易占をするとわかること

 3月からはじめた毎朝の易占は、今もほぼ欠かさず続けている。時々忘れたり時間がなくて朝できないときは、その日の夜に占う。それも忘れれば翌日だ。翌日に前日の卦を出しているのだから、これはもう「占い」ではないだろうけれど……。

 易占を毎日やっていると、面白いことが実感としていろいろと理解できるようになる。それは例えば「確率」の問題だ。

 易経で易占の結果として出される基本的な「卦」の数は全部で64ある。サイコロでランダムにこれを出しているわけだから、64の卦のどれが出るかは確率的にはすべて同じだ。最初の卦の「乾」から最後の卦の「未済」まで、64分の1の確率で出ることになる。どれも平等に機会が与えられているのだ。

 しかし実際に毎朝サイコロを振っていると、何度も繰り返し出てくる卦もあれば、まったく出て来ない卦もある。かれこれ5ヶ月近く毎日サイコロを振っているのだが、僕の場合は水火既済がこれまでに7回出て最多なのに対して、乾為天や地山謙、山火賁、山地剥など、10個の卦はまだ1度も出ていない。

 「確率が同じ」であることは「結果が同じ」になることを意味しない。これは確率論の基本なのだが、人間は何となく「確率が同じなら結果もだいたい同じになる」と思いがちなのではないだろうか。六十四卦の出る確率がすべて同じなら、64回の操作でどの卦をだいたい一通り出るような気がしてしまう。そんなことはあり得ないのだが(それは僕がやっている実例を見れば一目瞭然だ)、「確率が同じなら結果も平等になるはずだ」という人間の生理的な感覚を、数学的な正しさが裏切っていく様子を実際に見られるのは面白いと思う。

 こうした偏りはまったくの偶然によって生じているものだ。少なくとも僕はそう考えている。しかしこうした偏りが、何らかの必然や暗示のように感じられてしまうのも面白い。

 例えば先日の日曜日に出た卦は「遯の大過に之く(遯の卦が大過に変化する)」だった。翌月曜日の卦は「大過の困に之く(大過が困に変化する)」だ。「遯→大過→困」という連続性が、きちんと示されている。もっとも火曜日の卦は「師の坤に之く」で、「困」は無関係なんだけど……。

 しかし火曜日の卦が「師の坤に之く」だったものが、今日の水曜日には「坤の師に之く」になったりすると、そこには偶然とは言え面白さを感じるのだ。

 なお変爻が出る確率は4分の1で、多くの場合はひとつの卦の中で複数の変爻が出る。以前は「複数の変爻が出たときは本卦と之卦の卦辞だけ見て占う」ことにしていたのだが、変爻が複数出る事があまりにも多いので、数日前からは「変爻が2回出たら後から出た変爻の爻辞も見る」という形に変えてみた。これは朱子が行っていた方法だそうで、易占の中では伝統的な方法のようだ。

 すべて本卦と之卦の卦辞は参考にするのだが、変爻をどう扱うかは以下のようになるらしい。

  • 無変爻 本卦の卦辞のみ見る(それしかない)
  • 一変爻 本卦の変爻の爻辞を見る
  • 二変爻 本卦の後から出た変爻の爻辞を見る
  • 三変爻 変爻は用いず本卦と之卦の卦辞のみ見る
  • 四変爻 之卦の二つの不変爻のうち先に出た方を見る
  • 五変爻 之卦の不変爻を見る
  • 六変爻 之卦の卦辞を主とする

 それなりによく考えられているとは思うが、なんだかヤヤコシイのだ。易占を何らかの「啓示」と考えると、出された変爻にも意味を求めたくなるのだろう。変爻と無変爻を同じには扱いたくない。なるべく無駄なく変爻を生かしたいというのが、こうした複雑な仕組みを生み出しているような気もする。

