体年齢がほぼ還暦……やばい

 久しぶりに体重・体組成計に自分の身長や年齢を入力し、あれこれ計測してみた。

 現在実年齢は51だけど、表示される体年齢はましなときで55歳、ひどいときは間もなく60歳にならんとするありさま。

 いかん。これはいかん。

 やばい。これはやばい。

 まずい。これはまずい。

 ちょっと真面目にダイエットを考えねばならぬ。まずは酒を控えることだ。間食も控えよう。そして、少しは運動もしよう。

 バイト先まで歩いた方がいいかな。でもそれだと時間がなぁ……。

 これは今後の課題になりそうだが、ちょっとまじめに考える。健康で長生きしたいとか、そういう欲張りなことを考えているわけではない。体重を減らした方が腰への負担が減って、結果として座骨神経痛や、夜中に足がつるのが減らせるんじゃないかと思っているのだ。

 相変わらず毎晩のように足がつる。あるいは足がしびれる。これは、嫌なもんですよ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

新しい腕時計

 最近新しく購入した腕時計の調子がいいので、ちょっと書いておく。

 カシオのW-735H-1AJF という機種で、3千円前後の安い腕時計だ。いわゆる「チプカシ(チープなカシオ製ウォッチ)」というやつである。

 デジタル表示でタイマーやストップウォッチ、アラームなど一通りの機能は付いているが、電波時計やソーラーバッテリーのような機能はない。ただのクオーツ時計だ。

 ただしこの時計には、他の腕時計にない特徴がある。それはバイブ機能。アラーム、タイマー、時報などを、ブルブルッと本体の振動(バイブ)で教えてくれる。通常のアラームにも切り替えられるのだが、僕はもっぱらバイブ機能を使っている。そのために買った時計なのだ。

 毎正時ごとにブルッと教えてくれるのは、時間の経過が直感的にわかって便利。僕は腰が悪くて一定時間ごとに少し立ったり歩いたりすることを心がけているので、これはとてもありがたい。

 バイブの振動は着用している本人にはわかるが、周囲にはおそらくわからないと思う。携帯のバイブ呼び出しのように、周囲にもブンブン音が漏れるようなことはないはずだ。

 本体が多少分厚いのだが、軽いのでさほどごつい感じはしない。何と言っても安いのがいい。10気圧防水で10年の電池寿命を歌っているが、たぶんベルトが10年持たないので、その時点で買い替えになるだろう。チプカシはベルト交換するより、本体ごと買い替えてしまった方が安いのだ。

 じつはバイブ機能付きの目覚まし時計やタイマーが好きで、これ以外にも小型のもの(腕時計ではない)をいくつか持っている。腕時計型は初めてなのだが、今後あれこれ増えて行きそうな気がする……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

聖書 聖書協会共同訳?

 日本聖書協会が来年末をめどに発行を準備している新しい日本語訳聖書の正式名が、「聖書 聖書協会共同訳」に決まったらしい。

 現在出ている聖書が「新共同訳」で、その次に出るのが「聖書協会共同訳」というのはあべこべな感じがするが、それより気になるのは「これじゃ前に出ていた共同訳の立つ瀬がない」ということだ。

 日本聖書協会のプレスリリースには、今回の「聖書協会共同訳」について次のように書かれている。

聖書協会は、活動を開始した1875(明治8)年以来、明治元訳(1887年)、大正改訳(1917年)、口語訳(1955年)、新共同訳(1987年)の4種の聖書を翻訳・出版してきたが、今回も新共同訳に引き続き、カトリック教会とプロテスタント教会との共同訳となる。

 日本聖書協会にとって、1978年に発行された「共同訳」は存在しない歴史になっているようだ。しかしそれでは、新共同訳の「新」が何に対する「新」なのかがよくわからないではないか……。

 日本でカトリックとプロテスタントの共同訳聖書を作ろうという呼びかけは1960年代半ばに始まり、1970年代に入って本格的な作業が開始された。幹事役は日本聖書協会。この結果、1978年に「共同訳」の新約聖書が発行されているが、その後は旧約聖書の翻訳も進めていく予定だった。

