まだ生きてます

 日記ブログの更新がずっと止まっているので、生存証明のようにたまには書きますか……。

 このブログが更新停止状態になっているのは、別に僕が隠遁生活に入っているわけではないのです。映画を観るたびに「映画瓦版」は更新しているし、FacebookTwitterも更新しています。Instagramで外食の写真も投稿してますよ。SNS漬けですね。

 最近はブログでまとまった量の文章をしっかり書くより、SNSで短文を連投する方が気楽だし楽しいのです。まあこういうのはすべて「今はそうだ」というだけで、今後どうなるかはわかりませんけどね。そのうち、思い出したようにまたブログに記事を連投するようになるかもしれません。

 最近考えているのは、アカウントを持っているだけでやはり放置状態になっているnoteの活用。ある程度ボリューム感のあるテキストの投稿ならnoteに投げて、そこからSNSにリンクした方がいいのかもしれないなぁ……と思ったりはしています。まあ、まだそうしたことをしていないので、思ってるだけなんですけどね。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

趣味の易占

 物事に対して飽きっぽい性格なのだが、どういうわけか易占は今でも続いている。最近は毎日サイコロを振って記録を付けるのが、ハミガキなどと同じ生活習慣になった。

 旅行にもサイコロを1個と岩波文庫の「易経」上下巻を持って行けば、それで占いができるという気楽さがある。最近はKindle版の「易経」も購入したので(元版は徳間文庫版の「易経」だ)、スマホなどで簡単に卦の意味を調べることができるようになった。

 こんなに便利なら、もっと早くにKindle版を買っておけばよかったなぁ……。

 易経が面白いのは、毎日の生活に特別な「意味」が付くことかもしれない。特別なことが何もない1日を、易を通じて外側から眺めることができるのだ。朝は「今日はこんなことに注意しよう」と思うこともあるし、夜は「今日あった出来事にはこんな意味があったのかも」などと勝手に想像することができる。

 僕自身は占いをまったく信じていないし、毎日易を立てるようになった今も信じていない。占いとしては信じていなくても、易は面白い。これは、信じていなくてもキリスト教や仏教が面白いのと同じかもしれない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

日本の映画産業は今のところ堅調

 今年1月に映連から全国映画概況が発表されたので、それについて簡単にまとめておく。

 日本映画は昭和30年代の黄金時代には及ばないものの、かつてない勢いをいまだ保っている。観客動員数推移のデータを作ってみたが、1990年代後半からの堅調がいまだ続いているようだ。一昨年は『君の名は。』というモンスター級のヒット作があって観客数を押し上げたが、昨年はそうしたブームを呼ぶ作品がないにも関わらず、前年比96.8%という堅実な成績を残した。

 例年こうしたグラフを作る時は映連が発表しているデータをすべて使うので、昭和30年代の山が大きすぎてそれ以降の数値の推移がわかりにくくなってしまう。今回は昨年までの過去30年間に絞ってみた。気象庁の「平年値」も過去30年間の平均値だというから、30年というのもまあ妥当なものではないかと思う。(特に関連性はないけどね。)

 映画の公開本数は、年間1187本で過去最高を更新した。(これまでの最高は2014年の1184本。)僕が映画批評家として試写室で映画を観始めた1997年頃は、年間の公開本数が600本前後。毎日せっせと試写室に通っていれば、劇場公開される映画の7〜8割は観てしまうことができた。しかし今はその倍以上が公開されるわけで、これをすべて観ている人は誰もいないはずだ。

 映画は大量に作られ、大量に消費され、ほとんど観られまま消えて行く作品も多い。

 日本の映画産業は数値を観る限りでは堅調なのだが、話を「日本の映画産業」から「日本映画産業」に移すと話は違ってくる。日本映画と外国映画の市場シェアは、1990年代には完全に洋画優位だったが、2000年代後半に逆転して「邦高洋低」などと言われるようになった。日本映画は利益を上げられる優良ビジネスとなり、これがいわゆる「邦画バブル」を生んでもいたわけだ。

 ところがこの日本映画の勢いは、ピークを越えてダウントレンドに入っているようにも見える。シェア自体はまだ50%以上を維持しているが、シェアは60%ぐらいで頭打ちのような気がするのだ。

 その理由を分析するには個々の作品を取り上げねばならないだろうが、映連の概要データだけではそれが見えてこない。というわけで、今回の話はここまで。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 映画

