日米開戦から75年

ハワイ・マレー沖海戦

 写真は山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』のポスター。日米開戦の翌年12月に、開戦1周年を記念して作られた作品だ。これを観ると、当時の日本にとって世界を相手に戦争をしたことがいかに誇らしいことであったかがわかる。

 この映画が公開された昭和17年の暮れには、日本はまだ戦勝ムードに酔っていた。でもこの年の6月にはミッドウェー海戦で日本が負け、日本軍の快進撃は止まって形勢は逆転している。ソロモン諸島のガダルカナル島にはアメリカ軍が上陸し、激しい戦闘の末に12月には日本が島から撤退しはじめる。日本人の多くが知らないうちに、日本は敗戦に向けて急坂を転がり落ちていったのだ。

 安倍総理が今月26日・27日にハワイを訪問してオバマ大統領と会談するのに合わせ、真珠湾のアリゾナ記念館を訪れて犠牲者慰霊のための献花を行うという。今年は日米開戦75周年という区切りのいい年だ。オバマ大統領は今年5月に広島を訪れているので、その返礼という意味もあるのかもしれない。(日本政府は否定している。)

 安倍首相は「謝罪のためではなく慰霊のためだ」と言っているのだが、これを「不戦の誓い」だと言うなら、それは「真珠湾を攻撃すべきではなかった」ということであって、結果としては謝罪と同じ意味を持つのではないだろうか。(日本政府は否定している。)

 日本は太平洋戦争で徹底的にアメリカに叩きのめされ、国土が灰になり、多くの人が殺されたにもかかわらず、戦後の日本人はみんなアメリカが大好きになった。戦争中には「鬼畜米英」と言っていたのに、なんと変わり身の早い人たちだと呆れるかもしれない。

 でもそれは誤解がある。日本人は、じつは戦前もアメリカが大好きだった。戦前の日本は戦後の日本と同じぐらいアメリカナイズされていて、映画館ではハリウッド映画が公開されていたし、アメリカの文化が日本のあちこちに浸透していたのだ。戦前……と言っても幅があるが、例えば1930年前後の日本人にとって、最も親しみを感じる外国はおそらくアメリカだったに違いない。

 戦争中の日本はそのアメリカを鬼畜扱いしていたわけだが、それは国際政治と戦争に翻弄された結果だった。アメリカと日本の関係は1937年頃までは穏やかなものだったが、それがほんの数年で険悪化して戦争になってしまうのだから恐ろしい。しかし日米関係にとって最悪な時期は、10年と続かなかった。1945年の敗戦で、日本はアメリカに屈服したからだ。

 安倍首相をはじめとする自民党の政治家たちは、アメリカと日本の同盟関係をとても重要視している。日本人は何だかんだ言ってアメリカが大好きだし、今この時点で、日本とアメリカが戦争状態になることなど誰も考えていないだろう。

 だがそれは1930年代の日本でも同じなのだ。政治家たちはアメリカとの関係を大切にしていたし、日本人もアメリカが大好きだった。日本とアメリカが戦争をするなんて誰も考えていなかったし、アメリカとまともに戦争をしたって日本が勝てるはずはないと誰もが考えていた。でもその日米関係はたった数年で険悪な状態になり、今から75年前にとうとう戦争になったわけだ。

 日本は平和国家だ。戦後71年間、日本はどの国とも戦争をしていない。でもそんな国だって、数年後にはとんでもない戦争をやっているかもしれない。「そんなバカな」と言うかもしれないが、少なくとも75年前の日本はそれをやったのだ。国際情勢は数年で変わる。政治家の言うことも数年で変わる。マスコミの動向だって数年で変わる。戦争なんてとんでもないと言っていた国と国民が、たった数年後に戦争をしていることもある。

 日本はそれを、自ら証明しているのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

カジノ法案と公営ギャンブルの衰退

カジノ

 日本での大規模カジノ施設解禁に向けた、いわゆる「カジノ法案」が衆院本会議で可決され、今月半ばには参院でも可決成立する見通しになったらしい。

 ほとんどマスコミでも話題にならないうちに、日本社会の姿を大きく変えてしまうかもしれないこうした法案が、あっという間に成立してしまうのが最近の日本の政治だ。マスコミがしっかりしていないのか、それともマスコミが問題として取り上げても読者や視聴者に情報が届かないのか。おそらくその両方なのだろう。

 日本にカジノ施設を作ることについては、ギャンブル依存症や治安悪化への懸念なと、いくつかの問題が指摘されている。しかし僕自身はいくつかの理由で、日本にカジノがあっても構わないのではないかと考える。

 まず日本には既に、社会的に公認されたギャンブルがいくつも存在している。競馬や競輪、競艇やオートレースのような「公営ギャンブル」はその代表だし、宝くじやスポーツくじもギャンブルだ。パチンコの出玉を景品交換所で換金することも現在では合法になっているので、パチンコやスロットに関しては日本に数少ない民間のギャンブル施設として容認されていることになる。主として暴力団組織が運営している違法カジノや賭場もあるようだが、わざわざ危険な闇社会に足を踏み入れずとも、日本には多くの合法的なギャンブルが多数あるのだ。カジノが合法化されたとしても、そこに新たなギャンブル施設が増えるだけだろう。