 この共同訳は日本人が慣れ親しんだ聖書の翻訳を大きく離れ、原典ギリシャ語(新約聖書)の発音をそのまま固有名詞に持ち込むなど,かなり意欲的で大胆な訳になっていた。例えば四福音書の著者名も、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネではなく、マタイオス、マルコス、ルカス、ヨハンネスといった具合。イエス・キリストは、イエスス・キリストになった。

 この聖書がカトリックとプロテスタントの教会で広く使われていたら、その後の日本のキリスト教はずいぶんと様子が違ったものになっていただろう。

 しかしこの聖書、それ以前から聖書を使っていた人たちにはとても評判が悪かったのだ。まあそりゃそうだろう。気持ちはわかる。慣れた聖書が変わることに対する抵抗は文語訳が口語訳になる時にも見られたはずだが、この共同訳に対する抵抗はそれどころではなかった。

 こうした声に押されて聖書協会はこの「共同訳」の翻訳作業を中断し、新たに翻訳聖書を作ってそれを「新共同訳」と名付けた。聖書協会に捨てられた「共同訳」は講談社学術文庫で命をつないだのだが、それも今は絶版のようだ。(まあ古本で簡単に手に入るので、読むのは苦労しない。)

 で、「聖書協会共同訳」の話に戻る。

 当初は「標準訳」という名前も候補にあがっていたようだが、同時期に福音派系の新日本聖書刊行会も新改訳聖書の新訳作業を進めて、こちらも「標準訳」での発行がアナウンスされていたと記憶する。結局新たな新改訳は「新改訳 2017」という名で発行されたわけだが、ならば聖書協会は「標準訳」で出しても良かったのになぁ……というのが僕の無責任な感想だ。

 「聖書協会共同訳」は書名として長い。だがへたに略して「聖書協会訳」では他の訳と区別が付かないし(文語訳も口語訳も新共同訳も全部聖書協会訳だ)、「共同訳」となれば「新共同訳」とまぎらわしい上に、以前出した「共同訳」との区別が付かないではないか!

 まだ発売まで1年以上あるので、もうちょっとわかりやすい訳名が付くといいんだけどな。「明治元訳」とか「大正訳」があるんだから、いっそのこと「平成訳」とでもしてはどうだろう。平成は来年で終わるから、それ以降に新しい「平成訳」が出る心配は要らないぞ。

 もっとも発行が遅れて来年末から次の年にずれ込んでしまうと、もう平成じゃなくなっちゃうんだけどね……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

名古屋の中心と言えば名駅だ

 名古屋のショッピングゾーンと言えば栄と相場が決まっていたのだが、ここ数年の再開発で今は完全に名駅が名古屋の中心になっている。

 ちなみに「名駅」は「めいえき」と読む。これはもともと名古屋駅のことなのだろうが、現在は名古屋駅とその東側の商業地域一帯を含む正式な町名(名古屋市中村区名駅)だ。

 名古屋駅の周辺再開発が整ってきたのは本当にここ2〜3年のことらしく、僕が名古屋に引っ越して来てからも、大名古屋ビルヂング、JRゲートタワー、JPタワーなどが次々にオープンした。

 高層ビルと無縁の街だった名古屋に次々とビルができて、ビルができれば中に大量のテナントが入って、買物や食事の客で賑わうようになる。

 我が家は栄まで行こうとすると途中で電車乗換だが、名駅なら一本で行ける。そんなこともあって、何かあれば名駅まで出て買物だの食事だのをする。名古屋のくせに、人が東京なみに多い。さすがに都会だと思う。

 名古屋は一駅隣の(歩いて行ける距離)のささしまライブにまたいくつか高層ビルがオープンしたので、そこも新しい買物&食事ゾーンになりそう。あとは駅の西側再開発が待っているけれど、これも2017年のリニア開業に向けて着々と計画は進んでいるようだ。

 名古屋の景色は、今後10年ぐらいでがらりと変わると思う。へんに東京化してもつまらないので、名古屋らしい発展をしてほしいんですけどね……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

