限界国家 人口減少で日本が迫られる最終選択

 日本は今後急速に人口が減少していくので、今後は海外から移民を入れなければならない……という内容を予想したのだが、じつはそうではなかった。

 この本は「移民を入れろ」と主張しているのではなく、「既に海外からの移民は行われている」という意外な事実を読者に告げるのだ。ただし現在日本ではそれを「移民」とは呼ばず、「定住外国人」と呼んでいる。「移民」と「定住外国人」を区別しているのは日本ぐらいで、海外の基準ではどちらも「イミグラント」で同じものなのだ。

 この本には「日本は移民政策を取らない」と大見得を切った安倍経験の下でも、着々と移民受け入れ政策が進んでいることが書かれている。もちろんそれは「移民増加政策」ではなく、「定住外国人を増やす政策」と言い換えられているのだろう。内容は同じ事だ。日本人の多くがそんな事情を知らないうちに、海外からの移民は着実に増えていく。いずれそれは、堰を切ったように日本中にあふれかえるだろう。

 日本の経済は既に、外国人労働者なしには成り立たない状態になっている。地方の田舎町に行っても、コンビニやファストフード店では外国人が働いている。新聞配達も、今は外国人なしには成り立たないという。これらの外国人を一斉に閉め出したら、日本経済のあちこちが麻痺してしまう。もはや日本は、外国人労働者なしには成り立たないのだ。

 「そうはいっても海外では移民が社会問題化しているではないか!」と言う人もいるだろう。その社会問題がいかなるもので、各国がそれを克服するためどのような努力をしているかも本書には紹介されている。どこもまだ道半ばではあるが、移民への対応について一定の国際的のコンセンサスのようなものはできつつあるのかもしれない。日本はその蚊帳の外だけれど……。

 ひとつだけ言えることは、日本人の多くが望まないとしても、定住外国人(移民)はこれからも日本にどんどん入ってくるし、それが増えることはあっても減ることはない。日本人の数は減りはじめたし、日本人の中でも就労可能な年齢層の人口は既に急速に減りつつある。そこを補ってくれる外国人労働者の流入にストップをかければ、その瞬間に立ち行かなくなる業界がいくらでもあるのだ。

 安倍政権は「出生率を上げて50年後も人口1億人を維持」などと言っているが、これが不可能であることは誰の目にも明らかだ。これは「人口1億人を割り込むようなら、日本の経済は破綻しますよ」という国民へのアピールだろう。日本人だけで人口が維持できないなら、それを外国人で補うしかない。日本はいずれ自らの生き残りのために、なり振り構わず移民を受け入れることになる。これはもう「既定路線」だ。役人も政治家も、もう移民受け入れに向けて動いている。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

タロットの秘密

 周易について金谷治の「易の話 『易経』と中国人の思考」が担っているような役割を、 タロットの分野で今後担って行くであろう好著。じつは「易の話」ももともと講談社現代新書で出た本が、後に講談社学術文庫に入っている。「タロットの秘密」もゆくゆくは学術文庫に入り、古典的な入門書として時代を経て読み継がれていくような気がする。

 タロット占いにも使える本だが、タロット占いの入門書ではない。これはタロットという不思議なカードセットが、いついかなる場所から出現し、どのような道をたどって占いの代表的なツールに用いられるようになったかを紹介した本だ。

 今では西洋発祥の占いとして、占星術と並んで「占いの王道」のようになっているタロットだが、その歴史は意外なほどに新しい。世の中にあまたある「占術」の中でも、その起源と発達がきちんと記録されている数少ない例がタロットなのかもしれない。(それに比べると易占はどれだけ歴史があるんだか…….。)

 タロットはルネサンス期に、貴族たちがゲームに使う遊技カードとして作られた。数札(いわゆる小アルカナの部分)を使ったゲームがまずあり、ゲームを複雑にするため特別な絵札(大アルカナ)が作られたらしい。絵札の内容がなぜ今のような物に決まったのか、絵柄と数字の組み合わせの理由などは、もはやわからなくなっていることもある。しかしこの時点で、カードに神秘性はまだほとんどなかった。