 自分の過去の易占の結果を見ると、これまで最高で五変爻という例があった。しかし出現数で言えば、一変爻、二変爻、無変爻がほとんどだと思う。(一度全部数えてみようかな……。)三変爻以上は変爻を用いず、卦辞だけを見る方法でしばらくやってみようと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

東大卒貧困ワーカー

 いやはや凄まじい内容である。しかしここに書かれている事はすべて事実だと思うし、著者の分析や批評も的を射ていると思う。ここから見えてくるのは、長年の不況の中で労働者派遣という「禁断の木の実」を食った日本社会が、その毒に当たってズブズブと沈んでいく姿だ。

 派遣労働というシステムが造り出したものは何だったのか。それは新しい身分制度だった。時間給の単純労働を割り当てられた労働者(派遣やパート、アルバイトなど)は、いくら働いても給与が上がらず、業務上のスキルも身につけられないまま年を重ねていくしかない。時間給で給与が上がらなければ、少しでも多くの給与を手にするために「より楽な仕事で長時間働こう」というインセンティブが生まれる。結果ととして、単純労働の現場は業務内容が改善しないまま、漫然とした長時間労働が続くことになる。これでは業務の効率化や生産性の向上は望めない。

 もう一方で、労働法を完全に無視した労働者の搾取もまかり通っている。交通費自腹で長時間労働させ、何らかの事情で仕事が早く終わればその分の賃金を支払わずに放り出すことは、もはや当たり前になっている。準備や後片付けのための時間に賃金を支払わない学習塾。開店前のミーティングや閉店後の模様替えと反省会に連日アルバイト店員を長時間拘束した上で、開店時間分の賃金しか払わない人気アパレルショップ。研修と称して3ヶ月ずつ無給でアルバイトを使い潰して入れ換えるカフェや美容院。もうすべてが無茶苦茶なのだ。

 かつての日本には働く人々がそれぞれの職場で仕事に習熟し、小さな改善と効率化を積み重ねることで大きな成果を生み出す仕組みがあった。それを支えていたのが、新卒一括採用と年功序列型の雇用システムだ。しかし派遣やパート・アルバイトが支えている現在の日本では、そうした旧来型の雇用システムが機能しなくなっている。あらゆる職場で、正社員と派遣社員、パート・アルバイトが混在して働いている。職場が一致団結して何らかの改善をするとか、会社のために何らかのアイデアを出すという意欲はそこからは生まれにくい。明日クビを切られるかもしれない派遣社員やアルバイトに、そこまでのものを求めるのは無理というものだろう。

 派遣労働者が悪いわけではない。アルバイトやパートが無責任なわけでもない。働く人たちは正社員も非正規の人たちも、それぞれが自分の得る利益を最大化しようとしてがんばっている。だがその頑張りの目指す方向は、正社員と非正規では異なるのだ。職場は分断され、効率化を阻まれ、生産性は上がらない。

 人件費を引き下げることでコストを削減するというここ20年来の日本経済の戦略は、結果として日本全体に見えない毒をばらまいている。賃金は低く抑えられ、生産性は引き上げられず、労働者はいつまでも非熟練のままで、生活の先行きが見えないことから未婚化が進み、必然的に少子化が進んでいく。

 派遣労働は不況の日本にとって麻薬だった。それは人件費削減によって売り上げ減少に伴う企業の痛みを和らげたが、逆に企業が持っていた体力を奪い去っていった。景気が回復しても、日本の企業には新しいイノベーションを生み出す力がもはやないのだ。

 今後、日本は急速な人口減少と労働者不足に見舞われる。だが一度「非正規雇用」とうい麻薬の味を覚えてしまった日本企業は、もはや正規雇用を基本とする昔ながらの雇用に戻すことができないはずだ。20年かけて非正雇用を中心とする経済システムを作り上げ、それに最適化してしまった日本社会は、非正規雇用が日本社会の体力を奪っていくとわかっていても、それへの依存から抜け出せないに違いない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