「わろてんか」は晩婚・未婚時代の朝ドラだ

 朝の時計がわりに朝ドラの「わろてんか」を見ているのだが、これは晩婚・未婚化時代を象徴する朝ドラではないだろうか。ヒロインはあっという間に結婚するが、周囲の人たちがまあ結婚しない。

 風太とトキはいよいよ結婚しそうな雰囲気だが、この二人はいったい幾つになっているのだろうか? 物語の中の時間を考えると、どう考えても30歳は過ぎている。40歳に近いかもしれない。風太はともかく、トキは大年増もいいところだ。

 映画女優になったリリコも結婚しないし、映画会社の経営者になった伊能も結婚の気配がない。藤吉の幼なじみである芸人のキースも、相方のアサリも結婚しないままだ。団吾師匠もまだ独身なんだろうか。

 いい年した男と女がごろごろしていて、これほど独身者ばかりという朝ドラがこれまでにあっただろうか。もちろんこれが現代なら、このぐらいの年齢で独身者ばかりでも別におかしくはない。でも物語の時代背景は現在昭和初期だ。昭和初期というのは、こんな時代だったのか?

 「わろてんか」はタイトルほどには笑えないと、あれこれ批判されることも多いドラマだ。僕も実際に笑えない。ときどきすごく面白いこともあるのだが、それが週に一度あるかどうか……というレベルだ。そんな中で、このドラマの「登場人物たちを結婚させない」という展開が気になって仕方がない。

 独身の登場人物たちに対して、それを批判したり揶揄したりする者が誰も出て来ないのも不思議だが、こうした部分を見る限り、やはりこれは「大正から昭和」の物語ではなく、平成30年の今の物語なのだと思う。

 だとすれば、このドラマの独身組は物語の終わりになるまでずっと独身なのかもしれない。むしろ、独身で居続けていて欲しいとさえ思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

自動車に生体認証システムを

 高齢ドライバーによる交通事故が減らない。これはたまたま報道が偏っているわけではなく、実際に交通事故中の高齢ドライバー比率が高まっているようだ。

 内閣府が発表している平成29年交通安全白書(概要)では、特集として「高齢者に係る交通事故防止」を取り上げている。これを見ると、高齢者による事故が確実に増えていることがわかる。

 日本では地方はもちろん都市部でも郊外になれば車がないと生活の不便を強いられるところも多く、核家族化もあって高齢者ドライバーは今後も増えていくと思う。何しろ日本中で高齢者の比率が高まっていくのに、高齢ドライバーだけ減らそうとしても無理があるのだ。

 しかし高齢ドライバーが自らの身体能力や判断能力の衰えを自覚し、免許を自発的に返納する例は増えている。だましだまし運転を続けていた人が小さな事故を起こしたのをきっかけに、周囲の説得などもあって免許を返納することも多いはずだ。

 今後はこうしたことをどう制度化するかが大事だし、「車がないと生活できない」と言う人たちに対して、免許返納後の生活について安心できるバックアップ体制を作っていくことが大切だと思う。それは地域路線バスの復活かもしれないし(マイクロバスやワンボックスカーを使った地域バスも増えている)、安価に利用できるタクシークーポンを一定枚数発行する必要があるのかもしれない。将来的に無人の自動運転車を、地域住民でシェアすることが普通になるだろう。

 しかしバスやタクシーは高コストで地方財政を圧迫するし、自動運転の実用化までは何年かかることか……。

 とりあえず現時点でできそうなことは、高齢ドライバーには自動ブレーキ車の使用を義務づけることぐらいだと思う。あるいは免許を返納したドライバーが、確実に車を運転できなくする仕組みを作ること。こうした仕組みを実現するには、スマホなどに使用されている生体認証システムが利用できるはずだ。

 数万円のスマホにも生体認証のシステムがあるのだから、その何十倍ものコストをかける自動車に生体認証システムを装備できない理屈がない。現在の免許証にはICチップが内蔵されているので、この情報を読み取れる装置も自動車に装備して、運転手が免許証を持っているかどうか、免許証の種別は車の運転に適しているものかどうか、運転手は車に登録してあるユーザーかどうかなどを瞬時に読み取ることは技術的に可能なのだ。

 これによって、免許不携帯者、免許不保持者、未登録ユーザーの運転をさせないようにすれば、「自動ブレーキ車限定免許の高齢者が他の自動車を運転してしまう」とか「免許を返納したドライバーや免停中のドライバーが運転する」といったことを防ぐことができる。もちろんこれは、一般ユーザーにとっても車の盗難防止に大いに役立つはずだ。