 カードが神秘性を帯び始めるのは18世紀後半。この頃からタロットが占いに用いられるようになる。単純で素朴な占術ツールだったタロットは、19世紀に入るとオカルトや神秘思想の影響を受けてさまざまに解釈されるようになる。20世紀になるとタロット占いは「知る人ぞ知る神秘的なカード占い」として広まっていく。この頃に分析心理学の創始者ユングも、タロットに注目している。

 一般的にカード占いは1950年代まではトランプを使ったものが主流だったが、これが1970年代にはタロットにお株を奪われる。一般向けのタロット占い入門書なども数多く出版され、日本でもこの頃に、欧米でのタロットブームを受ける形でタロットが知られるようになっていく。

 この本はタロットにまつわる神秘的な意味付けなどを紹介しながら、そうした「タロットの神話」をことごとく破壊してしまう。タロットは古代エジプト由来の神秘的カードではないし、タロット占いにことさら神がかりな何かがあるわけでもない。

 ではタロット占いには意味がないのか? そうではないと著者は言う。タロット占いには、自分自身の心を見つめる自己セラピー的な価値がある。タロットが示すメッセージが、凝り固まっている自分の心を解きほぐし、心の奥深いところにある自分の本当の願いや抑圧を浮かび上がらせることがあるのだ。

 僕はこうした著者の姿勢にまったく同意する。僕自身は趣味で「易占」をしているのだが、易を立てる理由はやはり「自分自身の今を見つめ直す」ために他ならないからだ。易もタロットも占いとしては「卜占」に属するのだが、こうした占いは占問者に対する公平かつ客観的な第三者として、「お前は本当はこう考えているんじゃないか?」「あなたの本当の願いはこうなんじゃないの?」と問いかけてくる。

 卜占が公平客観的なのは当たり前だ。カードやサイコロがどんな結果を示すかは、その時々の巡り合わせ、まったくの偶然に過ぎない。タロットやサイコロ(あるいは筮竹でもよい)は、占問者を「問題へのとらわれ」から解き放つ。示される答えのほとんどは問いに対する明確な回答になっていないが、だからこそ専門者は「これはどんな意味があるのか?」「どんな関わりが秘められているのか?」と、示された答えと自分の占問の間に何らかの物語を作り出そうとする。この「自分のための物語を作る」という行為が、人の心を自由にしてくれる。

 タロットに興味を持つ人は、一度読んでおくべき良書だと思う。占いの専門書は結構高価な物もおおいのだが、これは何よりまず安価だ。専門的な話題もあれば、初心者向けの占いガイドにもなっている。これ1冊で、結構いろいろな事ができるのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

梅原猛の仏教の授業 法然・親鸞・一遍

 椎尾辨匡の「共生(ともいき)」という思想について紹介している本を探して、この本を見つけました。「共生」についての記述はごくわずかですし、紹介されている内容も梅原猛流に解釈されたものだとは思うのですが、それでも多少の参考にはなったような気がします。

 著者曰く、「ともいき」の根っこにあるのは「あらゆるものは仏性を持つ」という本覚思想(天台本覚思想)で、さらに「草木国土悉皆成仏」という涅槃経の中の言葉だという。「草木国土悉皆成仏」はもともとこれが説かれた中国ではまったく受け入れられなかったが、日本では神道の考えと結びついてすんなりと受け入れられた。椎尾辨匡の「ともいき」も、人と人の関係だけでなく、人と動物、人と草木、人と天地万物の関係を水平な関係と見る点で、まさに「草木国土悉皆成仏」なのだという。

 「ともいき」についてはまた別の考え方もあるようなので、この点についてはまだもう少し勉強してみたいと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

未来の年表 人口減少日本でこれから起きること

 日本の人口は数年前から減少しはじめたが、それを実感している人はほとんどいないだろう。だが人口減少の速度は今後どんどん速まり、誰が見ても「ここ数年で人口が減っている」と思うようになる時代がやって来る。

