韓国、あるいは他の国と比較して日本を称賛することが「愛国心」だと思っている人がいるなら、正直そんな愛国心は不要だと思う。そうした「相対的な愛国心」はすぐにメッキがはげる。どんな分野であれ、日本より優れた国はいくらでもあるからだ。

 そういう意味では、「愛国心教育」なるものはほとんど無駄だと思う。愛国心は学校の教室で学ぶ道徳ではなく、自国の歴史に親しみ、文化に触れ、自然を愛でることの中から、自然に身に付くものなのではないだろうか。ある対象をよく知ることが、その対象を愛することにつながるのだから。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

中韓蔑視は右翼でも保守でもない

瑞穂の國記念小學院

 土地取得の過程で何らかの不正があったのではないかと言われている瑞穂の國記念小學院(大阪府豊中市)だが、同系列の学校法人塚本幼稚園幼児教育学園で、中国人や韓国人に対する差別的な言葉が大っぴらに語られているらしい。

 報道によれば、塚本幼稚園は保護者に対して「よこしまな考えを持った在日韓国人や支那人」と書かれた文書を配布したり、元在日韓国人の保護者に「韓国人と中国人は嫌い」と書いた手紙を送ったりしたのだという。

 塚本幼稚園は子供たちに五箇条の御誓文や教育勅語を暗誦させたり、戦前の軍歌を歌わせることで知られる「復古調の幼稚園」なのだという。でもそこで中国や韓国の人たちを差別するような発言が行われているなら、それ復古でも戦前回帰でも何でもない。それは単なる「狭量な排外主義」だろう。

 明治以降の日本の外交政策はアジア主義(汎アジア主義、大アジア主義)だ。欧米列強に対抗するため開国し、急速に近代化を成し遂げた日本は、日本を中心にアジア諸国を一致団結させて欧米に対抗できる力を付けるべきだと考えた。日本にとって、アジアの他の国々は支援すべき隣人だった。

 「アジアの中の日本」を考えるアジア主義は、明治時代になっていきなり現れたわけではない。江戸時代にも日本は朝鮮と活発な貿易を行っていたし、中国とも貿易を行っている。日本は古代から中国や朝鮮半島と深い関わりを持っていて、それこそが日本の文化や伝統でもある。

 戦前の右翼はアジア諸国を近代化させるのが日本の使命だと思っていたから、アジア諸国から日本に勉強に来る学生たちを支援したし、祖国近代化のために運動する民族主義者や革命家たちを助けることもあった。

 「日本はアジアのリーダーとして欧米列強に対抗せねばならぬ」という考えが、結果としては日本のアジアへの介入を強め、日中戦争や第二次大戦へとつながっていったのも事実だろう。八紘一宇のスローガンは、その最たるものだ。だが少なくとも明治から戦前までの日本人は、自分たちを「アジアの一員である」と考えていたし、「日本はアジア諸国との関係の中で生きていかねばならぬ」と思っていたのだ。

 だが現在の日本で「保守」や「右翼」とされる人たちは、アジア諸国との関係で日本をどうにかして行こうという発想がない。だから平気で中国や韓国に対する蔑みの言葉を口にする。

 塚本幼稚園では子供たちに五箇条の御誓文や教育勅語を教えているらしいが、五箇条の御誓文には『智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ』とある。排他主義は御誓文の趣旨にそぐわない。それは教育勅語にある『朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ』という言葉にも反している。

 塚本幼稚園は保守でも右翼でもない。ファッションとしての懐古趣味であり、一部のウケがいいからそれらしいポーズを取っているだけなのだ。こんなものが「保守」や「右翼」であるはずがない。これは単なる「狭量な排外主義」だ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

プレミアムフライデーは効果あるの?

Premium Friday

 来週金曜日(2月24日)からプレミアムフライデーがはじまるのだが、これは社会的に定着するんだろうか?

 そもそも「毎月最終金曜日は午後3時退社にしよう」というのは、そうすることで余暇時間が増え、消費が拡大するだろうという皮算用によるものだ。日本の内需は縮小している。ここに何からの刺激を与えるために、とりあえず「休みを増やそう」という方向に向かったらしい。

 でもこれは「内需拡大のために余暇時間を増やす」という発想が、そもそも最初からダメなのではないだろうか?

