2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方

 ここ2〜3年で何かと話題になっている人工知能について、それが我々の生活、より具体的に言えば「仕事の現場」や「働き方」をどのように変えていくかについて論じた本だ。

 著者は人工知能やテクノロジーの専門家ではなく、企業向けのコンサルタントとして組織のあり方と働き方について様々な提言や実践を行っている。そのためこの本の中では、人工知能について「作る人」ではなく、人工知能を「使う人」の立場からさまざまな事例が紹介されている。

 ところでなぜ「2020年」なのだろうか?

 じつは人工知能は大学や企業の研究室の中にだけ存在するのではなく、既に一部で実用化され、ビジネスにも応用されているのだ。それは今後数年の内にますます社会に浸透して行くに違いない。

 インターネットやスマホが、社会の中で欠かすことのない情報インフラになるまで6〜7年かかっている。市販のパソコンがインターネットに簡単に接続できるようになったのは1995年。その6年後には各家庭にブロードバンド回線が引き込まれ、首相官邸から国民に向けてメールマガジンが発行されるようになった。iPhoneの初号機は2007年1月に発表され、数年の内に出荷台数でガラケーを追い抜き、7〜8年かけて契約数でもガラケーを追い抜いている。

 インターネットやスマホが広がっていく様子をリアルタイムで経験している世代の著者は、人工知能についても社会へ浸透するまでの時間を「立ち上がりから6〜7年」と予測する。ディープラーニングが人工知能技術のブレイクスルーとなり、人工知能が一気に「賢くなった」のが2〜3年前だ。ならばそこから6〜7年後は2020年前後になる。

 人工知能の普及によって、「10年後にはこんな仕事がなくなる」「20年後にはあらゆる職種で人間が働く必要がなくなる」などとセンセーショナルに報じられることも多い。しかし著者は、そんな先の話を今考えていてもあまり意味がないと言う。10年後、20年後のことについては、専門の技術者の間でもさまざまな意見があってよくわからない。しかし3年後の2020年についてなら、かなりの精度で未来を予想できるのではないだろうか。

 今の仕事が10年後にどうなっているかなんて、誰にもわからない。でも3年後なら、今の仕事はまず間違いなく残っている。ただし、人工知能の技術が入ってくることで、その仕事のスタイルはだいぶ変化しているかもしれない。ごの本は、そんな近未来についての水先案内なのだ。

 著者はこの本の中で、人間がもともと持っている「身体性から生まれる感性」が、これからの時代に価値を生むと述べている。人工知能はとても賢い。人間の何倍も正確に仕事を行うし、疲れることを知らない。しかし生身の肉体を持っていないので、人間の「気持ち」が理解できない。

 ひょっとすると将来は人間の気持ちを何らかの形で数値化し、分析して対処するという方法を人工知能が身に着けるかもしれない。しかし同じ身体性から生まれる「共感」は、そこにはないだろう。仕事をやり遂げた「達成感」とか、せっかくの仕事が無駄になった「徒労感」とか、仲間同士でひとつのことに打ち込んだ「連帯感」、理不尽なことを言われたことに対する「憤り」などが、人工知能にはわからない。何らかの形でそれをシミュレーションすることは可能でも、「その気持ちわかるわ〜」という心の底からの共感の言葉が出ることはないだろう。

 こうした人間の「身体性から生まれる感性」は、人工知能の時代になればなるほど、人工知能には生み出せない人間独自の価値として重要性を増していくというのが著者の主張だ。効率を求める定型化された仕事については、どんどん人工知能に置き換えられていくし、置き換えられるべきなのだ。人間は人工知能が苦手な仕事を行えばいい。それは人間にとってやりがいがあるし、何よりも楽しいはずだ。

 著者の「人工知能時代」に対する見通しはじつに楽観的だ。確かにそういう時代が来れば楽しそうだ。少なくとも僕は楽しくなると思う。

 しかしなぁ……と、僕は天邪鬼でへそ曲がりだから思ったりもする。

 世の中で働いている人のほとんど、7割か8割は、人工知能が苦手とする「ヒューマンタッチな仕事」をそれほど得意としていないのではないだろうか。特に日本人は、新しい仕事を創造するより、言われた仕事をただ黙々とこなす方が向いている人が多いと思う。これは日本人の大多数のご先祖さまが、お百姓だったことと無関係ではないだろう。お百姓は決まりきった仕事を、ひたすら黙々と繰り返すものなのだ。

