現代に生きる信仰告白 -改革派教会の伝統と神学

 作家の佐藤優が2015年11月3日に日本キリスト教会大森教会で行った講演と座談会、質疑応答の内容を書籍化したものだ。

 著者は現代の日本では数少ない「キリスト教作家」のひとりだと思う。かつては三浦綾子や遠藤周作がいたのだが、現在は佐藤優だろう。ただし三浦や遠藤は小説というフィクションの世界で活躍し、佐藤優はノンフィクションの分野で活躍している。それが時代の違いなのかもしれない。

 著者にはこれまでにも何冊かのキリスト教系の著書があるのだが、これはその中でも最も読みやすく、広い範囲を扱っている本だと思う。ただし聞き手がキリスト教関係者、しかも改革派の教会の教会員がほとんどということもあり、著者がそれを前提として話している部分も多い。

 プロテスタント教会の中での改革派や長老派の位置づけ、組合教会や会衆派教会とはどんなものか、キリスト教神学校の中での同志社の位置づけなどがある程度わからないと、著者の言っていることや会場でのやりとりがわかりにくいかもしれない。

 キリスト教に対する著者のスタンスは、きわめてラジカルな部分もあれば、超保守的に見える部分もある。しかしこれが「信仰者」の立場というものなのかもしれない。信仰に対して部外者であれば、話はもっと単純で、首尾一貫した態度も取れるのだろう。だが著者は信仰者なので、キリスト教に対して他者として接することができないのだ。

 「自分の中で譲れない部分」と「譲ってもいい部分」「どうでもよい部分」のまだら模様の中で、キリスト教に対する態度は多少なりともゴチャゴチャしたものになる。それが「生きた信仰」というものであって、このいびつな形は、著者が真摯に信仰と向き合っている証拠でもあるのだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

「バカダークファンタジー」としての聖書入門

 架神恭介によるキリスト教三部作の第三部。旧新約聖書66書を全巻読んだ上で、各文書の主要トピックや内容をまとめ、著者がそこに辛辣なコメントをするという内容。

 ちなみにこれに先立つ過去の2冊は、キリスト教史を東映実録やくざ路線風に脚色した「仁義なきキリスト教史」と、より網羅的にキリスト教史のトピックを取り上げた「かわいい☆キリスト教の本」だ。どちらも聖書やキリスト教史の資料をしっかり読み込んだ上で書かれた本になっている。

 この三部作のすべてに言えることだが、著者のキリスト教や聖書に対する姿勢には遠慮がまったくない。信仰の外側からキリスト教の世界にずかずかと土足で踏み込んで、著者の目から見ておかしなものはおかしいと言い、受け入れられないものは受け入れられないとはっきり言いきっている。キリスト教徒から見れば、これはずいぶんと無礼な態度に違いない。

 しかし僕はこれが、架神恭介という作家が書くキリスト教関連本の良さだと思うのだ。

 キリスト教は外部に開かれた宗教だ。中身に隠し事は何もない。信仰の規範となる聖典(聖書のこと)は普通に書店で市販されているし、過去の歴史も、そこで起きた事件も、基本的な教義なども、すべて外部にオープンにされている。一切の隠し立てなしに全部さらけ出した上で、「これが信じられる人はいらっしゃい」というのがキリスト教なのだ。

 部外者が土足でのそのそ中に入り込んでいけるのは、キリスト教がオープンな証拠だろう。信仰の外側にいる人たちがキリスト教について何を言おうと、キリスト教内部のルールでそれを断罪したり攻撃することもない。

 そもそもこの著者の本を読んで、それを批判したり断罪したりすることができるキリスト教徒がどれだけいるだろう。例えば今回の本で言えば、著者は少なくとも聖書を全部読んでいる。しかもただ読むだけではなく、複数の訳を読み比べ、訳注を読み込み、注釈書と突き合わせ、相当にしっかりと読み込んでいるのだ。「聖書は当然読んでます!」というクリスチャンでも、ここまで丁寧に聖書を読んでいる人はそれほど多くないはずだ。

 その上で著者は、ヤハウェはろくでもない神で、それを信じる人たちはボンクラで、イエス本人はちょっとやんちゃでかっこいい兄ちゃんだったものの、その取り巻きは頭の悪いチンピラどもだと断じているわけです。まあ確かに、信仰抜きに聖書を読めば、そういう読み方もありだよなぁ……。