 日本の高齢化は年々進行している。日本は人口も減少しはじめている。会社をリタイアして毎日が日曜日になっている高齢者には、そもそも「3時退社」なんて別世界の話だ。人口減少は今後ますます加速するので、その不足分を余暇の増大でまかなおうとすれば、いずれ週休4日ぐらいにしないと間に合わなくなるだろう。

 消費を増やす特効薬は、可処分所得を増やすことだ。つまり日本人全体の給与アップをすればいい。ところがプレミアムフライデーによって、時給換算で働いている非正規労働者(パート、アルバイト、派遣社員)などは、むしろ所得が減ってしまうのだ。

 今や一般オフィスも半分以上は派遣やパートの社員で占められている。派遣社員の平均給与は1,500円ぐらいだろうか。平日18時までの勤務が15時までに短縮されれば、3時間分の給与が減ってしまうわけだ。その額は4,500円。これだけ手取りが減ったら、まず考えるのは節約だ。消費を拡大するどころの騒ぎではない。

 そもそもプレミアムフライデーでは、日本中の誰もが休みを取れることを前提としていない。街に繰り出した会社員たちは、どこでお金を使うのだろうか。飲食店やレジャー施設だろう。そうした場所で働いている人たちには、もちろんプレミアムフライデーなど関係がない。

 時給換算で働いているサービス業のアルバイトは、忙しい時間帯だから、お客が増えたからといって時給が上がるというわけではない。金曜午後にお客が増えればサービス業の経営者は潤うかもしれないが、働くアルバイトはただ忙しくなるだけで実入りは増えない。

 「金曜の午後は家族で一緒に過ごしましょう」というのは、とんだお笑いぐさだ。会社は早くから退社時刻になっても、学校は平常授業で子供が帰ってくるのは夕方になるし、場合によっては部活もあれば塾通いもある。夫婦揃ってプレミアムフライデーの恩恵を得られる家庭などまれで、夫がプレミアムフライデーで早くに帰宅しても、サービス業でパート勤務をしている妻はいつも通りの勤務時間だろう。

 プレミアムフライデーにまったく効果が無いとまでは言わない。一部の会社では制度として取り入れるのだから、そこに一定の効果は生まれるだろう。だがそれは、日本全体で見ればきわめて限定的なものだと思う。

 繰り返しになるが、日本の内需を増やすには全体の給与を引き上げればいい。簡単なことなのだ。それができないまま実施されるプレミアムフライデーは、絵に描いた餅に終わるだろう。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

準備のよろしいことですなぁ……

全部、言っちゃうね。 ~本名・清水富美加、今日、出家しまする。

 女優の(というか、既に「元女優」と呼ぶべきなのかもしれないが)清水富美加が幸福の科学に「出家」するため芸能界を突然引退して大騒ぎになったと思ったら、今度は早速本を出したのだという。

 何だかずいぶんと手回しのいい話じゃないか。出たばかりの本はAmazonでは入手困難でプレミア価格が付いているが、おそらく幸福の科学出版の本としては異例のヒットになるのではないだろうか。

 報道によれば、彼女は出演映画の撮影に今月3日までは何事もなく参加していたのだという。5日の撮影を病気理由に休み、その後はインフルエンザを理由に撮影不参加。11日に事務所から映画のプロデューサーに「重大な話がある」と連絡があり、このあたりから芸能ニュースに彼女の出家の話が出るようになった。

 12日には教団側から出家が正式発表されたが、現時点で本人がカメラの前に出てきての記者会見などはない。マスコミが本人からの情報に飢えていたところに、今回の告白本が出てきたから皆ががっつりとここに食いついたわけだ。

 今回の告白本の出版タイミングを見ると、彼女の「電撃引退」が事前の周到な準備によって行われていたことがわかる。契約期間を数ヶ月残し、映画やテレビの仕事を放り出すようにして雲隠れしたのも、おそらくは「そうすることで世間の目を集められる」という狙いがあってのことだろう。

 もちろん今回の本は、彼女の出家の発表以降に企画されたものではない。彼女の「出家」とそれに続く告白本の出版は、どう短く見積もっても数ヶ月前から準備されていたはずだ。つまり彼女は現場に大混乱が生じるのを承知で、素知らぬ顔で映画の撮影現場に通っていたことになる。

 おそらく映画関係者は怒り心頭だろう。だが関係者が怒れば怒るほど、彼女への世間の注目が集まって本が売れ、教団の主張が世間に流布することになる。

 要するにこれって、教団ぐるみの盛大な炎上マーケティングですね。

 こうなったらその炎上に加担してしまうこと自体が教団や彼女自身の活動を利することになるのだから、マスコミも本当ならこの件については沈黙しておきたいところだと思う。でも「わかっちゃいるけどやめられない」のが、芸能マスコミなんだろうけどね……。

 今回起こされた事件は、幸福の科学という教団にとって間違いなくプラスだったと思う。最近の教団は以前ほどの勢いがなく、信徒の高齢化も進んでいたはずだ。それが有名若手芸能人の出家で、一躍「若者の宗教」というイメージを作り上げることに成功したのではないだろうか。

 しかし彼女の突然の「出家」について「そこまで追い詰められていたのかもしれない」などと擁護のコメントをしていた人たちも、こうなったらさすがに彼女をかばう気にはなれないだろうね。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