高大接続改革: 変わる入試と教育システム

 髙大接続システム改革(髙大接続改革)は、現在受験業界で最もホットなキーワードだ。いろいろな説明を聞いたり読んだりしてもよくわからないのだが、自分としては以下のようなのもではないかとアタリを付けた。

 高校と大学で教育改革が進んでいる。目指すのはおおよそ同じで、これまでの丸暗記型知識偏重教育を脱して、自分自身で考える力を養おうというものになる。そのために作文を重視したり、グループ学習、プレゼン、ディベート、ICT教材を利用したeラーニングなどの教科も導入される。これらを総称して「アクティブラーニング」と呼ぶ。こうした教科は、高校と大学で同時期に導入され、実際に導入されている学校も多い。

 しかしいくら高校と大学で学びが改革されても、肝心の大学受験が今までのままなら意味がない。高校生は受験対策として、結局は丸暗記知識偏重型の受験勉強をしなければならない。学びの改革が、そこで中断してしまうわけだ。そこで「髙大接続改革」は、高校と大学の「接続」部分、つまり大学受験を改革する。高校の学力を判定する「高校テスト」と、現在のセンター試験に替わる「大学テスト」が新設され、そこでは高校でのアクティブラーニングの成果が評価されるようになる……。

 とまあ、そんなことではないかと想像したわけだ。

 しかしこの本を読んでも、結局そのあたりはよくわからなかった。この本の中では、現在の受験システムの問題点は語られている。髙大接続改革の目的についても語られている。アクティブラーニングの導入事例も紹介されている。海外の大学との比較も紹介されている。だが肝心の「髙大接続改革がどうなるのか?」についてはさっぱりわからない。

 そこでどんな試験が行われるのか。受験対策としてどんなことをすればいいのか。高校や大学にある学力格差はどうなるのか。AO入試や推薦入試は、髙大接続改革の中でどんな位置づけになっていくのか。こうした「具体的な話」が、まったく見えてこないのだ。

 この本には「変わる入試と教育システム」というサブタイトルがついている。だが具体的にどのように入試と教育システムが変わるのかがまるでわからない。

 著者は二人いるのだが、それぞれの著者が言っていることがチグハグなのも気になる。一方は「世の中の現実を考えると、より偏差値の高い難関大学を目指す方がいい」と言い、もう一方は「偏差値のこだわらず自分に向いている大学に行くのがいい」と説く。こうした基本的なことから、そもそも著者たちの言っていることが噛み合っていないのは気になった。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

先生は教えてくれない大学のトリセツ

 法政大学などいくつかの大学で社会学を教えている著者が、「大学で学ぶこと」について書いた本。

 大学の講義を能動的に受講するコツ。プレゼンが上手くなる方法。ゼミでの論文指導の様子。大学生がアルバイトやインターンをする意義。このあたりまでは大学の教員から学生たちへの提言という感じで素直に読めるのだが、続く「白熱しない講義の裏事情」は読んでいて情けない気持ちになってくる。

 私語が絶えない教室。それを注意すると逆ギレしてふて腐れる学生。なぜ大学はかくも劣化してしまったのか? それはある種の必然だと著者は言う。だがその必然の中で、大学で教える人たちは何をすればいいのか?

 大学が劣化しているのは、必ずしも学生の質が悪くなったからではない。それは社会が大学に求める機能や役割の問題であり、少子化時代に大学を経営する側の問題でもある。そうした「大人の事情」に振り回された学生は、自己防衛の手段として講義中に寝たり、友人とお喋りをしたり、スマホをいじくり回したりしている面もあるのだ。

 大学の数は増え、学生の数は減っていく。大学はこれからも、大きく変わっていくだろう。この本に書かれているのは2017年という今の日本の大学の姿だが、今から10年もたてば、この風景はまったく変わっているに違いない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