 施設が新たに増えることでギャンブル依存が増えるのではないかと心配する人がいるが、ギャンブル依存症対策についてはカジノの有無に関わらずしっかり行ってほしい。もし公営カジノ(公認カジノ)の登場でギャンブル依存についての社会的な関心が高まり、そこに振り向ける財源をカジノ税収の中から負担してもらえるなら願ったり叶ったりだ。

 カジノができることでギャンブル人口が増え、依存症の人が増加するという説そのものに対して言うなら、僕はそうならないのではないかと考えている。ギャンブルをする人の割合は限られていて、その限られた人たちが世の中にたくさんあるギャンブルの間を移動しているだけなのではないだろうか。ギャンブルをする人たちに関しても、ほとんどの人たちは可処分所得の中でギャンブルに避ける割合は決まっていて、所得が減ればギャンブルの掛け金も減るのが普通だと思う。

 例えば競馬や競輪のような公営ギャンブルは、かつてに比べるとだいぶ衰退している。赤字の施設も多いらしい。競馬競輪のようなギャンブルに、参加する人が減ったのだ。その人たちは今どこにいるのか。駅前や街道沿いのパチンコ・パチスロ店に移動した。しかしこれもまた、最近はお客さんがどんどん減っているらしい。これは「若者の◯◯ばなれ」と同じで、趣味が多様化したことでギャンブルに投じるお金の行方が分散化したのだろう。

 カジノ施設を作ればお客がわんさか来て、税収もアップすると考えている人たちは、いったいどんな根拠でそんなことを言っているのだろうか。国内市場に関して言えば、新たな発展はあまり見込めない。現在暴力団の違法カジノに通っている人たちは、明るく健全な公営カジノができればそこに移動するかもしれない。でもそんな客は微々たるもの。ほとんどは他のギャンブルから移動してくるので、カジノ施設が作られれば競馬や競輪などの業界は客離れに苦しみ、これらの競技施設を持っている自治体は赤字拡大に苦しむのではないだろうか。パチンコ業界も衰退が激しくなると思う。

 「インパウンドだ」だの「海外からの旅行者にカジノを楽しんでもらうのだ」という説もどうだか怪しい。海外旅行でカジノを楽しみたい人は、既にラスベガス、モナコ、マカオなどに足を運んでいると思うからだ。アジアなら韓国もカジノに力を入れているし、シンガポールやクアラルンプールにもカジノがある。日本が海外観光客向けに「日本版カジノ」のブランド価値をアピールするのは、かなり困難な道のりになるのではないだろうか。

 ひょっとすると現在カジノ合法化を急ごうとしている人たちには、競馬や競輪などの公営ギャンブルが衰退していることに対する焦りがあるのかもしれない。「競馬から人が減った。競輪はもうダメだ。ならばカジノだ!」ということなのかもしれない。やりたければやればいい。僕は特に反対する理由はないと思う。でもカジノを作っても、日本人は最初の内こそ物珍しくて足を運んでも、数年であっという間に飽きてしまうと思うんですけどね……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

配偶者控除150万円への拡大はまやかし

130 Limit

 自民党と公明党の与党税制協議会は今月2日の会議で、2018年から配偶者控除の対象を年収103万円以下から150万円以下に拡大することを決めたという。

 ただしこれでは税収が不足するので、世帯の主たる稼ぎ手の年収が1,120万円を越えたところから3段階で控除額を削減し、1,220万円を越えたところで完全に控除対象から外すことにするらしい。

 新聞各紙はこれを受けて、女性が働きやすくなったと報じているのだが、そう簡単なものでもないだろう。

■企業の扶養手当

 これについてマスコミでしばしば取り上げられているのが、企業が従業員に支払っている扶養手当の存在だ。最近は減ってきているようだが、それでも結婚して家族がいる従業員に対して何らかの手当てを支給している企業は多いらしい。そしてその支給基準が、配偶者控除と同じ年収103万円なのだ。

 これを150万円まで引き上げると、企業は手当てを支払う対象者が増えて負担が増してしまう。だからこの機会に手当てそのものを廃止したり、支給の条件を手直しする企業も出てくるだろう。しかし一番簡単なのは、税法上の基準はどうであれ、社内規定としての扶養手当ての支給基準はそのままとすることだ。

 これだと被扶養者が年間103万円を越えて働くと、会社からの扶養手当が支給されなくなってしまう。家族構成にもよるが、会社によっては世帯あたり毎月数万円の手当てを支給しているというから、それだけで年間数十万円の家計収入が減ることになる。扶養手当をもらっている家庭で、被扶養者が103万円を越えて働くようになるかどうかは、扶養手当の制度がどう変わるかにかかっているのかもしれない。

 しかしこれは、民間企業が個々の裁量でやっている問題だ。扶養手当が存在しない会社も多い。それより問題になるのは、150万円よりずっと手前に待ち構えている130万円の壁だろう。