 日本人のDNAの中には、そうしたお百姓の性分が染みついている。決まりきった仕事を、ひたすら正確に繰り返す。その中で、合理化や効率化できそうなものを現場で改善していく。そうしたDNAが、お百姓の血が、かつての日本の製造業を支えていたのだ。

 極端なことを言えば、日本人の7〜8割は人工知能に置き換えられるような仕事に従事している。単に嫌々働いているわけではなく、そうした仕事を愛し、誇りにも思っている。そこが問題だ。人工知能の時代にも日本が世界の中で存在感を発揮するには、こうした日本人の気質や性分を、根本から作り替える必要がある気がするのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

黒澤明の映画入門

 著者の都築政昭は1934年生まれで、今や絶滅の危機に瀕しているであろう「昭和一桁世代」だ。黒澤明の多くの作品を、おそらくはリアルタイムで観ているに違いない。「黒澤明 全作品と全生涯」「黒澤明の遺言」など、黒澤明に関する本も何冊か書いている。

 あいにく僕はこの著者の本をほとんど読んでいないのだが、今回の本はあまり面白いと思えなかった。

 黒澤明の著書やインタビューから黒澤本人の言葉を抜き出し、著者がテーマ別に整理して、黒澤明自身にそれについて語らせる……といった趣向の本だ。この狙いは悪くないと思う。しかしテーマの区分が曖昧で、読んでいても切れ味が悪い。黒澤明の語録という素材は極上品なのに、陳列の仕方が悪くて素材をダメにしてしまっている気がする。

 なぜそうなってしまったのか? それは著者が素材に頼り切りで、それをどう料理し、どう献立を組み立てるかという工夫を怠っているからだと思う。(これは編集者の責任でもある。)申し訳ないが、黒澤明という「素材」は、もう鮮度が落ちてきているのだ。亡くなったのは1998年。もう20年近い昔のことだ。

 この本はポプラ新書から出ているのだが、ポプラ社は児童書で知られる出版社。しかしポプラ新書が児童やYA世代向け……というわけでもないらしい。しかしながら、黒澤明の没後18年目(この本は2016年初版)に出される「入門書」ということであれば、これはやはり、黒澤映画にリアルタイムでは接してこなかった若い映画ファン向けの本ではないのか?

 この本に関しては、そうした「本の成り立ち」や「立ち位置」自体が良くわからなくなっている。要するに、この本のコンセプトは何なのかということだ。

 例えばこの本には、黒澤明の作品リストすらない。監督作はたった30本だ。なぜそれを一覧にして、簡単なあらすじを添えて紹介できないのだろうか? かわりにこの本には、「黒澤映画の名作選」として15作品が紹介されている。だがこれにもあらすじはない。これでは「映画ガイド」にならないではないか……。

 この本を読めば、著者が黒澤明に心酔していることはわかる。黒澤明の映画術をほとんど絶対視し、黒澤明を「人間賛歌のヒューマニスト」と持ち上げる。黒澤明の限界も欠点も、一切認めようとしない黒澤明絶対主義者だ。

 黒澤明の映画作りには、他の映画作家にはない強い特徴、個性がある。入念なリハーサルを繰り返して、複数カメラでワンシーン・ワンカットで撮影するのはその最たるものだろう。だが著者はそのメリットや出来上がった映像の素晴らしさについては黒澤の言葉を引いて力説するが、デメリットについては何も言わない。メリットばかりなら、なぜ他の映画監督は黒澤方式をもっと取り入れないのだろうか?

 黒澤明の時代にはフィルム代がやたらかかるという問題があったが、今ならデジタルだから費用はさほどかからない。マルチカメラがメリットばかりなら、同じ方式をまねする映画作家が続出しても良さそうなものだろうに。しかし実際にまねする人が出ないのは、マルチカメラ方式には欠点も多いからなのではないか?