限界国家 人口減少で日本が迫られる最終選択

 日本は今後急速に人口が減少していくので、今後は海外から移民を入れなければならない……という内容を予想したのだが、じつはそうではなかった。

 この本は「移民を入れろ」と主張しているのではなく、「既に海外からの移民は行われている」という意外な事実を読者に告げるのだ。ただし現在日本ではそれを「移民」とは呼ばず、「定住外国人」と呼んでいる。「移民」と「定住外国人」を区別しているのは日本ぐらいで、海外の基準ではどちらも「イミグラント」で同じものなのだ。

 この本には「日本は移民政策を取らない」と大見得を切った安倍経験の下でも、着々と移民受け入れ政策が進んでいることが書かれている。もちろんそれは「移民増加政策」ではなく、「定住外国人を増やす政策」と言い換えられているのだろう。内容は同じ事だ。日本人の多くがそんな事情を知らないうちに、海外からの移民は着実に増えていく。いずれそれは、堰を切ったように日本中にあふれかえるだろう。

 日本の経済は既に、外国人労働者なしには成り立たない状態になっている。地方の田舎町に行っても、コンビニやファストフード店では外国人が働いている。新聞配達も、今は外国人なしには成り立たないという。これらの外国人を一斉に閉め出したら、日本経済のあちこちが麻痺してしまう。もはや日本は、外国人労働者なしには成り立たないのだ。

 「そうはいっても海外では移民が社会問題化しているではないか!」と言う人もいるだろう。その社会問題がいかなるもので、各国がそれを克服するためどのような努力をしているかも本書には紹介されている。どこもまだ道半ばではあるが、移民への対応について一定の国際的のコンセンサスのようなものはできつつあるのかもしれない。日本はその蚊帳の外だけれど……。

 ひとつだけ言えることは、日本人の多くが望まないとしても、定住外国人(移民)はこれからも日本にどんどん入ってくるし、それが増えることはあっても減ることはない。日本人の数は減りはじめたし、日本人の中でも就労可能な年齢層の人口は既に急速に減りつつある。そこを補ってくれる外国人労働者の流入にストップをかければ、その瞬間に立ち行かなくなる業界がいくらでもあるのだ。

 安倍政権は「出生率を上げて50年後も人口1億人を維持」などと言っているが、これが不可能であることは誰の目にも明らかだ。これは「人口1億人を割り込むようなら、日本の経済は破綻しますよ」という国民へのアピールだろう。日本人だけで人口が維持できないなら、それを外国人で補うしかない。日本はいずれ自らの生き残りのために、なり振り構わず移民を受け入れることになる。これはもう「既定路線」だ。役人も政治家も、もう移民受け入れに向けて動いている。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

タロットの秘密

 周易について金谷治の「易の話 『易経』と中国人の思考」が担っているような役割を、 タロットの分野で今後担って行くであろう好著。じつは「易の話」ももともと講談社現代新書で出た本が、後に講談社学術文庫に入っている。「タロットの秘密」もゆくゆくは学術文庫に入り、古典的な入門書として時代を経て読み継がれていくような気がする。

 タロット占いにも使える本だが、タロット占いの入門書ではない。これはタロットという不思議なカードセットが、いついかなる場所から出現し、どのような道をたどって占いの代表的なツールに用いられるようになったかを紹介した本だ。

 今では西洋発祥の占いとして、占星術と並んで「占いの王道」のようになっているタロットだが、その歴史は意外なほどに新しい。世の中にあまたある「占術」の中でも、その起源と発達がきちんと記録されている数少ない例がタロットなのかもしれない。(それに比べると易占はどれだけ歴史があるんだか…….。)

 タロットはルネサンス期に、貴族たちがゲームに使う遊技カードとして作られた。数札(いわゆる小アルカナの部分)を使ったゲームがまずあり、ゲームを複雑にするため特別な絵札(大アルカナ)が作られたらしい。絵札の内容がなぜ今のような物に決まったのか、絵柄と数字の組み合わせの理由などは、もはやわからなくなっていることもある。しかしこの時点で、カードに神秘性はまだほとんどなかった。