 最近の自動車のCMを見ると、自動ブレーキの安心感を全世代にアピールするものが増えてきている。自動車の展示会などでは、生体認証を搭載した自動車の展示も少しずつ現れてきているようだ。もちろんこうした装備にはコストがかかるが、シートベルトもエアバッグも普及したのは最近になってからだ。一度「こうする」と決めてしまえば、コストば安価なものになるだろう。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

映画『ナヌムの家』の頃

 韓国で慰安婦問題に関する日韓合意に批判的な調査結果が発表され、韓国内が騒然としているとのことだ。まったく困った話だと思うが、この問題についていまだに朝日新聞などを批判する人たちが後を絶たないので、僕が知っている範囲のことを書いておく。

 まず最初にはっきりさせておきたいのだが、この問題について「責任は朝日新聞などにある」というのはまったくの嘘っぱちだ。朝日新聞が熱心に慰安婦問題についてのキャンペーン記事を書いていたのは事実だが、それが盛り上がっていたのは「アジア女性基金」が立ち上がる1990年代の半ばまで。以降の朝日新聞はこの問題に急速に関心を失い、いわゆる「慰安婦狩り」の与太話で一世を風靡した吉田証言についても、歴史的な実証性はないものだったことを90年代後半には認めて大きな方向転換をしている。

 こうして朝日新聞などの日本マスコミがこの問題から撤退していった頃、じつは韓国でも慰安婦問題はまったく盛り上がっていなかった。韓国でこの問題に関心を持っていた人は、さほど多くなかったのだ。

 1995年に『ナヌムの家』というドキュメンタリー映画が作られ日本でも公開されているが、これは元慰安婦を自称する女性たちが慎ましい共同生活をしている姿を記録している。元慰安婦たちがボランティアに支えられて共同生活をしていたという事実からも、彼女たちが社会から孤立し、冷遇されていたことがわかる。映画の中には彼女たちが支援者たちと共に街頭で抗議行動をする姿も出てくるが(『ナヌムの家』だったかその後の2本の映画だったか忘れたが)、それを見る韓国人の目は冷淡そのものだった。彼女たちは社会から無視され、誰にも知られないまま忘れ去られようとしていたのだ。

 もとより韓国でも元慰安婦たちと同世代の高齢者たちは、軍の慰安婦というものがどういうものかちゃんと知っていた。当時朝鮮半島では徴兵は行われていなかったが、志願して日本軍に入隊した者も少なくなかったし、兵士にならなくても軍属として周辺で働いていた人たちも多い。彼らにとって「慰安所」や「慰安婦」は日常の風景の中にあった。だからこうした戦中世代が元気なうちは、韓国人の元慰安婦を「日本軍に拉致された性奴隷」などと言っても笑われるだけだったのだ。

 僕は『ナヌムの家』3部作の3作目『息づかい』を2000年に観ているが、この時点で感想にこう書いた。

彼らの運動は一般市民を巻き込んだ国民的運動にはならず、構成員はハルモニと呼ばれる元慰安婦とその取り巻きだけ。高齢化したハルモニたちは、ひとりまたひとりと亡くなっていく。僕は『ナヌムの家』を観たときから、これは韓国内の一般市民に向けられた映画だろうと解釈した。しかし彼らの声は、いまだに韓国内で広い支持を得ることができない。閑散とした集会の風景や、「いまだに私たちのことが教科書に載らない」と嘆くハルモニたちが哀れだ。

 2000年の時点で、韓国国内では慰安婦問題で日本を非難しようとする人たちは少数派だった。その声はあまりにも小さく、社会の中でかき消されそうだった。それがなぜ、韓国内でかくも大きな問題になってしまったのか?

 ここで「朝日新聞が云々」というのは、事実を無視した与太話だ。2000年時点で、朝日新聞はもはや慰安婦問題を扇情的に報じることをしなくなっている。朝日新聞は2014年に過去の一連の慰安婦報道のうち吉田証言にもとづく記事を正式に取り消したが、これは1997年に事実かどうか疑わしいことを認めていたので、それを改めて追認しただけのことだ。

 背景にあるのは日本の新聞報道ではなく、韓国社会内部で何らかの大きな変化が起きているのだろう。戦争や日本統治下の実態を知る高齢者が少なくなり、韓国内では「慰安婦は売春婦だった」と言える人たちがいなくなった。韓国の目覚ましい経済成長は止まり、日本に追いつき追い越せという勢いが途絶えて、先行きが見えにくくなっている。一方で北朝鮮との問題も解決しない。