 黒澤明は僕の大好きな映画作家だし(もちろんリアルタイムではないが劇場で全作品を観た)、関連本もいろいろと読んでいる。黒澤明は日本が世界に誇る偉大な映画作家だが、しかしその黒澤明にも欠点はあるし限界もあったのだ。それでもなお、黒澤明の映画は素晴らしい。

 この本を読むぐらいなら、僕は佐藤忠男の「黒澤明作品解題」を薦める。岩波書店の「全集黒澤明」から作品解題だけを集めたものだが、資料的な価値も高いものだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

仏教の冷たさキリスト教の危うさ

 禅僧になったドイツ人(元クリスチャン)が書いたキリスト教概論。

 仏教とキリスト教を対比しながら双方の違いを解説するという主旨の本だが、それが成功しているとは思えない。著者には既に仏教や禅について書いた本が多数あるため、仏教について改めて解説することに筆が乗らなかったのではないだろうか。

 それに比べると、著者のキリスト教論や聖書論はじつに生き生きしていて面白く読める。著者はこれらについてもじつによく勉強しているようで、大きな間違いなどもほとんど見受けられなかった。元キリスト教徒(著者の祖父は牧師だいという)だから詳しいわけではない。キリスト教徒でも、聖書やキリスト教の成り立ちについて知らない人は山のようにいる。著者は仏教を学びつつ、著者自身のベースになっているキリスト教思想についても、かなり突っ込んだ学びを行っているのだ。その上での、辛辣なキリスト教批判だ。

 ただ、ここではキリスト教についてある程度の知識が前提とされているようにも思う。聖書の成り立ちやキリスト教の成り立ちについて、聖書におおよそどんなことが書かれているかについて、何も知識が無いという状態では、著者が何を批判しているのかがわかりにくいのではないだろうか。

 この本に問題があるとすれば、それは、著者の知っているドイツのキリスト教を「西洋におけるキリスト教の標準形」と考え、著者の属している禅宗の教えを「仏教の標準形」と考えているような記述が時折見られることだ。キリスト教は多様であるし、仏教も多様であることは、著者も当然知っている。だからそうした「標準形」をあえて離れた外部の視点からキリスト教や仏教について論じようとしているわけだが、それでもやはり、自分のよく見知っているキリスト教や仏教の形に引き戻されてしまう部分が見られるのだ。

 これはしかし、本書の問題ではあるが欠点ではないのかもしれない。ここに書かれているキリスト教や仏教は、学者が採集してきて標本箱に入れたような「死んだ宗教」ではなく、著者の中で今まさに活動している「生きた宗教」なのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

現代に生きる信仰告白 -改革派教会の伝統と神学

 作家の佐藤優が2015年11月3日に日本キリスト教会大森教会で行った講演と座談会、質疑応答の内容を書籍化したものだ。

 著者は現代の日本では数少ない「キリスト教作家」のひとりだと思う。かつては三浦綾子や遠藤周作がいたのだが、現在は佐藤優だろう。ただし三浦や遠藤は小説というフィクションの世界で活躍し、佐藤優はノンフィクションの分野で活躍している。それが時代の違いなのかもしれない。

 著者にはこれまでにも何冊かのキリスト教系の著書があるのだが、これはその中でも最も読みやすく、広い範囲を扱っている本だと思う。ただし聞き手がキリスト教関係者、しかも改革派の教会の教会員がほとんどということもあり、著者がそれを前提として話している部分も多い。

 プロテスタント教会の中での改革派や長老派の位置づけ、組合教会や会衆派教会とはどんなものか、キリスト教神学校の中での同志社の位置づけなどがある程度わからないと、著者の言っていることや会場でのやりとりがわかりにくいかもしれない。

 キリスト教に対する著者のスタンスは、きわめてラジカルな部分もあれば、超保守的に見える部分もある。しかしこれが「信仰者」の立場というものなのかもしれない。信仰に対して部外者であれば、話はもっと単純で、首尾一貫した態度も取れるのだろう。だが著者は信仰者なので、キリスト教に対して他者として接することができないのだ。

 「自分の中で譲れない部分」と「譲ってもいい部分」「どうでもよい部分」のまだら模様の中で、キリスト教に対する態度は多少なりともゴチャゴチャしたものになる。それが「生きた信仰」というものであって、このいびつな形は、著者が真摯に信仰と向き合っている証拠でもあるのだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