まるでスパイ映画じゃないか

父・金正日と私 金正男独占告白 (文春文庫)

 金正男がマレーシアのクアラルンプール空港で暗殺されたというニュースには驚かされた。

 彼は一時は金正日の長男であり、金王朝の後継者として、ゆくゆくは北朝鮮の最高指導者になるのではないかと言われていた男だ。

 だが彼は金正日の後継者になれず、王朝の後継者となったのは異母弟の三男の金正恩だった。なぜこうなったのかはよくわからない。これが2010年のことだ。

 それから7年もたって、なぜ暗殺なのか……。

 まるで戦国時代の大名が、跡目相続で骨肉の争いを繰り広げるような話。あるいは旧約聖書の列王記で、父王ダビデの跡目を継いだソロモンが兄を粛正した話にも似ているかもしれない。

 いずれにせよ、あまりにも時代がかっているのだ。しかしそれが北朝鮮という独裁王朝国家の今の姿でもあるのだろう。北朝鮮は数百年前の世界を、21世紀の今も生きている。

 恐ろしいのはその数百年前の感覚の人たちが、核ミサイルを手に入れようとしていることだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

ロボットやAIは人口減少対策になるのか?

鉄腕アトム

 日本は少子化で人口が減少しはじめている。現在は統計上の数字として「人口が減ったらしい」という話をしているだけだが、あと10年もすると、街を歩いていても高齢者ばかりで若い人たちがほとんどいないという状態になるはずだ。

 まあ今でも地方都市の駅前商店街や、平日昼間の映画館は似たような状態ではある。それが日本全国どこに行っても、どんな状態でも、似たような風景になってしまうわけだ。

 これはことさら暗い未来を予言しているわけではなく、人口推計からわかる単なる事実を述べている。

 日本が高齢者ばかりになる一方で、労働人口である若年層の人口は減っていく。既に日本のあちこちで人材難が起こっていて、後継者がいないために会社を解散したり整理したりする事例は多い。今後はそれが、ますます加速して行くことだろう。

 日本の社会保障は世代間扶養方式なので、少なくなった若年層の肩に、高齢者の生活がガッシリとのし掛かる。

 「団塊世代は今後20年で半減するから負担はだいぶ減るはずだ」と言う人も入るが、そういう人たちは日本の人口ピラミッドを見てみればいい(既にピラミッド型にはほど遠いけれど)。団塊世代の人口は確かに突出して多かったが、その後も「戦後ベビーブーム世代」が大きなボリュームを占めているという事実は変わらない。団塊世代が片付いても、「高齢者の数が多い」という日本の人口構成は変わらないのだ。

 ならばどうするのか? 「ロボットやAIの技術で労働者不足は解消できる」「最新技術で生産性が上がれば、社会保障なども解決できる」と言う人がいる。

 これにはいくつかの問題がある。まずは期待されているロボットやAI技術が、いつ実用化されるかという問題だ。

 ロボットやAIの技術が、人間の仕事の多くを代替するようになることは間違いないと思う。これは18世紀末に起きた産業革命にも匹敵する大変革であり、人間の生活そのものを根本から変えてしまうに違いない。しかしその技術を、我々はまだ手にしていない。自動運転あたりは比較的早く実用化されそうではあるが、それすら完全自動運転が実用化されてバスやタクシーの運転手が不要になるまで、まだ10年や20年はかかるのではないだろうか。

 仮に技術が完成しても、それが普及浸透するまでは一定の時間がかかる、産業革命は18世紀末のイギリスではじまったが、それがヨーロッパ各国に広まったのは19世紀前半だ。自動車は19世紀末から20世紀初頭には、完全に実用化の段階に入っていた。しかしそれが庶民のレベルにまで普及したのは、日本では1960年代になってからなのだ。

 実用に足るだけのロボットが量産化されたとしても、それが普及するまでは一定の時間がかかる。ロボットが実用化され、AIが実用化され、人間の仕事の大半を代替できるようになったとしても、その普及に時間がかかれば、労働者不足はまったく解消されない。そしてこの間にも、日本の人口減少と労働者不足は進行していくのだ。

 今から数十年後、かなり衰退が進行している日本に、ロボットやAIで大規模な設備投資を行う余裕があるだろうか? グローバル経済の時代には、技術に国境が無い。技術を一国で独占することはできないのだ。数十年後の日本がロボットやAIで世界のトップレベルの技術を仮に持っていたとしても、日本でそれが売れなければ技術は海外に移転するだろう。

 ロボットやAIは夢の技術だが、それが夢のようなバラ色の未来を約束してくれるわけではない。そうした不確定な未来に希望をつなぎ、「少子高齢化や人口減少も恐るるに足らず」というのは、あまりにも楽観的すぎると思う。それは「もうじき共産主義革命が起きる」と信じていた左翼活動家の妄想とどこが違うのだろうか?

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記