立憲民主党

 民進党の枝野幸男が、希望の党に合流しない民進党議員の受け皿として「立憲民主党」を立ち上げることにしたらしい。

 民進党は「事実上の解体」と言われていたが、これで決定的に解体・解党ということだろう。リベラル政党としての「民進党」、あるいは「民主党」が残るのは結構なことだが、「立憲民主党」もなんだか迫力不足ではある。

 立憲民主に誰が合流して行くのかが今後の見どころではあるのだが、それによっては案外これが「希望の党」以上の台風の目になるかもしれない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

リベラル受難の時代

 僕は自分を伝統主義者であり保守主義者だと思っているが、同時にリベラルでありたいとも思っている。

 保守主義とは、古い仕組みを頑なに守ることではない。世界は常に変化している。その変化に対処できない人や組織は、衰退していずれ死ぬしかないだろう。生き残るためには、どんな人も組織も変化しなければならない。だがその変化は、なるべく緩やかであることが望ましいのだ。

 自称保守主義者である僕は、そう考えている。

 だが急激な変化を嫌う保守主義は、あらゆる変化を嫌う前例踏襲主義や「昔はよかった」という懐古主義に陥りがちでもある。だがリベラルであることこそが、そうした停滞に風穴を開ける。リベラルだからこそ、急激でないとしても、人や組織がゆるやかに変化していくことを促せるのだ。

 しかし最近はこの「リベラル」という言葉が、ひどく肩身の狭いものになっている。なぜ日本人は、かくも「リベラル」が嫌いになってしまったんだろうか?

 「リベラル」とは「自由」のことだ。自由主義をリベラリズムと呼ぶ。小池百合子東京都知事は、新たに作った「希望の党」について「リベラルな議員は排除する」という方向を明確にしている。しかしその場合の「リベラル」とは何なんだろうか? リベラルを尊重しない政治正統は、一体どんな世の中を目指していらっしゃるのだろう?

 マンガ家の小林よしのりは、

自民党の中にだってリベラルな議員はいるのに、希望の党はリベラル排除だという。
じゃあ、自民党より「極右」になる。

自身のブログで述べている。自民党というのは正式名称が自由民主党だ。英語名称を「Liberal Democratic Party of Japan」という。今や政党名の中に「リベラル」という言葉を入れた、日本における唯一の国政政党になっている。

 自民党は右寄りになっても、看板自体は「リベラル」なのだ。党内にはリベラルな主張をする議員がまだ大勢いるし、それを排除するという話もない。(冷飯は食わされているかもしれないが。)

 だが希望の党はリベラル排除……。自由のない希望って、それ何なのよ?

 日本人はいつからこんなに「自由」を毛嫌いするようになったんだろうか。日本人は北朝鮮や中国を「あの国には自由がない」などと批判するが、それでいて「リベラル排除」に喝采を送るのはおかしいんじゃないだろうか。

 民主主義政治にとって「リベラル」はまず大前提だろう。国民の自由を縛って形ばかりの民主主義を行うなら、それは「北朝鮮民主主義共和国」と変わらない。

 日本は江戸時代から市民的な自由が謳歌されていたし、明治以降はそれに政治的な自由も加わって、大正時代にはそれが一定の水準にまで達した。昭和初期からは戦争によってそれがついえたが、戦争になればどんな自由な国でもそれが制限されるのは、イラク戦争時のアメリカを思い出してもわかることだ。しかしそうした自由の制限を当たり前のこととはせず、平時に戻れば揺り戻しがあるのがリベラルな社会であって、アメリカは今でもそうした基本的な気質を失っていないと思う。

 しかし日本はどうなのか。日本人は長引く不況の中で、長らく謳歌していた自由を自らかなぐり捨てようとしている。政治家に「リベラル」のレッテルを貼ることは、今では「時代遅れのサヨク」「建設的な対案のない批判勢力」と同義であり、ひどい場合には「反日運動家」「外国のスパイ」とまで言われる始末なのだ。

 確かに政治家や知識人と言われる人たちの中には、30年前の東西イデオロギー対立から脱皮できない人たちも大勢いる。しかし市民的な自由を主張する人たちに片っ端から「リベラル」のレッテルを貼り、「時代遅れのサヨクだ」「老害だ」「とっととひっこめ」と排除してしまうのも乱暴すぎやしないか?