「バカダークファンタジー」としての聖書入門

 架神恭介によるキリスト教三部作の第三部。旧新約聖書66書を全巻読んだ上で、各文書の主要トピックや内容をまとめ、著者がそこに辛辣なコメントをするという内容。

 ちなみにこれに先立つ過去の2冊は、キリスト教史を東映実録やくざ路線風に脚色した「仁義なきキリスト教史」と、より網羅的にキリスト教史のトピックを取り上げた「かわいい☆キリスト教の本」だ。どちらも聖書やキリスト教史の資料をしっかり読み込んだ上で書かれた本になっている。

 この三部作のすべてに言えることだが、著者のキリスト教や聖書に対する姿勢には遠慮がまったくない。信仰の外側からキリスト教の世界にずかずかと土足で踏み込んで、著者の目から見ておかしなものはおかしいと言い、受け入れられないものは受け入れられないとはっきり言いきっている。キリスト教徒から見れば、これはずいぶんと無礼な態度に違いない。

 しかし僕はこれが、架神恭介という作家が書くキリスト教関連本の良さだと思うのだ。

 キリスト教は外部に開かれた宗教だ。中身に隠し事は何もない。信仰の規範となる聖典(聖書のこと)は普通に書店で市販されているし、過去の歴史も、そこで起きた事件も、基本的な教義なども、すべて外部にオープンにされている。一切の隠し立てなしに全部さらけ出した上で、「これが信じられる人はいらっしゃい」というのがキリスト教なのだ。

 部外者が土足でのそのそ中に入り込んでいけるのは、キリスト教がオープンな証拠だろう。信仰の外側にいる人たちがキリスト教について何を言おうと、キリスト教内部のルールでそれを断罪したり攻撃することもない。

 そもそもこの著者の本を読んで、それを批判したり断罪したりすることができるキリスト教徒がどれだけいるだろう。例えば今回の本で言えば、著者は少なくとも聖書を全部読んでいる。しかもただ読むだけではなく、複数の訳を読み比べ、訳注を読み込み、注釈書と突き合わせ、相当にしっかりと読み込んでいるのだ。「聖書は当然読んでます!」というクリスチャンでも、ここまで丁寧に聖書を読んでいる人はそれほど多くないはずだ。

 その上で著者は、ヤハウェはろくでもない神で、それを信じる人たちはボンクラで、イエス本人はちょっとやんちゃでかっこいい兄ちゃんだったものの、その取り巻きは頭の悪いチンピラどもだと断じているわけです。まあ確かに、信仰抜きに聖書を読めば、そういう読み方もありだよなぁ……。

 著者によれば旧約聖書より新約聖書の方がレベルが低く、特にパウロとその弟子筋は最悪なんだとか。パウロに対する批判は痛烈で、それは著者がパウロの各書簡に付けている見出しでも一目瞭然だろう。

  • テサロニケ人への第一の手紙——俺様パウロ! 死者は蘇るよ!
  • コリント人への第一の手紙——俺様パウロ! 俺がルールだ!
  • コリント人への第二の手紙——俺様パウロ! 逆らう奴は許さない!
  • ガラテヤ人への手紙——俺様パウロ! ちんこは大切にな!
  • フィリピ人への手紙——俺様パウロ! 俺への支援は楽しいだろ?
  • フィレモンへの手紙——俺様パウロ! その奴隷、俺にくれ!
  • ローマ人への手紙——俺様パウロ! 人間皆平等! 神に感謝しろよ!

 これ以外にも、「ベスト・オブ・パウロの寝言10選」と「パウロの矛盾一覧」もあるなど、著者のパウロに対する並々ならぬこだわりは、もはや愛と言ってもいいのではないだろうか?

 まあ全編この調子なのだが、この本はキリスト教徒にこそぜひ読んでいただきたい。これを読むと多くの人が「えっ? 聖書にそんなこと書かれてたっけ?」と驚くに違いない。そして聖書を確認して、実際にその通りに書かれていて再度驚くだろう。信仰を通して聖書を読むことで、無意識の内にスルーしてしまったり、思い込みから何となく辻褄を合わせながら聖書を読んでいることがいかに多いことか!