 カードが神秘性を帯び始めるのは18世紀後半。この頃からタロットが占いに用いられるようになる。単純で素朴な占術ツールだったタロットは、19世紀に入るとオカルトや神秘思想の影響を受けてさまざまに解釈されるようになる。20世紀になるとタロット占いは「知る人ぞ知る神秘的なカード占い」として広まっていく。この頃に分析心理学の創始者ユングも、タロットに注目している。

 一般的にカード占いは1950年代まではトランプを使ったものが主流だったが、これが1970年代にはタロットにお株を奪われる。一般向けのタロット占い入門書なども数多く出版され、日本でもこの頃に、欧米でのタロットブームを受ける形でタロットが知られるようになっていく。

 この本はタロットにまつわる神秘的な意味付けなどを紹介しながら、そうした「タロットの神話」をことごとく破壊してしまう。タロットは古代エジプト由来の神秘的カードではないし、タロット占いにことさら神がかりな何かがあるわけでもない。

 ではタロット占いには意味がないのか? そうではないと著者は言う。タロット占いには、自分自身の心を見つめる自己セラピー的な価値がある。タロットが示すメッセージが、凝り固まっている自分の心を解きほぐし、心の奥深いところにある自分の本当の願いや抑圧を浮かび上がらせることがあるのだ。

 僕はこうした著者の姿勢にまったく同意する。僕自身は趣味で「易占」をしているのだが、易を立てる理由はやはり「自分自身の今を見つめ直す」ために他ならないからだ。易もタロットも占いとしては「卜占」に属するのだが、こうした占いは占問者に対する公平かつ客観的な第三者として、「お前は本当はこう考えているんじゃないか?」「あなたの本当の願いはこうなんじゃないの?」と問いかけてくる。

 卜占が公平客観的なのは当たり前だ。カードやサイコロがどんな結果を示すかは、その時々の巡り合わせ、まったくの偶然に過ぎない。タロットやサイコロ(あるいは筮竹でもよい)は、占問者を「問題へのとらわれ」から解き放つ。示される答えのほとんどは問いに対する明確な回答になっていないが、だからこそ専門者は「これはどんな意味があるのか?」「どんな関わりが秘められているのか?」と、示された答えと自分の占問の間に何らかの物語を作り出そうとする。この「自分のための物語を作る」という行為が、人の心を自由にしてくれる。

 タロットに興味を持つ人は、一度読んでおくべき良書だと思う。占いの専門書は結構高価な物もおおいのだが、これは何よりまず安価だ。専門的な話題もあれば、初心者向けの占いガイドにもなっている。これ1冊で、結構いろいろな事ができるのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

梅原猛の仏教の授業 法然・親鸞・一遍

 椎尾辨匡の「共生(ともいき)」という思想について紹介している本を探して、この本を見つけました。「共生」についての記述はごくわずかですし、紹介されている内容も梅原猛流に解釈されたものだとは思うのですが、それでも多少の参考にはなったような気がします。

 著者曰く、「ともいき」の根っこにあるのは「あらゆるものは仏性を持つ」という本覚思想(天台本覚思想)で、さらに「草木国土悉皆成仏」という涅槃経の中の言葉だという。「草木国土悉皆成仏」はもともとこれが説かれた中国ではまったく受け入れられなかったが、日本では神道の考えと結びついてすんなりと受け入れられた。椎尾辨匡の「ともいき」も、人と人の関係だけでなく、人と動物、人と草木、人と天地万物の関係を水平な関係と見る点で、まさに「草木国土悉皆成仏」なのだという。

 「ともいき」についてはまた別の考え方もあるようなので、この点についてはまだもう少し勉強してみたいと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