 僕は伝統主義者であり保守主義者だ。しかしリベラルでもありたいと思っている。最近のリベラル排除の風潮には疑問を感じているし、リベラルが復権することこそが、日本人の幸せにつながると信じているのだが……。

 で、次の選挙ではどうすりゃいいんですかね?

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

仏教の面白さ

 ここ何年かで、仏教の本を読むことが多くなっている。もともと僕はキリスト教育ちで、その後は映画の仕事を通じてキリスト教を掘り下げる方向に向かったのだが、最近の個人的な仏教ブームは仕事とはあまり関係がない。

 仏教関係の入門書はずいぶん前に何冊か読んでいたのだが、どれもあまりピンと来なかったというのが正直なところだ。四諦と八正道、十二縁起、三法印に四法印、六波羅蜜など、次から次に数字と専門用語が出てくるものの、まるでチンプンカンプンだった。

 岩波文庫版の「ダンマパダ」(中村元訳の「ブッダの真理のことば・感興のことば」)は前から持っていたのだが、ちょっと読んで投げ出していた。数年前に辻秀一先生のライフスキルに関するセミナーに参加して「心を整える」ということを学び、ここから「ダンマパダ」を読み直したら、ブッダの言葉は心を整えるための心構えやノウハウが満載で面白かったというのがきっかけだ。

 ライフスキル方面の探求と実践からはすっかり遠ざかってしまったが、仏教関係は面白いと思うようになった。マインドフルネス瞑想なども、自己流で時々やっている。あくまでも自己流なので、あまり効果は実感できないのだけれど……。

 読書に関して言えば、「ダンマパダ」の後は「スッタニパータ」を読み、さらに仏教関係の概説書に戻り、原始仏教から日本の仏教関係の本を読んだりして今に至っている。専門的な本を読むほどではなく、現時点ではあくまでも表面を舐めている程度だが、仏教はキリスト教と同じぐらい範囲が広いのできりがない。今は巨大なバースデイケーキの上に立てたローソクを引き抜いて、その根本の銀紙に付いたクリームを少し舐めてみた程度のことだろうと思う。

 僕が仏教を面白いと感じるのは、そこにキリスト教的な人間観や世界観とはまったく別種の考えがあるからだ。

 例えばキリスト教は「わたしはある」と名乗る神が、自らの似姿として人間を作ったことになっている。当然人間たちも「わたしはある」という強烈な自意識・自我を持って生きている。しかし仏教はそれとはまったく逆に、「わたしはない(無我)」を主張するのだ。

 もちろん人間はほとんどの場合、「わたしはある」と考えて生きている。しかしそれは仏教の考えからすると愚かな人間の錯覚に過ぎず、他から独立した個別具体的な「わたし」という存在はあり得ない。あらゆるものには固有の実体がなく(諸法無我)、周囲との関係性の中でかりそめに存在するはかないものなのだ。

 キリスト教は世界を「神によって創造されたもの」と考える。しかし仏教には創造神というものがなく、しかも世界は無限に存在しているという。我々の暮らす世界は百何十億年か昔にビッグバンによって誕生したと言うが、仏教の世界観ではこうした「我々の暮らす宇宙」に限を飛び越えた多元宇宙を想定している。生命はそうした多種多様な宇宙の中を、無限に輪廻しているのだ。

 その中には戦争に明け暮れる修羅の世界もあれば、飢えにさいなまれる餓鬼の世界もある。安楽に暮らす天上界もあれば、ひたすら苦しみを味わう地獄もある。これは我々が暮らしている世界の中だけでなく、無限に存在する多様な宇宙のありようのことだ。仏教ではそれを大ざっぱに六道に分類するわけだが、実際には他にも無数の世界があるのだろう。(西方浄土に代表される別の仏国土も、そうした多元宇宙のひとつだと考えてもいい。)

