リベラル受難の時代

 僕は自分を伝統主義者であり保守主義者だと思っているが、同時にリベラルでありたいとも思っている。

 保守主義とは、古い仕組みを頑なに守ることではない。世界は常に変化している。その変化に対処できない人や組織は、衰退していずれ死ぬしかないだろう。生き残るためには、どんな人も組織も変化しなければならない。だがその変化は、なるべく緩やかであることが望ましいのだ。

 自称保守主義者である僕は、そう考えている。

 だが急激な変化を嫌う保守主義は、あらゆる変化を嫌う前例踏襲主義や「昔はよかった」という懐古主義に陥りがちでもある。だがリベラルであることこそが、そうした停滞に風穴を開ける。リベラルだからこそ、急激でないとしても、人や組織がゆるやかに変化していくことを促せるのだ。

 しかし最近はこの「リベラル」という言葉が、ひどく肩身の狭いものになっている。なぜ日本人は、かくも「リベラル」が嫌いになってしまったんだろうか?

 「リベラル」とは「自由」のことだ。自由主義をリベラリズムと呼ぶ。小池百合子東京都知事は、新たに作った「希望の党」について「リベラルな議員は排除する」という方向を明確にしている。しかしその場合の「リベラル」とは何なんだろうか? リベラルを尊重しない政治正統は、一体どんな世の中を目指していらっしゃるのだろう?

 マンガ家の小林よしのりは、

自民党の中にだってリベラルな議員はいるのに、希望の党はリベラル排除だという。
じゃあ、自民党より「極右」になる。

自身のブログで述べている。自民党というのは正式名称が自由民主党だ。英語名称を「Liberal Democratic Party of Japan」という。今や政党名の中に「リベラル」という言葉を入れた、日本における唯一の国政政党になっている。

 自民党は右寄りになっても、看板自体は「リベラル」なのだ。党内にはリベラルな主張をする議員がまだ大勢いるし、それを排除するという話もない。(冷飯は食わされているかもしれないが。)

 だが希望の党はリベラル排除……。自由のない希望って、それ何なのよ?

 日本人はいつからこんなに「自由」を毛嫌いするようになったんだろうか。日本人は北朝鮮や中国を「あの国には自由がない」などと批判するが、それでいて「リベラル排除」に喝采を送るのはおかしいんじゃないだろうか。

 民主主義政治にとって「リベラル」はまず大前提だろう。国民の自由を縛って形ばかりの民主主義を行うなら、それは「北朝鮮民主主義共和国」と変わらない。

 日本は江戸時代から市民的な自由が謳歌されていたし、明治以降はそれに政治的な自由も加わって、大正時代にはそれが一定の水準にまで達した。昭和初期からは戦争によってそれがついえたが、戦争になればどんな自由な国でもそれが制限されるのは、イラク戦争時のアメリカを思い出してもわかることだ。しかしそうした自由の制限を当たり前のこととはせず、平時に戻れば揺り戻しがあるのがリベラルな社会であって、アメリカは今でもそうした基本的な気質を失っていないと思う。

 しかし日本はどうなのか。日本人は長引く不況の中で、長らく謳歌していた自由を自らかなぐり捨てようとしている。政治家に「リベラル」のレッテルを貼ることは、今では「時代遅れのサヨク」「建設的な対案のない批判勢力」と同義であり、ひどい場合には「反日運動家」「外国のスパイ」とまで言われる始末なのだ。

 確かに政治家や知識人と言われる人たちの中には、30年前の東西イデオロギー対立から脱皮できない人たちも大勢いる。しかし市民的な自由を主張する人たちに片っ端から「リベラル」のレッテルを貼り、「時代遅れのサヨクだ」「老害だ」「とっととひっこめ」と排除してしまうのも乱暴すぎやしないか?

 僕は伝統主義者であり保守主義者だ。しかしリベラルでもありたいと思っている。最近のリベラル排除の風潮には疑問を感じているし、リベラルが復権することこそが、日本人の幸せにつながると信じているのだが……。

 で、次の選挙ではどうすりゃいいんですかね?

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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