未来の年表 人口減少日本でこれから起きること

 日本の人口は数年前から減少しはじめたが、それを実感している人はほとんどいないだろう。だが人口減少の速度は今後どんどん速まり、誰が見ても「ここ数年で人口が減っている」と思うようになる時代がやって来る。

 この本はそうした人口減少社会で具体的に何が起きるのかを、具体的なデータを引用しながら紹介していく本だ。

 著者は人口減少について、決して楽観的な見方をしていない。著者曰く、少子化は「静かなる有事」なのだ。著者は安倍首相が掲げる「新三本の矢」などまるで信じていない。人口が減れば、経済も縮小する。社会の高齢化によって社会保障費も肥大化する。

求められている現実的な選択肢とは、拡大路線でやって来た従来の成功体験と訣別し、戦略的に縮むことである。(P.11)

少子高齢化とは、これまで「当たり前」と思っていた日常が、少しずつ、気づかぬうちに崩壊して行くことなのである。(P.88)

 人口減少対策は待ったなしだ。著者は日本の高齢者人口が最大になる2042年を見据えて、それに向けた対策に日本中で取り組まねばならないと説く。

 2042年は25年後だ。たった25年後とも言えるし、25年もあるとも言える。日本は黒船来港からたった15年で明治維新を成し遂げ、日本中が焼け野原になった昭和20年の敗戦からたった10数年で奇跡的な復興を成し遂げた。日本人は問題意識を共有して「この方向に進むぞ!」と決めれば、思いがけない力を発揮できる民族なのだ。

 問題は2つある。1つ目は「人口減少に対する危機感」が、日本の中でまだほとんど共有されていないこと。いまだに「日本は人口が多すぎる。減ったぐらいでちょうどいい」と言う人が大勢いる。もう1つは仮にこの問題が日本中で広く共有できたとしても、実際に社会の担い手となる若年労働者層が、日本はきわめて少なくなってしまっていることだ。2025年には団塊世代も75歳以上の後期高齢者になる。

 問題は多い。しかし動き始めなければ何もはじまらない。まずは人口減少社会が生み出す現実を、きちんと見据えることだ。この本はそのための、良いテキストになっていると思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

超ソロ社会 「独身大国・日本」の衝撃

 著者は大手広告代理店・博報堂で「ソロ活動系男子研究プロジェクト・リーダー」をしている人物だ。博報堂というのは調査データを用いて市場に何らかのネーミングをするのに長けたところで、最近だと「さとり世代」や「マイルドヤンキー」も博報堂のブランドデザイン若者研究所が生み出した言葉であったりする。

 こうした言葉を博報堂が作り出すのは、そこに新たな購買層となる広大なマーケットがあると考えているからだろう。

「かつての若者はあれも欲しいこれも欲しいという欲望の中で購買の選択をしていたけれど、今の若者はそうじゃないんです。彼らはそうした欲望が希薄な《さとり世代》なんです。だからそこに物を売るには、これまでにない工夫が必要ですよ。博報堂は既にそのノウハウを持ってます!」

とか、

「かつては都市部の若者がさまざまな文化を生み出し、地方の若者はそれに追随するだけでした。でも今は活発な購買活動をしているのは地方の若者層です。彼らには一定の生活行動傾向があります。我々はそれを《マイルドヤンキー》と名付けました。マイルドヤンキー相手にどんどん物やサービスを売りましょう!」

の次にやって来たのが、

「かつては若者が一定の年齢になれば結婚すると思われていました。だから消費の牽引役は夫婦と子供のいるファミリー層ターゲットでよかったんです。でもこれからは独身者が増えます。我々はそれを《ソロ社会》と名付けました。これからはソロ男やソロ女に向けた、新しいマーケティング戦略が必要です!」