 

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

うまくいっている人の考え方 完全版

うまくいっている人の考え方(完全版)

 手軽な自己啓発本。見開き1ページで1コラムという構成で、各コラムは相互のつながりもないので、好きな時、好きな場所を、好きな分量だけ、好きなように読むことができる。

 全部で100コラム。まとめて一気に読むと飽きてしまいそうなのだが、僕はトイレに置いて、毎日ちょっとずつ読んでいた。読み終えた後も時々手に取って、パラパラと眺めるといいかもしれない。

 各コラムは、見出し、本文、まとめの3つの要素で構成されている。まとめは見出しに対する答えであり、本文の要約でもある。見出しとまとめを読むだけで、「なるほどな」と思えることもあるだろう。各コラムを読み終えた後、再び見出しを読み、まとめを読めば、それだけで本文を読まなくてもコラムを再読したのと同じ効果があると思う。

 著者が繰り返し述べているのは、自尊心を持つことの大切さだ。

 著者の言う自尊心とは、自分は他人とは違う個性を持った人間なのだから、自分を他人と比較して優劣は決めるのはナンセンスだということ。他人に比べて劣っていると考える必要はないし、他人に比べて優れていると思う必要もない。自分は掛け替えのない存在で、自分は自分であるだけで構わないのだということ。

 著者はアメリカ人だが、これを読むと、アメリカ人も日本人も同じようなことで悩み、同じようなことで苦しんでいることがわかる。アメリカ人も周囲の空気を読んで意見を合わせようとしたり、周囲の評価を気にしてくよくよしたりしているのだ。映画やテレビドラマに出てくるアメリカ人はいつも自信満々だが、中身は日本人とさほど変わらない。同じ人間だもの。同じようなことで悩んだり悔やんだりしているのだ。

 個人的なことを言うなら、この本を読んで、自分の生き方や考え方が変わるとは思わない。なぜなら著者の考えに、僕はほとんど賛成してしまうからだ。異論がほとんどない。まったくおっしゃる通りなのだ。だからこの本から得るものはほとんどない。僕は自分で思っているよりずっと、自尊心が強い人間であったらしい。

 最初はちょっと小馬鹿にして読み始めた本だが、気に入ったので著者の他の本も読んでみることにする。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

アメリカ映画とキリスト教 -120年の関係史

アメリカ映画とキリスト教 -120年の関係史

 体裁としては研究論文であり、映画ガイドブックではない。しかしアメリカ映画史に興味がある人は、一読して損のない内容になっていると思う。

 ハリウッドでは聖書をモチーフにした映画や、キリスト教徒の生き方をテーマにした作品が数多く作られているのだが、この映画にもそうした作品は取り上げられている。だがそれだけではない。この本がテーマにしているのは、アメリカの映画産業とキリスト教の距離感なのだ。

 1920年代に起きた数多くのスキャンダルで、アメリカの保守的なキリスト教徒たちはハリウッドを悪徳の都だと見なした。ハリウッドは観客のボイコットを恐れて、キリスト教に媚びて擦り寄る姿勢を見せる。表現規制のための組織を作ったのだ。これは当初全く機能していなかったのだが、1930年代になって映画界の十戒とも呼べる「プロダクション・コード」を作り上げた。これがその後、30年以上に渡ってハリウッド映画を縛ることになる。

 第二次大戦が終わって冷戦がはじまると、1947年にはハリウッドで赤狩りがはじまる。共産主義者は無神論者であり、良きキリスト教徒であるアメリカ人の敵だった。ハリウッドは映画業界から共産主義者やそのシンパを追放することに決め、多くの者たちが映画業界を去った。

 1960年代にプロダクション・コードは消滅してニューシネマの時代が始まるが、その時代は10年程度しか続かない。伝統的なキリスト教からは若者が去って行ったが、「時代の反逆者」としてのイエス・キリストにシンパシーを感じる若者たちによって「ジーザス・ムーブメント」が起きる。

 1970年代にはキリスト教福音派が台頭して若者を中心に信者を増やし、1980年代にはレーガン政権が誕生。そんな時代の中で発表されたスコセッシの『最後の誘惑』は、アメリカのキリスト教界を二分する大論争を引き起こす。しかしこれに勝利したのは、保守的な福音派だった。

 1990年代からは「終末」をモチーフにしたディザスタームービーや、終末前の「携挙」をモチーフにした「ラプチャー・ムービー」がハリウッドの大手スタジオによって作られるようになる。