 この本はそうした人口減少社会で具体的に何が起きるのかを、具体的なデータを引用しながら紹介していく本だ。

 著者は人口減少について、決して楽観的な見方をしていない。著者曰く、少子化は「静かなる有事」なのだ。著者は安倍首相が掲げる「新三本の矢」などまるで信じていない。人口が減れば、経済も縮小する。社会の高齢化によって社会保障費も肥大化する。

求められている現実的な選択肢とは、拡大路線でやって来た従来の成功体験と訣別し、戦略的に縮むことである。(P.11)

少子高齢化とは、これまで「当たり前」と思っていた日常が、少しずつ、気づかぬうちに崩壊して行くことなのである。(P.88)

 人口減少対策は待ったなしだ。著者は日本の高齢者人口が最大になる2042年を見据えて、それに向けた対策に日本中で取り組まねばならないと説く。

 2042年は25年後だ。たった25年後とも言えるし、25年もあるとも言える。日本は黒船来港からたった15年で明治維新を成し遂げ、日本中が焼け野原になった昭和20年の敗戦からたった10数年で奇跡的な復興を成し遂げた。日本人は問題意識を共有して「この方向に進むぞ!」と決めれば、思いがけない力を発揮できる民族なのだ。

 問題は2つある。1つ目は「人口減少に対する危機感」が、日本の中でまだほとんど共有されていないこと。いまだに「日本は人口が多すぎる。減ったぐらいでちょうどいい」と言う人が大勢いる。もう1つは仮にこの問題が日本中で広く共有できたとしても、実際に社会の担い手となる若年労働者層が、日本はきわめて少なくなってしまっていることだ。2025年には団塊世代も75歳以上の後期高齢者になる。

 問題は多い。しかし動き始めなければ何もはじまらない。まずは人口減少社会が生み出す現実を、きちんと見据えることだ。この本はそのための、良いテキストになっていると思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

超ソロ社会 「独身大国・日本」の衝撃

 著者は大手広告代理店・博報堂で「ソロ活動系男子研究プロジェクト・リーダー」をしている人物だ。博報堂というのは調査データを用いて市場に何らかのネーミングをするのに長けたところで、最近だと「さとり世代」や「マイルドヤンキー」も博報堂のブランドデザイン若者研究所が生み出した言葉であったりする。

 こうした言葉を博報堂が作り出すのは、そこに新たな購買層となる広大なマーケットがあると考えているからだろう。

「かつての若者はあれも欲しいこれも欲しいという欲望の中で購買の選択をしていたけれど、今の若者はそうじゃないんです。彼らはそうした欲望が希薄な《さとり世代》なんです。だからそこに物を売るには、これまでにない工夫が必要ですよ。博報堂は既にそのノウハウを持ってます!」

とか、

「かつては都市部の若者がさまざまな文化を生み出し、地方の若者はそれに追随するだけでした。でも今は活発な購買活動をしているのは地方の若者層です。彼らには一定の生活行動傾向があります。我々はそれを《マイルドヤンキー》と名付けました。マイルドヤンキー相手にどんどん物やサービスを売りましょう!」

の次にやって来たのが、

「かつては若者が一定の年齢になれば結婚すると思われていました。だから消費の牽引役は夫婦と子供のいるファミリー層ターゲットでよかったんです。でもこれからは独身者が増えます。我々はそれを《ソロ社会》と名付けました。これからはソロ男やソロ女に向けた、新しいマーケティング戦略が必要です!」

というものなのだと思う。

 まあそれ自体は悪いことではない。この著者は「独身者が増えて世の中大変だ!」と騒ぐわけではないし、「結婚させて子供を増やすにはどうすればいいか?」と言うわけでもない。データに基づいて「独身者は今後も増えていく。結婚は減るし、子供の数も減る」と言っているだけなのだ。だから年金が……とか、だから生活保障が……といった話はしない。単に「独身でも寂しくないし、それなりに楽しく生きられる世の中だよね」と現状追認しているだけだ。