というものなのだと思う。

 まあそれ自体は悪いことではない。この著者は「独身者が増えて世の中大変だ!」と騒ぐわけではないし、「結婚させて子供を増やすにはどうすればいいか?」と言うわけでもない。データに基づいて「独身者は今後も増えていく。結婚は減るし、子供の数も減る」と言っているだけなのだ。だから年金が……とか、だから生活保障が……といった話はしない。単に「独身でも寂しくないし、それなりに楽しく生きられる世の中だよね」と現状追認しているだけだ。

 しかしこの徹底した現状追認ぶりが、むしろ清々しい。著者は「一人暮らしの人々が今後の社会では消費のボリュームを引き上げていく。だから一人暮らしの人向けの商品を開発して、一人暮らしをより便利で快適なものにしていくといいですよ」と、徹底して商売っ気たっぷりに語ってみせているだけだ。そして間違いなく、世の中はそちらの方向に向かっていく。

 かつて独身の男どもは、身の回りの世話をしてくれる「自分専用の母親」がほしくて結婚した。メシ作ってくれて、部屋の掃除してくれて、買物もしてくれて、ついでに夜のお相手もしてくれる。最高だ!

 でもそうした結婚はもう破綻している。高学歴で稼ぎの多い女性は、簡単には「理想の母親」を演じてくれない。この本の中でも紹介されているが、男性の年収が多くなるほど未婚率が低くなるのに対して、女性は逆に、年収が多くなるほど未婚率が高くなる。経済的に自立した女は、わざわざ結婚などしない。そして晩婚化の結果としてこだわりのライフスタイルを身に着けてしまった男たちも、わざわざそれを犠牲にして結婚しようとは思わない。

 男も女も、独身であることにメリットこそあれデメリットはひとつもない。世の中が「少子化で社会の活力が失われる」とか「社会保障が破綻する」などと言っても、そんなことは個々人には関係のないことなのだ。

 この本に書かれている「ソロ社会への希望」や「提言」のようなものには、僕は面白味を感じない。それより圧倒的に面白くて説得力があるのは、日本の人口の半分が独身になる「超・ソロ社会」が、否応なしにやって来ることをデータを交えながら論証していく部分にある。

 「50年後も日本の人口1億人を維持」とか「希望出生率1.8の実現」とか「合計特殊出生率を人口置換水準の2.07へ」などと寝ぼけたことを言っている人たちは(安倍首相のことですね)、この本の提示するリアルな未来をきちんと検証してみた方がいいと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

人工知能はどのようにして 「名人」を超えたのか?

 著者や出版社は人工知能入門書のつもりなのかもしれないが、入門書や初歩的な解説書として読むと、まったく要領を得ない本になっている。

 例えば最近あちこちで話題になっている「ディープラーニング」については、この本の中でもそれなりに紙幅を割いて説明しているのだが、正直何を言っているのかさっぱりわからない。前提になる話をすっ飛ばしたまま、別のたとえ話などを出してくるから、たとえ話がたとえ話としての機能を果たせないのだ。

 しかしそれでも、この本は面白い。あっという間に読んでしまう。それは人工知能を開発している現場の熱気や興奮が、行間からダイレクトに伝わってくるような勢いがあるからだ。

 本を書いているわずか数ヶ月の間に、「将棋にディープラーニングは向かない」と言っていたのをひっくり返し、将棋ソフトPonanzaにディープラーニングの技術を実装したというのも、そうした「勢い」のひとつだろう。結果として前言を翻したわけだから、普通なら「将棋にディープラーニングは向かない」と書いていた内容を訂正して全体の整合性を取れば良さそうなものなのに、この本ではそうした調整を行わない。その結果として、この本を読む人は人工知能開発の最前線を同時進行で体験するような読後感を味わえるはずだ。

 人工知能開発が必ずしも「理論的」に進められているわけではなく、現場の職人的な「経験知」の積み重ねで、少しずつ改良が加えられているという話は部外者にとってはとても興味深いものだと思う。