 キリスト教はかなりスケールの大きな話をしている宗教だが、仏教もそれに負けずにスケールの大きな世界を扱う宗教だ。こうした人間の生死の尺度を離れたスケールの話というのは、荒唐無稽と言えば荒唐無稽ではあるが、それを考えることで目の前の現実を別の視点から見られる効能がある。

 もちろんキリスト教と仏教の共通点もある。両宗教で共通していることの第一は、「人間はアホである」「アホは死んでも治らない」という身もふたもない人間性の洞察をしていることだ。人間がアホなのは原罪のせいなのか、はたまた無明のせいなのかはわからない。しかし「人間はアホである」「人間はアホだから不幸になるのである」「アホは治らないのだから人間はずっと不幸なままである」という認識は変わらない。

 アホな人間は、どうすればいいのか? ゴータマ・ブッダは「修行して涅槃に至れ」「悟ってブッダになれ」と言うが、普通の人にそれは無理。しょうがないから仏教では、「今の人生では無理でも来世に望みを託せ」と言いだした。やがて「阿弥陀様が助けてくれるから、来世では必ずブッダになれる」という信仰も生まれる。キリスト教も「イエス・キリストを信じれば世の終わりに必ず神の国に入れる」と、とりあえずいつ来るかわからない未来に問題の根本的な解決を投げ出してしまった。

 でも未来に問題を投げ出すことで今はその問題に悩まずに済むのなら、それはそれで幸せなことなのだ。この点では、仏教もキリスト教も似たようなものだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

しらけ鳥は飛んでいく

 ニュースでは盛んに「事実上の選挙戦突入!」などと騒いでいるが、気持ちは白けるばかりだ。たぶん国民の多くは白けきっていると思う。

 頭の中では小松政夫の「しらけ鳥音頭」(作詞:小松政夫・スージー白鳥)が無限にリフレインしている。

しらけ鳥 飛んでいく
南の空へ
みじめ みじめ
しらけないで しらけないで
しらけたけれど
みじめ みじめ

 選挙というのは多少なりともお祭り気分のもので、それが任期満了による地方自治体の選挙であれ、全国区のニュースになる国政選挙であれ、多かれ少なかれ根拠のない浮かれた気分に包まれるものなのだ。

 しかし今回の選挙には、それがまったく感じられない。いったい何なんだろう。それとも僕の知らないところで、この選挙に浮かれた気分になっている人もいるんだろうか……。

 頭の中にこだまするしらけ鳥は、四方どこへ飛んでいってもしらけっぱなしだ。膨大な国費を使った茶番劇の幕が開き、数週間後には安倍首相がニコニコした顔で「国民の審判は下った」「自民党は信任を得た」「憲法改正だ」などと言い出すに違いない。

 安倍首相は「北朝鮮の脅威や少子化といった国難を、国民の信を得てご理解とお力をいただき、乗り越えていかなければならない」などと言っているが、日本が憲法を改正すれば北朝鮮の対米政策が変わるのか? 憲法を改正すれば少子高齢化が何とかなるのか? なるわけな〜いじゃ〜ん!

 政治家の言葉は空回りするばかり。まったくしらけるしかないのだ。しらけていてもしょうがないと思いつつ、しらけてしまうのは止められない。みじめ、みじめ〜♪

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

国会は解散し、民進党も解散する

写真:時事通信

 衆議院はよくわからない形で解散したが、これは安倍首相にとって選挙をする前からの勝ち戦だろう。何しろ野党第一党の民進党が「希望の党に合流する」という意味不明の理由で、事実上消滅してしまうからだ。

 国政選挙に自分の党の名前で候補者を立てない国政政党なんて、少なくとも僕は今までに聞いたことがない。弱小政党ならさまざまな理由で他党と相乗りはあり得るだろうが、民進党は国会の野党第一党なのだ。それがこの体たらくでは、与党の勝ちは決まったようなものだ。