 しかしこの徹底した現状追認ぶりが、むしろ清々しい。著者は「一人暮らしの人々が今後の社会では消費のボリュームを引き上げていく。だから一人暮らしの人向けの商品を開発して、一人暮らしをより便利で快適なものにしていくといいですよ」と、徹底して商売っ気たっぷりに語ってみせているだけだ。そして間違いなく、世の中はそちらの方向に向かっていく。

 かつて独身の男どもは、身の回りの世話をしてくれる「自分専用の母親」がほしくて結婚した。メシ作ってくれて、部屋の掃除してくれて、買物もしてくれて、ついでに夜のお相手もしてくれる。最高だ!

 でもそうした結婚はもう破綻している。高学歴で稼ぎの多い女性は、簡単には「理想の母親」を演じてくれない。この本の中でも紹介されているが、男性の年収が多くなるほど未婚率が低くなるのに対して、女性は逆に、年収が多くなるほど未婚率が高くなる。経済的に自立した女は、わざわざ結婚などしない。そして晩婚化の結果としてこだわりのライフスタイルを身に着けてしまった男たちも、わざわざそれを犠牲にして結婚しようとは思わない。

 男も女も、独身であることにメリットこそあれデメリットはひとつもない。世の中が「少子化で社会の活力が失われる」とか「社会保障が破綻する」などと言っても、そんなことは個々人には関係のないことなのだ。

 この本に書かれている「ソロ社会への希望」や「提言」のようなものには、僕は面白味を感じない。それより圧倒的に面白くて説得力があるのは、日本の人口の半分が独身になる「超・ソロ社会」が、否応なしにやって来ることをデータを交えながら論証していく部分にある。

 「50年後も日本の人口1億人を維持」とか「希望出生率1.8の実現」とか「合計特殊出生率を人口置換水準の2.07へ」などと寝ぼけたことを言っている人たちは(安倍首相のことですね)、この本の提示するリアルな未来をきちんと検証してみた方がいいと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

人工知能はどのようにして 「名人」を超えたのか?

 著者や出版社は人工知能入門書のつもりなのかもしれないが、入門書や初歩的な解説書として読むと、まったく要領を得ない本になっている。

 例えば最近あちこちで話題になっている「ディープラーニング」については、この本の中でもそれなりに紙幅を割いて説明しているのだが、正直何を言っているのかさっぱりわからない。前提になる話をすっ飛ばしたまま、別のたとえ話などを出してくるから、たとえ話がたとえ話としての機能を果たせないのだ。

 しかしそれでも、この本は面白い。あっという間に読んでしまう。それは人工知能を開発している現場の熱気や興奮が、行間からダイレクトに伝わってくるような勢いがあるからだ。

 本を書いているわずか数ヶ月の間に、「将棋にディープラーニングは向かない」と言っていたのをひっくり返し、将棋ソフトPonanzaにディープラーニングの技術を実装したというのも、そうした「勢い」のひとつだろう。結果として前言を翻したわけだから、普通なら「将棋にディープラーニングは向かない」と書いていた内容を訂正して全体の整合性を取れば良さそうなものなのに、この本ではそうした調整を行わない。その結果として、この本を読む人は人工知能開発の最前線を同時進行で体験するような読後感を味わえるはずだ。

 人工知能開発が必ずしも「理論的」に進められているわけではなく、現場の職人的な「経験知」の積み重ねで、少しずつ改良が加えられているという話は部外者にとってはとても興味深いものだと思う。

 それを象徴するのが「黒魔術」というキーワードだ。人工知能に何らかの改良を加えてみると、その結果が功を奏することもあれば奏さないこともある。よい結果が出る改良は全体の2%程度。しかもその改良がなぜよい結果を生み出したのか、開発者自身にもよくわからないのだという。よかれと思って行った改良が、結果として悪い結果を出すこともある。しかし「理由はわからないが上手くいった方法」は人工知能開発者の中で共有されて、人工知能強化のためのノウハウとして定着していく。まさに「黒魔術」なのだ。