■130万円の壁

 サラリーマン家庭で被扶養者になっている配偶者は、主たる稼ぎ手が加入している厚生年金と健康保険に家族として加入することが出来る。被扶養者は自分で保険料を一銭も支払うことなく、基礎年金と健康保険に加入することができるのだ。会社に勤めている被保険者の保険料も、扶養家族がいるからといって高くなるわけではない。つまりロハで年金と保険に加入できるのだ。

 しかし年収が130万円を越えると、扶養から外れて国民年金や国民健康保険に自分で加入する義務が生じる。その保険料は年金だけで年間約20万円。国民健康保険料は自治体によって異なるが、ざっと10万円ぐらいだろうか。つまり合計30万円ほどが社会保険料の支払いに消えてしまうのだ。

 これだと150万円稼いでも、手もとには120万円しか残らない。働けば働くだけ収入が増えるようになるのは、130万円に社会保障費の自己負担分を加えた年収160万円を越えて以降だ。それまでは働いた分がそっくり社会保障費の支払いに消える。

 130万円以下の収入を、一足飛びに160万円以上に増やすのは結構大変だ。最低賃金の全国加重平均額は823円。160万円稼ぐには、月22日勤務で毎日7時間半のフルタイム勤務にしろという話になる。もちろん地域によっては賃金がこれより低いわけだから、その場合はフルタイム勤務をしても160万円には届かない。

 しかしサラリーマン家族の非扶養者になっていれば、自分で保険料を支払わなくても受けられるサービスはまったく同じ。ならば年収が130万円に届きそうになった時点で働くのを控え、扶養の範囲内で働こうとする人は多いはずだ。

■106万円の壁は限定的

 今年は厚生年金の加入基準が見直されて、新たに106万円の壁が出来たとも言われている。しかしこれは条件が厳しいので、これを壁として意識する人はあまりいないのではないだろうか。何しろ対象になるのは、従業員数が501人を越える大企業だけ。それに対して給与所得者の6割はその対象外となる中小企業に勤めているのだから。(ただし派遣社員は契約の主体である派遣元が、結構大会社になっている可能性があるかも。)

 それに厚生年金はサラリーマンの配偶者が加入する基礎年金より将来もらえる年金額が増えるので、もしも106万円越えで社会保障費の支払いを求められるようなら、これはむしろ払ってしまった方がいいように思う。

■制度改正の目的は何か

 今回配偶者控除の範囲が拡大されたことで、一体何が起きるのか? 現時点ではまだいくつもの分厚い壁が残っているので、これまで103万円の範囲で働いていた人たちがいきなり150万円まで働くようになることはあり得ない。もちろんそんなことは、与党税調だって百も承知なのだ。

 今回の制度改正の目的は、配偶者控除の対象となる家庭に所得の制限を付けることにある。これまで主たる稼ぎ手の収入が幾らであっても扶養控除で免除されていた税金を、制度改正によって徴集することができるようになるのだ。この効果は大きい。

 要するに「増税」でしかないのだが、マスコミはこのことにほとんど触れない。増税になるのは主たる稼ぎ手の年収が1,120万円を越える家庭だけで、これは日本人の平均給与から見るとそれほど多くないからだ。新聞やテレビなど大手マスコミの社員は多くが増税になるはずだが、それに対して「増税けしからん!」と言えないのは読者や視聴者の嫉妬が恐いからだろう。

■将来的に制度はどうなるか

 一番の問題は、サラリーマンの配偶者(妻)が優遇されすぎていることにある。サラリーマン家庭でも子供は成人すればたとえ無収入でも年金保険料を支払い義務が生じるのに、サラリーマンの妻は100万円以上の収入があっても保険料を一銭も支払わなくて済むのだ。

 結婚している夫婦でも、自営業なら夫婦揃って国民年金と国民健康保険に加入しなければならない。会社を辞めて無収入になっていても、独身の人は年金と健保に自主加入の義務が生じる。

 要するにサラリーマンの配偶者だけが、ことさら手厚い保護を受けているのだ。これは税や社会保険料負担の公平性に反するんじゃないだろうか?

 非正規雇用も増えているし、未婚や離別で独身になってる人も多い。将来的にはサラリーマンの配偶者だけを優遇する現在の制度に対して、不公平だという声が強まっていくと思う。(すでにそういう声はあるけどね。)おそらく今後10年以内に、サラリーマンの配偶者からも年金保険料や健康保険の保険料を徴収しようとする動きが出てくると思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

となりのイスラム

となりのイスラム

 副題には「世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代」とある。現代社会のイスラム教徒の暮らしや考え方を平易な文章で紹介してくれるイスラム入門で、とても興味深く、面白く読むことが出来た。

 日本で出版されているイスラム入門書には、いくつかの大きなパターンがある。

  • クルアーンやスンナなどに書かれるイスラム教の教えを通して、イスラム教徒の生活や考え方を紹介するもの。井筒俊彦の本などはこの典型。
  • 中東やヨーロッパで起きているイスラム関係の事件や最近の研究事例などから、最近のイスラム教の事情について解説したもの。ヨーロッパやアメリカの学者の翻訳も多い。
  • イスラム教徒である著者の視点を通して、イスラム教に対する非イスラム側の誤解や偏見を除こうとするもの。(最近は日本人ムスリムによる本も増えてきている。)