 それを象徴するのが「黒魔術」というキーワードだ。人工知能に何らかの改良を加えてみると、その結果が功を奏することもあれば奏さないこともある。よい結果が出る改良は全体の2%程度。しかもその改良がなぜよい結果を生み出したのか、開発者自身にもよくわからないのだという。よかれと思って行った改良が、結果として悪い結果を出すこともある。しかし「理由はわからないが上手くいった方法」は人工知能開発者の中で共有されて、人工知能強化のためのノウハウとして定着していく。まさに「黒魔術」なのだ。

 著者は「知能」の点において、もはや人工知能は人間の能力を超えていると言う。「知能」とは設定された目的に対して、最善の手段を探す能力のことだ。例えば「将棋に勝つ」とか「囲碁に勝つ」という目的が設定されれば、人工知能は人間の能力をはるかに凌駕する力を発揮する。

 しかし現時点で人工知能に欠けているのは、そうした目的そのものを設定する「知性」なのだ。人工知能は少なくとも現時点において、「自分は今この時に何をすればいいのか」という問いを自ら設定することができない。言われたことは完璧にやり遂げるが、言われていないことについて配慮することはない。

 また人間は大きな目的を達成するためにの中間段階に、小さな目標を設定してそれを達成していくことで最終目標に近づいていく。大きな問題を小さな問題に分割するというのが、人間の「知性」なのだ。ところが現時点で人工知能は「中間目標」を設定することができず、予測不能な遠い将来については思考停止状態になってしまうらしい。これを「水平線効果」と呼ぶ。

 しかし著者はこうした「知性」も、いずれは人工知能が獲得していくだろうと考えているようだ。人工知能の技術は幾何級数的に進化している。人間が「人工知能もだいぶ人間に近づいてきたなぁ」と考えはじめた次の瞬間に、人工知能は人間をフルスピードで追い抜いて、手の届かない彼方へと進んでしまうだろう。

 人工知能と人間のプロ棋士が戦う電王戦は、今年が最後になった。人間はもはや人工知能の棋力に太刀打ちできないので、わざわざ大会で雌雄を決する面白味がなくなってしまったのだ。Googleの開発したアルファ碁も、既に人間との対局をやめて機械学習のみの世界に閉じこもってしまった。「人間の力を人工知能が凌駕する」ことをシンギュラリティと呼ぶが、これは将棋や囲碁の世界では既に完了している。今後は人工知能に人間が太刀打ちできない領域が少しずつ広がり、他の分野でも少しずつ人間が人工知能に置き換わっていくだろう。

 ただしそれは、人間が不要になるという意味ではない。人工知能がいくら将棋に強くなっても、中学生棋士の藤井聡太四段が20何連勝かしているというニュースほどには人を興奮させないのだ。人工知能が人間のプロ棋士相手に50連勝しても100連勝しても、人間はそれにワクワクドキドキすることはできないだろう。人間だけが人をワクワクドキドキさせ、楽しませ、幸せな気持ちにさせることができる。

 もっともこれは、ずいぶん昔から他の領域でも起きている事なのだ。「地上をより速いスピードで移動する」ということなら、人間は馬にはかなわない。その馬は乗用車にかなわず、乗用車は新幹線にかなわない。でもオリンピック100メートル走の金メダリストよりも、新幹線の方が偉いのだろうか? これはものの見方によるわけだが、ひとつだけ言えるのは、より多くの人を興奮させるのはオリンピックの金メダリストだということだ。

 人工知能には無限の可能性がある。でも人工知能の発達によって、人間の活動する領域も広がって行くに違いない。人工知能の将棋プログラムや囲碁プログラムが、新しい定石や布石を生み出しているように、人工知能時代の人間はそれまで考えてもいなかったような新しいライフスタイルを手に入れると思う。それがどんなものかは、その時が来てみないとわからない。でもきっとそれは、今よりずっとワクワクドキドキさせてきれる未来だと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書