パリの連続テロ事件で妻を失った男性が、「君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈したことになる」と憎しみを否定する記事をFacebookに投稿して話題になっているらしい(参照)。
こういう記事を読むと、したり顔でこう言う人が現れる。
「ヨーロッパ人はキリスト教だから、他人を許すことが文化的に定着しているのだ。何しろ聖書には、右の頬を打たれたら左の頬も向けろと書いてある。キリスト教のヨーロッパと仏教の日本とでは、そもそも文化が違うよ」。
僕はこうした俗流の宗教文化論には、じつのところまったく賛成できない。もちろん聖書の中に、「敵を憎むな」に類する言葉が書かれているのは事実だ。有名なのは次の言葉だろう。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイによる福音書 5:44)
これはイエスの言葉だが、この言葉は旧約聖書の次の言葉と対応している。
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(レビ記 19:18)
レビ記にある「隣人」とは、復讐の対象となる相手であり、恨みを抱いても当然と思えるような相手のことだ。つまりここでは既に「敵を愛せ」と言われている。
なぜ敵に復讐せず、恨まず、愛さなければならないのだろうか。聖書は「そうすることで、自分が神に赦され愛されるからだ」と説明したり、「自分で復讐せずとも、神がいずれ公正な裁きを行うからだ」と説明する。
つまりキリスト教的な「敵を赦し愛しなさい」は、神に対する信仰なしには存在し得ない教えなのだ。そう考えるなら、これはやはり「キリスト教徒以外には無関係な話」になるだろう。
だがイエスの登場より500年ほど前、同じように「敵に復讐するな」「敵を恨むな」と教えた宗教者がいる。仏教の開祖である釈迦だ。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(真理のことば 3-5)
「敵を憎むな」「赦してしまえ」というのは、キリスト教だけの教えではない。仏教だって昔から同じことを教えているのだ。
※「聖書」の引用は新共同訳。「真理のことば」は岩波文庫の中村元訳。