 しかしこの本は、このどのパターンにも当てはまらない。それが本書のユニークな点だ。

 著者はイスラム地域研究家で、頻繁に中近東のイスラム圏やヨーロッパに足を運んでいるが、本人はイスラム教徒ではないという。長年に渡ってイスラム教徒と親しく付き合い、彼らの生活習慣や考え方を知りつつ、彼らと同化することなく「他者」としてのポジションを取り続けているわけだ。

 著者が考えるイスラム教徒の特徴は、以下の5つだという。

  1. 人間が一番えらいと思わない人
  2. 人と人のあいだに千引きをしない人
  3. 弱い立場の人を助けずにはいられない人
  4. 神の定めたルールのしたでは存分に生活をエンジョイする人
  5. 死後の来世を信じて、楽園(天国)に入れてもらえるように善行を積もうとする人

 著者はこれらのことについて、具体的なエピソードを交えて紹介していく。だがクルアーンや五進五行のような、教科書的なイスラム紹介からは少し距離を置いている。この本で紹介されているのは教科書的な「イスラム教」ではなく、イスラム教の教えを今も生きる「イスラム教徒」の姿なのだ。

 それは日本人も含めた西欧型の考え方をする人たちとは相容れない生き方をしている人たちだが、その生き方にはイスラム流の人間洞察や社会洞察に裏打ちされた合理性がある。日本人の目から見ればそれは不合理に見えるかもしれないが、ひとたびイスラムのルールの中に入ってしまえば、それこそがもっとも合理的なのだ。だが両者の考え方や生き方に、何らかの妥協点を見つけて折り合いを付けるのは難しい。

 そのきしみがイスラム原理主義過激派の活動やイスラム国の台頭という形で社会問題化しているのだが、それに対して西欧型社会がイスラム排除やイスラム教徒に対する世俗化の強要という態度を取れば、ますますきしみは大きくなる。

 著者は本書の終盤で、ヨーロッパでのイスラム排斥とイスラム国の台頭の背景を解説する。だがそれに対して、いかなる処方箋も、着地点も示せずにいるのだ。「ここまでわかっているのに、なぜ出口が示せないのだろうか?」とも思うが、ここまでわかっているがゆえに、かえって容易な処方箋や着地点を示せないのかもしれない。

 いずれにせよイスラム教徒は今後も増えていくだろうし、日本でもイスラム教徒に接する機会は増えていくだろう。そのとき日本人はヨーロッパと同じ「排除」の方向に動くのか、良い意味で日本的な宗教への寛容さや鷹揚さを発揮してイスラムと「共生」していく道を選ぶのかが問われている。

 僕はここで日本人の「宗教に対するだらしなさ」に期待したいのだが、最近は日本でも排外主義的な言論がまかり通るようになっているので、実際には暗い未来が待っているかもしれない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

旧宮家の復活は憲法違反じゃないの?

竹田恒泰

 先日の「皇室改革を急がないと皇統断絶するぞ!」という記事では、とりあえず「男系の女性天皇」までは早急に認めてしまうべきだろうと書いた。しかし世間の自称・保守派の中には、「旧宮家の男系男子が皇族に復帰する」という案が強く主張されているようだ。

 だが旧宮家の復帰なんてことが、現在の日本で可能なのだろうか? 右派タレントの竹田恒泰などはそれが簡単なことであるかのように主張しているのだが、これは自称・保守派の中だけで通用しているファンタジーではないだろうか。僕自身は、旧宮家の皇族復帰は不可能だと考える。その根拠は憲法第14条の存在だ。

第十四条
1.すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2.華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3.栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 日本では貴族が存在しない。家柄によって特別扱いされるのは皇族だけだ。旧宮家の血を引いた一族であるという理由だけで皇族という特別な身分に取り立てられるとすれば、それは憲法が禁じる「門地による差別」に他ならないのてはないだろうか。

 旧宮家が皇族から離脱したのは、終戦後の1947年だった。今から69年前だ。この時に皇族から一般国民になった人は、最も若い人でも70歳前後の老人になっている。こうした人たちが皇族に復帰しても、もはや皇統の継承には何の影響も与えられない。

 もちろん自称・保守派が「旧宮家の復活」と主張しているのは、69年前に皇族を離れた人たちを皇族に戻せということではない。69年前に皇族を離れた人たちの子供や孫を、新たな皇族としてロイヤル・ファミリーの一員に加えろと主張しているのだ。「先祖が皇族ならその血を継承している者は皇族になる資格がある」という理屈だ。

 具体的に考えてみよう。

 タレントの竹田恒泰は「旧皇族」を自称しているようだが、1975年生まれの彼自身が皇族だったことは一度もない。彼の父の竹田恆和も竹田宮家の皇室離脱直後に生まれているので、やはり皇族だったことは一度もない。仮に竹田恒泰やその子供が皇族に復帰するなら、それは憲法が禁じた「門地による差別」になってしまう。

 旧宮家の復活には、憲法改正が必要になる。しかし「門地による差別」を容認するような憲法改正が、現在の日本ではたして認められるだろうか? それはまず不可能だろう。

 では旧宮家の男系男子に皇位を継承させることや、皇位継承者にそうした者を加えることはまったく不可能なのか?