 著者は「知能」の点において、もはや人工知能は人間の能力を超えていると言う。「知能」とは設定された目的に対して、最善の手段を探す能力のことだ。例えば「将棋に勝つ」とか「囲碁に勝つ」という目的が設定されれば、人工知能は人間の能力をはるかに凌駕する力を発揮する。

 しかし現時点で人工知能に欠けているのは、そうした目的そのものを設定する「知性」なのだ。人工知能は少なくとも現時点において、「自分は今この時に何をすればいいのか」という問いを自ら設定することができない。言われたことは完璧にやり遂げるが、言われていないことについて配慮することはない。

 また人間は大きな目的を達成するためにの中間段階に、小さな目標を設定してそれを達成していくことで最終目標に近づいていく。大きな問題を小さな問題に分割するというのが、人間の「知性」なのだ。ところが現時点で人工知能は「中間目標」を設定することができず、予測不能な遠い将来については思考停止状態になってしまうらしい。これを「水平線効果」と呼ぶ。

 しかし著者はこうした「知性」も、いずれは人工知能が獲得していくだろうと考えているようだ。人工知能の技術は幾何級数的に進化している。人間が「人工知能もだいぶ人間に近づいてきたなぁ」と考えはじめた次の瞬間に、人工知能は人間をフルスピードで追い抜いて、手の届かない彼方へと進んでしまうだろう。

 人工知能と人間のプロ棋士が戦う電王戦は、今年が最後になった。人間はもはや人工知能の棋力に太刀打ちできないので、わざわざ大会で雌雄を決する面白味がなくなってしまったのだ。Googleの開発したアルファ碁も、既に人間との対局をやめて機械学習のみの世界に閉じこもってしまった。「人間の力を人工知能が凌駕する」ことをシンギュラリティと呼ぶが、これは将棋や囲碁の世界では既に完了している。今後は人工知能に人間が太刀打ちできない領域が少しずつ広がり、他の分野でも少しずつ人間が人工知能に置き換わっていくだろう。

 ただしそれは、人間が不要になるという意味ではない。人工知能がいくら将棋に強くなっても、中学生棋士の藤井聡太四段が20何連勝かしているというニュースほどには人を興奮させないのだ。人工知能が人間のプロ棋士相手に50連勝しても100連勝しても、人間はそれにワクワクドキドキすることはできないだろう。人間だけが人をワクワクドキドキさせ、楽しませ、幸せな気持ちにさせることができる。

 もっともこれは、ずいぶん昔から他の領域でも起きている事なのだ。「地上をより速いスピードで移動する」ということなら、人間は馬にはかなわない。その馬は乗用車にかなわず、乗用車は新幹線にかなわない。でもオリンピック100メートル走の金メダリストよりも、新幹線の方が偉いのだろうか? これはものの見方によるわけだが、ひとつだけ言えるのは、より多くの人を興奮させるのはオリンピックの金メダリストだということだ。

 人工知能には無限の可能性がある。でも人工知能の発達によって、人間の活動する領域も広がって行くに違いない。人工知能の将棋プログラムや囲碁プログラムが、新しい定石や布石を生み出しているように、人工知能時代の人間はそれまで考えてもいなかったような新しいライフスタイルを手に入れると思う。それがどんなものかは、その時が来てみないとわからない。でもきっとそれは、今よりずっとワクワクドキドキさせてきれる未来だと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方

 ここ2〜3年で何かと話題になっている人工知能について、それが我々の生活、より具体的に言えば「仕事の現場」や「働き方」をどのように変えていくかについて論じた本だ。

 著者は人工知能やテクノロジーの専門家ではなく、企業向けのコンサルタントとして組織のあり方と働き方について様々な提言や実践を行っている。そのためこの本の中では、人工知能について「作る人」ではなく、人工知能を「使う人」の立場からさまざまな事例が紹介されている。

 ところでなぜ「2020年」なのだろうか?