 野党共闘はこれで足をすくわれ、共産党も維新も「うちはうちでやる」と独自路線を宣言。民進党は他党の信頼を失い、希望の党からも「誰でも受け入れるわけではない」と冷水を浴びせられ、もうまったく何やってんだか……。

 このダメダメぶりは前原代表だからダメというわけではなく、もう民進党は賞味期限が完全に切れてしまっているのだ。

 冷えたビールはコップに注いで泡が立っているときが一番美味い。民主党がブームを起こしたときというのは、まさにそういう状態だった。しかし民主党印のビールはあっという間に泡が消えて、ぬるくなって気が抜けてしまった。こうなったらもう、誰も手を付けない。

 泡が消えて生ぬるくなったビールを再び泡立たせるためには、新しい冷えたビールを上から注ぐしかないのだ。それが「希望の党との合流」という作戦なのだろうが、ぬるいビールが混じれば冷えていたビールもぬるくなる。希望の党の側は、頭数がほしいから民進議員の合流に異論は無いだろう。しかし民進の議員が混じっても、民進色を出させないはずだ。ぬるいビールによるイメージダウンは避けたい。

 次の選挙は自公与党と希望の党の一騎打ちという話もあり、自民党の側もそうしたムードを出そうとしているらしい。しかしこれは勝負にならないと僕は思っている。希望の党には、かつての維新の会ほどの勢いも感じられない。選挙は自民党の勝利に終わるだろう。へたをすれば、前回の選挙以上の大勝かもしれない。

 自民党政権にウンザリしている人は、野党に票を投じるしかない。しかしいったいどこに投票すればいいのだろうか? こういう場合は「勝てそうな野党に票を入れる」というのが鉄則なので、やはり希望の党に入れるべきか。それとも老舗野党の共産党に希望を託すか。

 とりあえず自分の選挙区の趨勢を見て、「勝てそうな野党」がどこになるのかを見極めるしかない。やれやれ。なんだか盛り上がりに欠ける、憂鬱な選挙になりそうだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

手帳の季節

 もう間もなく9月も終わる。文具店や書店には、来年用の手帳の棚ができている。

 僕はもう来年の手帳を決めてしまった。スケジュール帳は博文館の横線ポケット日記で、これはここ何年もずっと同じものを使っている。(ただし装丁やカバーの色などはそのつど違う。)

 サイズはワイシャツの胸ポケットにすっぽり収まる小型サイズ。鉛筆付なのでこれだけでもたいていの用には間に合うが、僕は同じ胸ポケットに3色ボールペンを挿してそれを使うことが多い。附属の鉛筆は万が一のための保険だ。

 見開き1週間が一覧できて、1日は5行分。そのうち1行は日付や祝日、記念日などが印刷してあるので、毎日使えるのは4行。ここに午前中1行、午後2行、夕方以降1行のペースで予定を記入する。だいたいこれで、間に合わない要件はない。どうしても間に合わない場合は、見開きの右下にあるメモスペースを使えばいい。

 今年はもう1冊、同じ博文館の要務手帳というのも使い始めた。これはスケジュール帳ではなく、業務日誌として使う。見開きで4日分のスペース。左側の欄には時間の表示があるので(8時から午後5時まで)、ここにその日に実際に行った仕事を書き込む。

 右側は罫線のない白地で、ここにはその日の予定を書いておく。メモを書く場所が少ないのだが、これは土日や祝日の欄を使えば間に合う。要務日記は使い始めたばかりでまだ試行錯誤しているところもあるのだが、細身の油性ボールペンで1行ずつ作業を埋めていくのはそれなりに楽しい。

 スケジュールもダイアリーもスマホのアプリがいくらでも出ている分野だが、僕はもう何年も前から手書きにしている。理由は特にない。

 便利さで言えばスマホの方がいいだろう。Googleカレンダーと連動させれば、パソコンでもスマホでも同じ予定表が見られる。実際に自分でも、そうした使い方をしていたことがある。でも手書きに戻った。自分にはこれぐらいが丁度いいようだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記