 これは皇室典範の改正によって、可能になるかもしれない。

 具体的には、現在皇室典範の9条で禁止されている養子を解禁すればいいのだ。その上で女性皇族しかいない宮家に、旧宮家の血を引く外部の一般家庭から男子の養子を迎えればいい。養子を取って宮家を継承するにあたっては皇室会議の承認を得ることとして、その内規で「旧宮家の男系男子からの養子のみを認める」などとしておけばいいだろう。

 自称・保守派の中には「旧皇族の家に生まれた男系男子を未婚の女性皇族と結婚させればいい」などと言っている人もいるが、未婚の女性皇族は一般人と結婚した時点で皇族を離れてしまうので、相手が旧皇族であろうと誰であろうと無意味な話だ。もしそうした形で男系男子の血筋を皇族内に残そうとするなら、やはり養子を解禁して結婚相手に宮家に入ってもらうか、女性宮家の創設しか道はない。

 なお女性宮家の創設について憲法14条違反だという意見を見かけるのだが、この根拠が僕にはよくわからない。皇族の資格は皇室典範に記されているので、それを改正すれば結婚後も内親王や女王が皇族の身分に留まることは可能だろう。少なくとも法的な手続きとしては、憲法改正が必要になりそうな旧宮家の復帰よりはるかにハードルが低いものだと思う。

 しかし「旧宮家の子供を女性皇族しかいない宮家に後継者として迎え入れる」にしろ、「未婚の女性皇族と旧宮家の家に生まれた男性を結婚させる」にしろ、こんなものは「旧宮家の復活」と同じレベルのファンタジーだ。「そういう方法も考えられるよね」という机上の空論に過ぎない。これらのアイデアを国民的な議論の場で討論し、世論として盛り上げて行くには少なくとも十数年はかかるだろう。

 だがその十数年の内に、現在の皇室はひどく痩せ細ってしまうのだ。これは避けた方がいい。議論の時間を稼ぐためにも、まずは「女性天皇の是非」と「一代限りの女性宮家創設」の議論を急いだ方がいいと思う。

 僕自身は「女性天皇もあり」で「将来的には女系天皇が現れても仕方がない」と思っているのだが、心情的には伝統重視の保守主義者だから、「男系男子が天皇である!」という理屈もわかるのだ。だがその「男系男子の天皇」を実現するためには、議論のための時間が必要になる。そしてその時間は、もう限られたものになっているのだ。「女性天皇」と「女性宮家の創設」は、議論のための時間を作る数少ない道だと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

マインドフルネスは目的地ではない

Buddha

 最近は気が向くとNAVERまとめを作っているのだが、先日は「5分でわかるお釈迦様の教え(仏教の基本教義)」というまとめを作ってみた。その前に「5分でわかるキリスト教の基本教義」というのを作っていたので、その続編かシリーズものみたいなまとめだ。

 仏教のまとめと言っても、中身は四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)についての簡単な紹介だ。四諦については以前もこの日記で「仏教の「四諦」についてのメモ」という記事を書いたことがあるのだが、そこでは八正道が後まわしになっていたので、今回改めてまとめられたのは良かったと思う。

 八正道は、仏教の「実践」について8つの方法を述べたものだ。おそらく釈迦が直接説いた教えにさかのぼれるのではないだろうか。仏教の中ではもっとも古い、基本的な教えだ。

 釈迦の説いた仏教の基本的な考え方は、四諦にまとめられている。苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)だ。世界はすべて苦しみであるという現状認識が苦諦、苦しみには原因があるという分析が集諦、苦しみの原因を消し去れば苦しみも消えるという理論が滅諦、ではどうすれば苦しみの原因を消し去れるのかという実践が道諦なる。

 この四諦は説明のために、さらに詳細に論じられている。例えば苦諦については四苦八苦の教えがあるし、集諦と滅諦については十二縁起や十二因縁がある。道諦について詳細に論じたのが八正道。(仏教というのはどうも4の倍数が好きだ。四諦、四苦八苦、十二縁起、すべて4の倍数になっている。)

 この八正道は仏教のもっとも基本的な修行法なのだが、それは正見(しょうけん)・正思惟(しょうしゆい)・正語(しょうご)・正業(しょうぎょう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)の8つだ。このうち正念と正定は瞑想修行のことを意味している。

 正念はパーリ語の「サティ」が原語で、意味としては「気づき」のこと。英語だとマインドフルネス。最近世間で流行しているマインドフルネス瞑想は、じつは八正道の中から「正念」の部分だけを取り出したものなのだ。

 仏教におけるマインドフルネス(正念)は、瞑想修行の目的地ではない。この先にさらに「正定」という別の瞑想があり、しかもそれすら仏教者が修行によって目指す「悟り」とは別の物なのだ。八正道はあくまでも悟りに至る通過点であり、マインドフルネス(正念)だけができたとしても「それがどうしたの?」という話に過ぎない。

 マインドフルネスで人生が変わるとか、仕事がバリバリできるようになるということは、たぶんないのだと思う。マインドフルネスを通して身に着けた心の整え方や物事の見方を、他の分野に応用しては初めてマインドフルは実生活の役に立つ。仏教なら仏道修行のための八正道にマインドフルを位置づけるわけだし、GoogleではSIYというプログラムを作って、マインドフルネスの技術を日々の仕事の中に生かす訓練を行っている。

 八正道については仏教の入門書に必ず書かれているものなのだが、読んでいてもよくわからないことが何度もあった。「正念とは正しく念じること」とか「正定とは正しい座禅」などと言われても、そもそも念じるということが何なのかわからない。このあたりはもう少し勉強しなければ……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

皇室改革を急がないと皇統断絶するぞ!