 じつは人工知能は大学や企業の研究室の中にだけ存在するのではなく、既に一部で実用化され、ビジネスにも応用されているのだ。それは今後数年の内にますます社会に浸透して行くに違いない。

 インターネットやスマホが、社会の中で欠かすことのない情報インフラになるまで6〜7年かかっている。市販のパソコンがインターネットに簡単に接続できるようになったのは1995年。その6年後には各家庭にブロードバンド回線が引き込まれ、首相官邸から国民に向けてメールマガジンが発行されるようになった。iPhoneの初号機は2007年1月に発表され、数年の内に出荷台数でガラケーを追い抜き、7〜8年かけて契約数でもガラケーを追い抜いている。

 インターネットやスマホが広がっていく様子をリアルタイムで経験している世代の著者は、人工知能についても社会へ浸透するまでの時間を「立ち上がりから6〜7年」と予測する。ディープラーニングが人工知能技術のブレイクスルーとなり、人工知能が一気に「賢くなった」のが2〜3年前だ。ならばそこから6〜7年後は2020年前後になる。

 人工知能の普及によって、「10年後にはこんな仕事がなくなる」「20年後にはあらゆる職種で人間が働く必要がなくなる」などとセンセーショナルに報じられることも多い。しかし著者は、そんな先の話を今考えていてもあまり意味がないと言う。10年後、20年後のことについては、専門の技術者の間でもさまざまな意見があってよくわからない。しかし3年後の2020年についてなら、かなりの精度で未来を予想できるのではないだろうか。

 今の仕事が10年後にどうなっているかなんて、誰にもわからない。でも3年後なら、今の仕事はまず間違いなく残っている。ただし、人工知能の技術が入ってくることで、その仕事のスタイルはだいぶ変化しているかもしれない。ごの本は、そんな近未来についての水先案内なのだ。

 著者はこの本の中で、人間がもともと持っている「身体性から生まれる感性」が、これからの時代に価値を生むと述べている。人工知能はとても賢い。人間の何倍も正確に仕事を行うし、疲れることを知らない。しかし生身の肉体を持っていないので、人間の「気持ち」が理解できない。

 ひょっとすると将来は人間の気持ちを何らかの形で数値化し、分析して対処するという方法を人工知能が身に着けるかもしれない。しかし同じ身体性から生まれる「共感」は、そこにはないだろう。仕事をやり遂げた「達成感」とか、せっかくの仕事が無駄になった「徒労感」とか、仲間同士でひとつのことに打ち込んだ「連帯感」、理不尽なことを言われたことに対する「憤り」などが、人工知能にはわからない。何らかの形でそれをシミュレーションすることは可能でも、「その気持ちわかるわ〜」という心の底からの共感の言葉が出ることはないだろう。

 こうした人間の「身体性から生まれる感性」は、人工知能の時代になればなるほど、人工知能には生み出せない人間独自の価値として重要性を増していくというのが著者の主張だ。効率を求める定型化された仕事については、どんどん人工知能に置き換えられていくし、置き換えられるべきなのだ。人間は人工知能が苦手な仕事を行えばいい。それは人間にとってやりがいがあるし、何よりも楽しいはずだ。

 著者の「人工知能時代」に対する見通しはじつに楽観的だ。確かにそういう時代が来れば楽しそうだ。少なくとも僕は楽しくなると思う。

 しかしなぁ……と、僕は天邪鬼でへそ曲がりだから思ったりもする。

 世の中で働いている人のほとんど、7割か8割は、人工知能が苦手とする「ヒューマンタッチな仕事」をそれほど得意としていないのではないだろうか。特に日本人は、新しい仕事を創造するより、言われた仕事をただ黙々とこなす方が向いている人が多いと思う。これは日本人の大多数のご先祖さまが、お百姓だったことと無関係ではないだろう。お百姓は決まりきった仕事を、ひたすら黙々と繰り返すものなのだ。

 日本人のDNAの中には、そうしたお百姓の性分が染みついている。決まりきった仕事を、ひたすら正確に繰り返す。その中で、合理化や効率化できそうなものを現場で改善していく。そうしたDNAが、お百姓の血が、かつての日本の製造業を支えていたのだ。