 この本が取り上げているのはアメリカ映画だけなので(アメリカに輸入される段階で騒動を巻き起こした『奇跡』が例外的に取り上げられている)、聖書を取り上げた映画でも、フランス映画の『ゴルゴダの丘』やイタリア映画『奇跡の丘』などは紹介されない。それらは「アメリカの映画産業とキリスト教の距離感」という本書のテーマの埒外なのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

ブッダが説いたこと

ブッダが説いたこと

 先日読んだ「仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす」も英語から訳された仏教入門書だったが、本書「ブッダが説いたこと」もやはり英語で書かれた仏教入門書の翻訳だ。

 訳者の今枝由郎は最近「スッタニパータ」「ダンマパダ」の新訳が評判になったチベット学者だが、この本でも仏教用語を伝統的な漢訳に頼らず英語から日本語に訳している。これが実に新鮮だ。

 例えば仏教の基本的な概念である「苦」は、パーリ語やサンスクリット語の音のまま「ドウッカ」と訳される。ドウッカは単なる苦痛や苦しみではなく、もっと幅広い意味を持っているからだ。

 このため四聖諦(四諦)も、「ドウッカの本質」「ドウッカの生起(起源)」「ドウッカの消滅」「ドウッカの消滅に至る道」となる。

 同じように、縁起は「条件付けられた生起」となり、五蘊は「五集合要素」に、十二因縁は「十二項目」になる。(八正道はそのまま「八正道」なのだが、これは「八つの正しい道」というわかりやすさからかもしれない。)

 もちろん伝統的な仏教に慣れている人は、こうした言葉を頭の中で伝統的な漢訳用語に置き換えたり相互変換しながら読むことになるのだろう。しかし伝統的な漢訳用語の中で固定化されていく意味が、新しい言葉の中で解きほぐされていくのは、読んでいてある種の「快感」ですらある。

 著者はスリランカ出身の学僧であり、本書も基本的にはテーラワーダ仏教(上座部仏教)の視点から書かれている。しかし四聖諦や八正道、縁起、十二因縁などは仏教の基本概念なので、大乗仏教の信徒にとっても十分参考になるだろう。

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投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

うちのお寺は臨済宗

うちのお寺は臨済宗

 実家の寺が臨済宗妙心寺派なので、来歴や約束事などを知っておこうと思って読んでみた。

 以前に同じシリーズで「うちのお寺は曹洞宗」というのを読んだのだが、それに比べるとだいぶ見劣りする内容なのは気になる。

 曹洞宗版は「曹洞宗から見た仏教入門」という奥深さが感じられたが、この臨済宗版は冠婚葬祭入門プラスアルファ程度にしか感じられない。

 本としては盛り沢山の内容なので、ひょっとすると臨済宗には紹介すべき内容が多すぎて、記述が総花的になってしまったのかもしれない。

 臨済宗は少なくとも我が家にとっては最も身近な仏教宗派なので、また別の本で少し勉強してみようと思う。入り口としては、まあこんなものなのかも。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす

ビーイング・ピース

 ベトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハンの代表的な著作のひとつ。アメリカ人に仏教を紹介するため英語で書かれている本だが、その日本語訳にもいろいろな工夫がある。それは本書の中で語られている仏教を、伝統的な仏教用語を用いずに訳すことだ。

 例えばパーリ語のbodhisattaを音写した漢訳が菩提薩埵(ぼだいさった)で、それを略して菩薩(ぼさつ)とするのが伝統的な仏教用語だ。しかし本書はそれを「決意の人」と訳す。

 サンガ(僧伽)は「共同体」であり、慈悲は「愛」であり、座禅は「座ってする瞑想」であり、仏は「目覚めた人」であり、般若は「理解」のこと、空は「分かれたものがない」だとされる。

 これはティク・ナット・ハンという人がそのように仏教を解説していると言うより、棚橋一晃という訳者の趣味が大きい。巻末に訳語の対照表が載っているが、これによれば英語でも菩提薩埵はBodhisattva(サンスクリット語の音写)であり、仏はBuddha、空はemptyなのだ。

 伝統的な仏教用語をあえて避けた言葉に置き換えることで、この本は日本人にとって身近なところにある仏教に、まったく新しい光を当てることになる。「こんな仏教もあるのか」「これも仏教なのか」という、新鮮な発見がある。

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投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書