愛子内親王

 愛子内親王が15歳の誕生日をお迎えになったそうで、それに合わせて写真や映像がマスコミに報じられました。急にほっそりとた大人っぽい顔立ちにおなりで、思春期の女の子の成長ぶりには驚くばかりです。一部には痩せすぎじゃないかという声もあるようですが、まあ心配するほどのこともないんじゃないでしょうか。

 現在国政の場では天皇陛下の生前退位(譲位)を巡って、その是非も含めての議論が行われている様子。ここでは皇室典範の改正にまで手を付けず、特別法で今上陛下の御退位を認めるという方向に向かいそうです。そうする理由は「皇室典範そのものに手を付けると、女性天皇や女系天皇を認めるか否かという議論が派生して収拾がつかなくなるから」という説があります。確かにそれはあり得る話なんですが、女性天皇や女系天皇を認めたくない人たちは、いったいそれで何を守ろうとしているんでしょう?

 皇室の伝統? まあそれは確かにそうかもしれないけど、女性天皇は過去にも存在したのだから、それ自体で「伝統ではない」とは言えません。「女性天皇を認めれば、それが女系天皇を認めることにもつながる」というのはありそうな話ですが、だからといって「女性天皇を認めない!」というのは話の筋が悪い。それは「憲法をどこか1ヶ所でも修正すれば、それが9条の改正につながってしまう!」という左翼の言い方と同じです。

 それはそれで、これはこれ。そんなものは、個別に議論すりゃいいじゃん!

 確かなことは、議論すら避けているうちに、時間だけはどんどん経過してしまうという事実です。秋篠宮家の眞子内親王は現在25歳。佳子内親王は間もなく22歳におなりです。「まだまだ時間はある」と思っている余地はそうないかもしれません。秋篠宮妃の紀子様が結婚したのは、紀子様が23歳の時だったからです。眞子様や佳子様については、明日にでも宮内庁から「交際している方がいて間もなく婚約」という話が出たっておかしくない年齢なのです。

 まあ女性皇族は晩婚化が進んでいて、皇太子殿下の妹である黒田清子さんが結婚したのは36歳でしたし、ヒゲの殿下こと故・寬仁親王のふたりのお嬢様は34歳と33歳で現在も未婚、高円宮家にも30歳と26歳のお嬢様がまだ残って皇族としてのお仕事を続けています。しかしあと10年もすれば、これらの女性皇族も大半は結婚して皇籍を離れてしまうでしょう。

 これを皇統の危機と言わずして何と言うべきか。「秋篠宮家に悠仁さまがおられる」というのは当然わかっているのですが、その悠仁さまがお乗りの自動車が事故を起こしたという先日のニュースに、戦慄した人は多いはずです。あまり考えたくはないことですが、今後病気や事故で悠仁さまの身に何かあるということだって考えられるわけです。皇統の安定的な継承ということを考えるなら、このまま指をくわえて皇室が痩せ細っていくのを眺めているべきではないのです。

 じゃあどうすんの?

 とりあえずは、過去に存在した「女性天皇」までは認めてしまうことですね。これで数十年後には愛子様が天皇になり、皇位継承者としては悠仁さまの系統との2本立てになります。これだけで「万が一の場合に次がない」という最悪の事態は避けられます。女性天皇は過去にも存在しましたから、少なくともこれをもって伝統破壊だと非難する保守派はいないはずです。

 その後のことは?

 もうそれは、さらに何十年かかけて議論するしかないでしょう。とりあえず「女性天皇」までは認めて、その後20年ぐらいは議論封印でいいんじゃないでしょうか。今回15歳になった愛子様の様子を拝見させていただき、個人的には「この方が天皇になってもオレは構わんけどな」と思いましたよ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

今年の流行語と社会の分断

新語・流行語大賞

 今年の流行語大賞は「神ってる」に決定だそうだトップ10に入った他の候補が、「ゲス不倫」「聖地巡礼」「トランプ現象」「PPAP」「保育園落ちた日本死ね」「(僕の)アモーレ」「ポケモンGO」「マイナス金利」「盛り土」だというから、それに比べれば「神ってる」の方がましなのかもしれない。固有名詞ではないので使う機会があるかもしれないし、あまりネガティブなものでもないしね……。

 しかし「神ってる」が流行語かと言われると、それってどうなんだろうか。確かに多少話題にはなったけど、少なくとも僕の周囲でこの言葉を使っている人はまったく見なかったし、ネットでも広島優勝後にこの言葉を頻繁に見かけるようになったということはない。要するにこれは流行している言葉ではないのだ。

 他の候補を見てもそうだが、これは結局「今年話題になった言葉」ぐらいの意味であって、これらの言葉が人口に膾炙していたとは思えないし、今後日本語の中に定着していくとも思えない。それとも僕のまったく知らないところで、「神ってる」はものすごく使われてたんでしょうかね?