 極端なことを言えば、日本人の7〜8割は人工知能に置き換えられるような仕事に従事している。単に嫌々働いているわけではなく、そうした仕事を愛し、誇りにも思っている。そこが問題だ。人工知能の時代にも日本が世界の中で存在感を発揮するには、こうした日本人の気質や性分を、根本から作り替える必要がある気がするのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

黒澤明の映画入門

 著者の都築政昭は1934年生まれで、今や絶滅の危機に瀕しているであろう「昭和一桁世代」だ。黒澤明の多くの作品を、おそらくはリアルタイムで観ているに違いない。「黒澤明 全作品と全生涯」「黒澤明の遺言」など、黒澤明に関する本も何冊か書いている。

 あいにく僕はこの著者の本をほとんど読んでいないのだが、今回の本はあまり面白いと思えなかった。

 黒澤明の著書やインタビューから黒澤本人の言葉を抜き出し、著者がテーマ別に整理して、黒澤明自身にそれについて語らせる……といった趣向の本だ。この狙いは悪くないと思う。しかしテーマの区分が曖昧で、読んでいても切れ味が悪い。黒澤明の語録という素材は極上品なのに、陳列の仕方が悪くて素材をダメにしてしまっている気がする。

 なぜそうなってしまったのか? それは著者が素材に頼り切りで、それをどう料理し、どう献立を組み立てるかという工夫を怠っているからだと思う。(これは編集者の責任でもある。)申し訳ないが、黒澤明という「素材」は、もう鮮度が落ちてきているのだ。亡くなったのは1998年。もう20年近い昔のことだ。

 この本はポプラ新書から出ているのだが、ポプラ社は児童書で知られる出版社。しかしポプラ新書が児童やYA世代向け……というわけでもないらしい。しかしながら、黒澤明の没後18年目(この本は2016年初版)に出される「入門書」ということであれば、これはやはり、黒澤映画にリアルタイムでは接してこなかった若い映画ファン向けの本ではないのか?

 この本に関しては、そうした「本の成り立ち」や「立ち位置」自体が良くわからなくなっている。要するに、この本のコンセプトは何なのかということだ。

 例えばこの本には、黒澤明の作品リストすらない。監督作はたった30本だ。なぜそれを一覧にして、簡単なあらすじを添えて紹介できないのだろうか? かわりにこの本には、「黒澤映画の名作選」として15作品が紹介されている。だがこれにもあらすじはない。これでは「映画ガイド」にならないではないか……。

 この本を読めば、著者が黒澤明に心酔していることはわかる。黒澤明の映画術をほとんど絶対視し、黒澤明を「人間賛歌のヒューマニスト」と持ち上げる。黒澤明の限界も欠点も、一切認めようとしない黒澤明絶対主義者だ。

 黒澤明の映画作りには、他の映画作家にはない強い特徴、個性がある。入念なリハーサルを繰り返して、複数カメラでワンシーン・ワンカットで撮影するのはその最たるものだろう。だが著者はそのメリットや出来上がった映像の素晴らしさについては黒澤の言葉を引いて力説するが、デメリットについては何も言わない。メリットばかりなら、なぜ他の映画監督は黒澤方式をもっと取り入れないのだろうか?

 黒澤明の時代にはフィルム代がやたらかかるという問題があったが、今ならデジタルだから費用はさほどかからない。マルチカメラがメリットばかりなら、同じ方式をまねする映画作家が続出しても良さそうなものだろうに。しかし実際にまねする人が出ないのは、マルチカメラ方式には欠点も多いからなのではないか?