 そうした先が見えない中で、慰安婦問題が社会の不満を吐き出すガス抜きになってしまっているのではないだろうか。

 だとすれば、この問題に日本政府や日本人があれこれ口を出す必要はない。韓国人が不満を感じているのは「日本の態度」に対してではなく、「韓国社会のありよう」そのものに対してだからだ。それは韓国内で、韓国人自身が解決するしかないだろう。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

伊方原発で火砕流の心配をするなら

 広島高裁が先週13日に、愛媛県にある四国電力伊方原子力発電所3号機の運転差し止めを命じる仮処分を決定した。阿蘇山がカルデラ噴火したら、伊方原発にも火砕流が到達して壊滅的な被害が出ることが想定されるという理由からだ。

 僕は原発に反対だし、阿蘇山がカルデラ噴火する可能性もなきにしもあらずだと思っている。しかし「阿蘇山が大規模なカルデラ噴火を起こす可能性があるから原発はなし」というのは、話としてはずいぶんとスケールの違う話がごっちゃになっているのではないか。

 阿蘇山の火砕流が愛媛県の一部を飲み込むような大規模噴火が起きたら、それは原発事故とは比較にならないぐらい大規模な被害が火山噴火単体で生じているんじゃないのか? 阿蘇山のカルデラ噴火を心配して原発を運転停止にするなら、そもそも九州一帯から四国の西側、中国地方などは、人が住むのを最初から禁止すべきだと思うぞ。

 阿蘇山で大規模なカルデラ噴火がひとたび起きれば、西日本だけでなく日本全域が深刻なダメージを被ることは間違いない。そこでひとつの原発の稼働の是非を問うのは、台風による堤防決壊で家が流されそうになっている中で、ベランダにある植木鉢を心配しているようなものだろう。なんだかひどく滑稽だ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

富岡八幡宮での事件は悲しい

 深川の富岡八幡宮で、宮司家族間の凄惨な殺人事件が起きた。最初は通り魔事件のような報道で、「深川で通り魔事件とは、川俣軍司の再来か」と思ったのだがそうではなかった。

 僕は母親の実家が深川から隅田川をはさんだ中央区新川で、ここはなぜか昔から、富岡八幡宮の氏子として深川祭りに参加している。僕も子ども時代から何度もお祭りに参加しているし、3年に1度の本祭りでは神輿を担ぐこともある。

 新川は独身時代に数年間住んでいたこともあるが、当時は近所にスーパーなどもなく、買物と言えば川を渡って門前仲町まで出かけていた。その後錦糸町や亀戸に引っ越したあとも、深川はときどき出かける場所だったし、富岡八幡宮も深川に出かければお参りする散歩コース。要するに昔からつい最近まで慣れ親しんだ場所なので、今回の事件には驚かされたのだ。

 富岡八幡宮が神社本庁から抜けたという話はネットニュースか何かで読んでいたが、今回の事件にはそうした神社運営の問題も背景にあるらしい。神社本庁は最近右傾化しているという話もあり、都内の有力神社である富岡八幡宮がそこから抜けたのはちょっと痛快だと思っていた。

 そもそも富岡八幡宮の氏子には、八幡様が神社本庁の帰属であるかどうかを気にする人はほとんどいなかったと思う。江戸時代創設の神社は深川の人たちにとって、「我が町の八幡様」「我らの八幡様」であったからだ。

 富岡八幡宮が今後どうなるのかはわからないが、おそらく殺された宮司の子供が後を継ぐか、親戚筋から新しい宮司を選ぶことになるだろう。深川祭りでがっちりまとまる強固な氏子組織と財政基盤があるので、これでどうにかなってしまうようなものではないはずだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

イーチンタロットの活用法

 個人的には「易占には使わないなぁ」と考えているイーチンタロットだが、これを買って良かったことがひとつある。それは大成卦64種類を覚えるための「暗記用カード」として活用したことだ。

 趣味にしろ実占家として商売をはじめるにしろ、周易の場合はまず六十四卦とそのおおよその意味を全部覚えてしまわなければならない。このハードルがかなり高いのだ。(タロットの78枚よりは簡単かもしれないけどね。)そこでイーチンタロットを使ってみた。

 カードをよく混ぜて1枚ずつめくり、出てくる卦象から卦名を当てる。当てられたものは右に積み、わからなかったものは左側に摘む。左側のカードの山は易経関連の本を見て卦名を確認し、再度それだけをシャッフルして再度1枚ずつ卦名を当てるようにする。これを一通り、カードの山がすべてなくなるまで続ける。