 今年のトップ10の中で個人的に気になった言葉は、「トランプ現象」「保育園落ちた日本死ね」「盛り土」あたりだった。建築の世界では「盛り土」を「もりツチ」ではなく「もりド」と読むことを、日本中の人がこのことで初めて知ったのではないだろうか。

 他のふたつ、「トランプ現象」と「保育園落ちた日本死ね」については、どちらも社会の分断を象徴する言葉だったと思う。

 「トランプ現象」は「トランプ旋風」ではないところがミソだ。これはドナルド・トランプという個人の問題ではなく、それによって引き起こされたアメリカの社会現象だった。トランプの歯に衣着せぬ正直な物言いは、アメリカ社会で暗黙の了解事項になっていたポリティカル・コレクトネスを吹き飛ばしてしまった。差別はよくないとか、社会的な弱者に配慮しなければならないといった、アメリカが何十年もかけて作ってきた規範は、トランプの登場であっという間に溶けて消えてしまったのだ。

 大統領選を引っかき回して、あげくの果てに次期アメリカ大統領になってしまったトランプは、アメリカ社会を分断してしまった。それが「トランプ現象」なのだ。来年の就任以降、トランプがアメリカをどこに導くかはわからない。だが分断の傷は、当分残り続けるに違いない。

 一方「保育園落ちた日本死ね」も、日本社会に根強く残るミソジニー(女性蔑視や女性嫌悪)体質を暴き出した。その後に日本各地の議会で起きた女性議員に対する口汚いヤジなども含めて、日本社会の中にある分断を白日の下にさらしてしまったのではないだろうか。

 ベスト30の中にあって大賞どころかベスト10からすら漏れてしまったのだが、「民泊」がなぜこぼれてしまったのかは謎だ。特にネガティブな言葉でもないし、今年は十分話題になり、今後も使われ続けて行く言葉だと思うけどな。「歩きスマホ」も現代風俗をあらわした言葉だし、「AI」も今年ならではの言葉だと思う。

 新語・流行語大賞の候補には「今年の10大ニュース」の見出しみたいな言葉もたくさん入っていて、これが何をどんな基準で選ぼうとしているのかよくわからないんだけどね。まあこうした感想を持ってしまうのも、ある種の分断なのかなぁ……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

民進党よどこへ行く?

NHKニュース

 自民党と連合の幹部による政策協議が、5年ぶりに行われたという。そこでは自民党の茂木政調会長が「連合の政策に最も近いのは自民党だ」と言えば、連合の逢見事務局長が「自民党とは政策面での距離感は無い」と応じる一幕があったらしい。

 なんじゃこりゃ? 自民党はもう、なんでもありだな。まあ、昔から何でもありなんだけどね……。

 連合はかつて民主党(現・民進党)の最大の支持組織で、連合がなければ民主党政権はなかっただろう。その連合が民進党から離れて、自民党にラブコールを送っているのだ。

 連合は民進党が選挙対策で共産党と協力するのに反対の立場だし、原発の再稼働にも賛成の立場。昔はともかく、今は民進党より自民党の方が連合の方針に合う。それでもこれまでは民進党への気兼ねから、自民党にいい顔するのも節操がないと思っていたのかもしれない。

 しかしここに来て、連合は自民党に急接近。おそらく連合は、現在の民進党に愛想を尽かしたんだろう。政権を担う力が無い政党を支援しても、自分たちの政策が国政の場で取り上げられるチャンスはない。それよりは政権与党に接近して、自分たちの意向を政策に生かしてもらった方がいい。連合としては当然の選択だろう。

 国民の気持ちは既に民進党から離れている。これまで民進党を支えてきた連合も、民進党に愛想を尽かして自民党に急接近している。

 さて、民進党はどうすりゃいいんだ?

 ま、どうしようもないわなぁ……。

 民進党がこうなってしまったのは、要するに自業自得で身から出たさびだ。民進党の個々の政治家の資質が自民党に大きく劣っているとは思わないのだが、集団になった時の振る舞いが醜悪極まりない。なぜ民進党は一枚岩になれないんだろうか。なぜ民進党は互いの足の引っ張り合いや権力闘争にばかり熱中するんだろうか。

おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。 (新約聖書 マタイによる福音書 12:25)

 民進党はまさにこの言葉の正しさを実証してきた政党だ。彼らは国民に託された権力行使の権限を身内同士で奪い合い、やがて互いに争うことに熱中するあまり、国民に託された権限をドブに捨てて足で踏みにじった。それを大事に拾い上げ、こびりついた泥を拭き取り、懐深くに抱いて決して離すまいとしているのが現在の自民党だ。

 しかし民進党はその様子を見ても、まだ自分たちの間違いに気づかない。いまだに互いの足の引っ張り合いをしている。これでは国民の誰もが、民進党に対して愛想もこそも尽き果てて当然ではないか。