 黒澤明は僕の大好きな映画作家だし(もちろんリアルタイムではないが劇場で全作品を観た)、関連本もいろいろと読んでいる。黒澤明は日本が世界に誇る偉大な映画作家だが、しかしその黒澤明にも欠点はあるし限界もあったのだ。それでもなお、黒澤明の映画は素晴らしい。

 この本を読むぐらいなら、僕は佐藤忠男の「黒澤明作品解題」を薦める。岩波書店の「全集黒澤明」から作品解題だけを集めたものだが、資料的な価値も高いものだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

仏教の冷たさキリスト教の危うさ

 禅僧になったドイツ人(元クリスチャン)が書いたキリスト教概論。

 仏教とキリスト教を対比しながら双方の違いを解説するという主旨の本だが、それが成功しているとは思えない。著者には既に仏教や禅について書いた本が多数あるため、仏教について改めて解説することに筆が乗らなかったのではないだろうか。

 それに比べると、著者のキリスト教論や聖書論はじつに生き生きしていて面白く読める。著者はこれらについてもじつによく勉強しているようで、大きな間違いなどもほとんど見受けられなかった。元キリスト教徒(著者の祖父は牧師だいという)だから詳しいわけではない。キリスト教徒でも、聖書やキリスト教の成り立ちについて知らない人は山のようにいる。著者は仏教を学びつつ、著者自身のベースになっているキリスト教思想についても、かなり突っ込んだ学びを行っているのだ。その上での、辛辣なキリスト教批判だ。

 ただ、ここではキリスト教についてある程度の知識が前提とされているようにも思う。聖書の成り立ちやキリスト教の成り立ちについて、聖書におおよそどんなことが書かれているかについて、何も知識が無いという状態では、著者が何を批判しているのかがわかりにくいのではないだろうか。

 この本に問題があるとすれば、それは、著者の知っているドイツのキリスト教を「西洋におけるキリスト教の標準形」と考え、著者の属している禅宗の教えを「仏教の標準形」と考えているような記述が時折見られることだ。キリスト教は多様であるし、仏教も多様であることは、著者も当然知っている。だからそうした「標準形」をあえて離れた外部の視点からキリスト教や仏教について論じようとしているわけだが、それでもやはり、自分のよく見知っているキリスト教や仏教の形に引き戻されてしまう部分が見られるのだ。

 これはしかし、本書の問題ではあるが欠点ではないのかもしれない。ここに書かれているキリスト教や仏教は、学者が採集してきて標本箱に入れたような「死んだ宗教」ではなく、著者の中で今まさに活動している「生きた宗教」なのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

現代に生きる信仰告白 -改革派教会の伝統と神学

 作家の佐藤優が2015年11月3日に日本キリスト教会大森教会で行った講演と座談会、質疑応答の内容を書籍化したものだ。

 著者は現代の日本では数少ない「キリスト教作家」のひとりだと思う。かつては三浦綾子や遠藤周作がいたのだが、現在は佐藤優だろう。ただし三浦や遠藤は小説というフィクションの世界で活躍し、佐藤優はノンフィクションの分野で活躍している。それが時代の違いなのかもしれない。

 著者にはこれまでにも何冊かのキリスト教系の著書があるのだが、これはその中でも最も読みやすく、広い範囲を扱っている本だと思う。ただし聞き手がキリスト教関係者、しかも改革派の教会の教会員がほとんどということもあり、著者がそれを前提として話している部分も多い。

 プロテスタント教会の中での改革派や長老派の位置づけ、組合教会や会衆派教会とはどんなものか、キリスト教神学校の中での同志社の位置づけなどがある程度わからないと、著者の言っていることや会場でのやりとりがわかりにくいかもしれない。

 キリスト教に対する著者のスタンスは、きわめてラジカルな部分もあれば、超保守的に見える部分もある。しかしこれが「信仰者」の立場というものなのかもしれない。信仰に対して部外者であれば、話はもっと単純で、首尾一貫した態度も取れるのだろう。だが著者は信仰者なので、キリスト教に対して他者として接することができないのだ。

 「自分の中で譲れない部分」と「譲ってもいい部分」「どうでもよい部分」のまだら模様の中で、キリスト教に対する態度は多少なりともゴチャゴチャしたものになる。それが「生きた信仰」というものであって、このいびつな形は、著者が真摯に信仰と向き合っている証拠でもあるのだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書