「キリスト教の自己批判」を読む

キリスト教の自己批判 上村静の「キリスト教の自己批判: 明日の福音のために」を読んだ。講座のレジュメを文書化したものだそうで、内容的には「旧約聖書と新約聖書」「宗教の倒錯―ユダヤ教・イエス・キリスト教」を踏まえて、そこで述べられていた内容を要約したものになっているようだ。僕は「旧約聖書と新約聖書」は読んでいるのだが、「宗教の倒錯」は読んでいなかったので、今回の本は刺激的な読書体験になった。

 著者は聖書を2つの意味で神話だと断じる。まず第一に、聖書は神が人間の歴史に介入する物語になっているという意味で神話である。第二に、それが「聖書」という特権的な地位を持つ信仰の書とされ、そこに「神の言葉」が書かれていると考えられていることが神話であるとする。著者は神話についてこう述べる。

 神話は抽象的な言語を用いて、間接的な仕方で、人間存在についての洞察を物語っているのである。この洞察には真理性が含まれている可能性がある。なぜなら、人間存在のあり様は古代も現代もさして変わらないからである。

 この著者の主張に僕は全面的に同意する。同じく次のような主張にも僕は同意してしまうのだ。

 聖書は古代人の世界観のなかから生み出されたものなのだから、聖書を史実の報告とする「神話」はもはや現代人には無意味なだけでなく有害である。

 こうした著者の主張に、いわゆる聖書原理主義者の主張を煙たく思っているクリスチャンたちも溜飲を下げるに違いない。だが著者はもっと徹底的に聖書を、キリスト教を批判し解体していく。それは聖書原理主義者の信仰だけでなく、キリスト教の「正統派」と呼ばれる伝統的な信仰さえも解体し、聖書正典の中身さえ批判し解体してしまうのだ。

 キリスト教は「神の国」を待ち望む黙示思想の宗教だと一般的には理解されている。だが著者はこうしたキリスト教を批判する。黙示思想は結局のところ二元論だ。終末に決定的な形で神が歴史に介入し、そこで「救われる者」と「滅びる者」が分けられる。今は不遇の身にある者も終末になれば救われて、現世で不当な利益を得ている者たちが滅びていく様子を見下ろして高笑いするのだ。黙示思想は「この世は不当で不正なことがまかり通っているが、来たるべき神の国ではそうした不正が一掃される」と考える点で現世否定なのだ。著者はこうした黙示思想を否定する「コヘレトの言葉」を引用しながらこう述べる。

 コヘレトはしばしば厭世的と言われるが、厭世的なのはコヘレトではなくむしろ黙示思想の方である。なぜなら、黙示思想は「この世」を全否定した上で「来るべき世」を夢想する者だからである。

 著者はこうした伝統的なキリスト教に対して、イエスの宣教は神に生かされている〈いのち〉に対する洞察に他ならないのだと述べるのだが、僕はこのへんの理屈がまだよくわからない。これもまた著者の作り上げた新しい「神話」なのだが、それがキリスト教の伝統的な教義や伝統にどのように接ぎ木されるのかが見えてこないのだ。

 「キリスト者」とは、キリスト教の「歴史」に参与する者である。それは、キリスト教の過去・原罪・未来に責任を負う者のことである。

 と著者は言う。キリスト教の歴史の中には、血塗られた負の歴史もある。それを受け止めて、その歴史もひっくるめたキリスト教の「歴史」に参与し、それを乗り越えることを考えなければならない。著者の言う〈いのち〉に対する洞察は、そうした方法のひとつかもしれない。でもそれは「使徒信条」に代表されるキリスト教の伝統的な信仰と、うまく接合することができるのだろうか……。これは結構、大変なことに思うのだけれど。

 いずれにせよ刺激的な本であることは間違いない。鉛筆で面白いところに傍線を引っ張りながら読んでいたのだが、あちこちが傍線だらけになってしまった。キリスト教の本にしては値段もあまり高くないし、お薦めかも。

 今日は映画瓦版を少し更新。メルマガも少し手を付ける。しかし朝から頭痛。熱はないし、アスピリンを飲んでも落ち着かない。なんだか冴えない1日になってしまった。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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