 民進党が復活することはあり得るだろうか? 僕はもうダメだと思う。自民党に満足しているわけではないし、むしろ現在の自民党に国政を任せておくのはヤバイと思うことも多い。でも民進党に国政を託せるとは思えない。あの連中に任せても、また身内同士で争って大切な権力をドブに捨てるだけだろう。

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。 (マタイによる福音書 7:6)

 民進党はどうするつもりだろうか? それは我々が考えることじゃない。民進党の人たちが考えることだ。考えた上でそれに国民が納得し、支持できると思えば、国民はまた民進党を応援するかもしれない。

 国民の気持ちは移ろいやすいのだ。民主党政権が生まれる直前、自民党の評価は極端に低かった。それが今では、見違えるほどになっている。民進党にだって、まったくチャンスがないわけではない。

 でも、今の体質では永久にダメだろうけどね。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

かわいい☆キリスト教のほん

かわいい☆キリスト教のほん

 「完全教祖マニュアル」や「仁義なきキリスト教史」の架神恭介による、かなり本格的なキリスト教史の本だ。

 正直言うと、この本を誰が読むんだかさっばりわからない。出版社はなぜこんな本を企画して出してしまったんだろうか。勘違いされると困るのだが、それはこの本がつまらないとか、内容的にどうしようもないと言っているわけではないのだ。

 むしろそれは逆で、この本はものすごく本格的でハードなキリスト教史の概説本になっている。キリスト教について学ぶにはキリスト教史(教会史)の知識が不可欠なのだが、この本はカトリックにもプロテスタントにも偏ることなく、イエスの時代から現代までに起きた重要事項が網羅されている。

 著者は自称「ファッション仏教徒」なのだという。信仰の外側から書かれたキリスト教の本として、記述の正確さやバランスの点で、これがとても優れた本であることは間違いない。著者は聖書をしっかり読み込んでいるし、キリスト教史についてもかなりの勉強をし、難解な教義や教理についても精一杯理解しようと務めた上で、自分の理解できる範囲内のことを書いているように見える。知ったかぶりせず、わからないものはわからない、受け入れられないものは受け入れられないと言い切る姿勢は清々しい。

 しかし記述のタッチはひどく辛辣だ。キリスト教を突き放し、嘲笑し、あきれ返ってみせる言葉にあふれている。それがこの本を、「誰が読むんだかさっばりわからない」ものにしているのだ。世の中にはキリスト教の概説書が溢れかえっているが、キリスト教史の概説本は少ない。キリスト教概説書の多くは、じつはキリスト教系の出版社から出されている。キリスト教史はキリスト教徒が学ぶものなのだ。ごく簡単なものは、キリスト教系学校の授業で教科書として使われるために出版されている。

 しかしこの「かわいい☆キリスト教のほん」を読んで、どれだけのキリスト教徒が面白がれるだろうか。教義や教理について真面目に考えるより「家に帰ってオナニーしていた方がまし」と言い切るこの本に、違和感や不快感を持つ信徒の方がずっと多いことは想像に難くない。ここでは初代教会の信徒たちも、初期キリスト教会の教父たちも、その後のカトリックもプロテスタントも、ケチョンケチョンに、ギッタギッタに揶揄されているからだ。

 ではこの本は、キリスト教徒ではない一般の人向けの本なのだろうか。そうとも言えるのだが、これもかなり読者を限定してしまっている。この本はキリスト教やキリスト教の歴史について、ある程度の事前知識を持っていないと面白く読めないからだ。それこそ信徒向けのキリスト教史概説本を1冊か2冊は読んだ上で、信仰抜きにこの本を読める人には痛快な読み物だと思う。でもそんな人が、この日本にいったいどれだけいるんだろうか?

 たぶんこの本はさほど売れないはずだ。おそらくそのことは、著者も承知の上でこの本を書いている。さして売れないとわかっていても、本を何冊か書き上げさせてしまうだけの力がキリスト教や聖書にはあるということだろう。その魅力はどこにあるのか。

 それはこの本の巻末に簡単に触れられているように思う。

聖書には素晴らしい教えしかないのに、後のキリスト教徒がそれを実践できずに邪悪な振る舞いをした、というわけではなく、素晴らしさも邪悪さも含んだ至って人間的な書物「聖書」があり、同時に素晴らしい面も邪悪な面も持つ人間的な人間がそれを実践してきたのです。キリスト教というやつは人間の美しさも邪悪さもそのままに体現している、まさに人間そのもの、まったくもって人間的な行為ではないかと思うのです。

 聖書に書かれているのは「宗教的なキレイゴト」ではなく、生々しい人間ドラマそのものだ。そこには人間のもっとも美しい面も書かれているが、もっとも邪悪な面も書かれている。そんな聖書を正典とするキリスト教もまた、称賛に値する素晴らしいことを行うと同時に、誰もが眉をひそめるような血なまぐさい行為に手を染めてきた。

 著者にとっては「仁義なきキリスト教史」に続くキリスト教史の本だが、前著が歴史の中にある個々の「点」をクローズアップして小説風に綴ったものであるのに対して、本書はキリスト教2000年の歴史を「線」として記述する本になっている。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書