 ただしイーチンタロットでこれを何度かやっていると、卦象ではなくカードの絵柄を手掛かりに卦名を当てるようになる。陽爻や陰爻という抽象的な記号の組み合わせより、イーチンタロットに描かれている具体的な絵柄の方が情報量が多いからだ。それでもとりあえず、カードそれぞれに書かれている卦象の名前がすべて言い当てられるというのは大事だと思う。

 僕はこれで六十四卦すべてについて、卦象があればそこから卦名を言い当てられるようにはなった。ただしイーチンタロットが使えるのはここまで。

 次はこの逆に、卦名から卦象をすぐに思い浮かべられるようにならねばならない。(これはわりと簡単かも。)さらに次の段階は、六十四卦の順序や割り当てられている順序を覚えること。さらに先には、易経の卦辞と爻辞の意味を暗記するというのがあるわけだが、これが一番の難関かなぁ……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

イーチン・タロットを入手した

 易占用のイーチン・タロットを、いくつか購入してみた。イーチンというのは英語で易経のこと。イーチン・タロットは別名が易占カード、易タロット、イーチン・カード、イーチン・オラクル・カードなどとも呼ばれているが、要するに易経の六十四卦を64枚のカードにしたものだ。

 タロットと呼ばれていても、これは西洋のタロットカードとはまったく別のもの。「カード占い=タロット」というネーミングなのだろう。タロットカードや最近流行しているルノルマン・カードには伝統的な絵柄というものがあるのだが、イーチン・タロットにはそうしたものがない。さまざまなメーカーが、独自の絵柄を提案しているのが面白いと言えば面白い。

 共通しているのは六十四卦の象(陰陽6本の爻で構成されている大成卦の形)と、六十四卦のそれぞれに該当する数字(乾が1で未済が64になる)が印刷されていることだろうか。

 このイーチン・タロットを実際の易占に使用する方法だが、これも確定した占い方というのはないようだ。変爻は用いず卦辞しか見ないと書かれている本や解説がある一方で、イーチン・タロットに同封してある簡易解説書に各爻に該当する簡単な説明が書かれているものもある。

 とりあえず1枚引きだけでも、簡単な占いはできる。爻辞も占いに使いたいなら、1枚引きとサイコロを併用すればいい。本卦と之卦を出したいなら、カードを2枚引けばいいだけだ。これで2枚のカードの差分を見れば、変爻も割り出すことができる。

(ただしこの変爻にどの程度の意味があるのかは不明だ。カード2枚引きだと筮竹や擲銭法、サイコロなどでは出てくる「無変爻」がなくなってしまうわけで、これだけでもカード2枚引きが中筮法の代替策にならないことがわかる。)

 映画『ママは日本へ嫁に行っちゃダメと言うけれど。』は冒頭にイーチン・タロットで実際に占いをする場面が出てくるが、登場するのは龍羽ワタナベさんという台湾で活躍中の日本人占い師と、彼女がプロデュースしたオリジナルの易占カード。映画を観る限りでは、カードを並べて2枚引きにしているようだ。(このカードも通販で購入できるのだが、僕はまだ持っていない。)

 僕が手に入れたイーチン・タロットはすべてAmazonで購入したのだが、カードを何種類か手に入れて触ってみた結果、自分としてはこれを使わないだろうなぁ……という結論に達しつつある。理由は面白味に欠けるからだ。

 どのような占筮法を取るにしろ、カードの山から特定のカードを引っこ抜いてきてそこに書かれている数字と易経の該当ページを見比べるという方法は変わらない。これがあまりにも簡便すぎてつまらない。また描かれている絵柄が自分の卦の解釈とうまくマッチングしないと、それも使いづらいカードになってしまう。中には易経と照らし合わせても、なぜそんな絵柄になるのか意味不明の時がある。

 こうしたカードは易占に初めて触れる人には親しみやすいかもしれない。つまりまったくのアマチュアには向いているのだ。またプロの占い師も、素早く結論が出るという意味で使う意味があると思う。映画『ママダメ』のように対面で占いをする場合などは、算木を並べたり紙にボールペンで線を引くより、きれいな絵柄の描かれたカードの方がイメージを喚起してくれるという意味もあるだろう。

 でも僕のように「趣味の易占」を楽しんでいるなら、イーチン・タロットは中途半端すぎる。絵は卦象の持つ豊富な情報を、一定の方向に狭めてしまうデメリットもある。というわけで僕はまたサイコロに戻ると思うのだが、他人に「わたしの運勢を占って!」などとお願いされれば、易占タロットも悪くないのかなぁ……と思っている。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記