 著者によれば旧約聖書より新約聖書の方がレベルが低く、特にパウロとその弟子筋は最悪なんだとか。パウロに対する批判は痛烈で、それは著者がパウロの各書簡に付けている見出しでも一目瞭然だろう。

  • テサロニケ人への第一の手紙——俺様パウロ! 死者は蘇るよ!
  • コリント人への第一の手紙——俺様パウロ! 俺がルールだ!
  • コリント人への第二の手紙——俺様パウロ! 逆らう奴は許さない!
  • ガラテヤ人への手紙——俺様パウロ! ちんこは大切にな!
  • フィリピ人への手紙——俺様パウロ! 俺への支援は楽しいだろ?
  • フィレモンへの手紙——俺様パウロ! その奴隷、俺にくれ!
  • ローマ人への手紙——俺様パウロ! 人間皆平等! 神に感謝しろよ!

 これ以外にも、「ベスト・オブ・パウロの寝言10選」と「パウロの矛盾一覧」もあるなど、著者のパウロに対する並々ならぬこだわりは、もはや愛と言ってもいいのではないだろうか?

 まあ全編この調子なのだが、この本はキリスト教徒にこそぜひ読んでいただきたい。これを読むと多くの人が「えっ? 聖書にそんなこと書かれてたっけ?」と驚くに違いない。そして聖書を確認して、実際にその通りに書かれていて再度驚くだろう。信仰を通して聖書を読むことで、無意識の内にスルーしてしまったり、思い込みから何となく辻褄を合わせながら聖書を読んでいることがいかに多いことか!

 

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

うまくいっている人の考え方 完全版

うまくいっている人の考え方(完全版)

 手軽な自己啓発本。見開き1ページで1コラムという構成で、各コラムは相互のつながりもないので、好きな時、好きな場所を、好きな分量だけ、好きなように読むことができる。

 全部で100コラム。まとめて一気に読むと飽きてしまいそうなのだが、僕はトイレに置いて、毎日ちょっとずつ読んでいた。読み終えた後も時々手に取って、パラパラと眺めるといいかもしれない。

 各コラムは、見出し、本文、まとめの3つの要素で構成されている。まとめは見出しに対する答えであり、本文の要約でもある。見出しとまとめを読むだけで、「なるほどな」と思えることもあるだろう。各コラムを読み終えた後、再び見出しを読み、まとめを読めば、それだけで本文を読まなくてもコラムを再読したのと同じ効果があると思う。

 著者が繰り返し述べているのは、自尊心を持つことの大切さだ。

 著者の言う自尊心とは、自分は他人とは違う個性を持った人間なのだから、自分を他人と比較して優劣は決めるのはナンセンスだということ。他人に比べて劣っていると考える必要はないし、他人に比べて優れていると思う必要もない。自分は掛け替えのない存在で、自分は自分であるだけで構わないのだということ。

 著者はアメリカ人だが、これを読むと、アメリカ人も日本人も同じようなことで悩み、同じようなことで苦しんでいることがわかる。アメリカ人も周囲の空気を読んで意見を合わせようとしたり、周囲の評価を気にしてくよくよしたりしているのだ。映画やテレビドラマに出てくるアメリカ人はいつも自信満々だが、中身は日本人とさほど変わらない。同じ人間だもの。同じようなことで悩んだり悔やんだりしているのだ。

 個人的なことを言うなら、この本を読んで、自分の生き方や考え方が変わるとは思わない。なぜなら著者の考えに、僕はほとんど賛成してしまうからだ。異論がほとんどない。まったくおっしゃる通りなのだ。だからこの本から得るものはほとんどない。僕は自分で思っているよりずっと、自尊心が強い人間であったらしい。

 最初はちょっと小馬鹿にして読み始めた本だが、気に入ったので著者の他の本も読んでみることにする。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

アメリカ映画とキリスト教 -120年の関係史

アメリカ映画とキリスト教 -120年の関係史

 体裁としては研究論文であり、映画ガイドブックではない。しかしアメリカ映画史に興味がある人は、一読して損のない内容になっていると思う。

 ハリウッドでは聖書をモチーフにした映画や、キリスト教徒の生き方をテーマにした作品が数多く作られているのだが、この映画にもそうした作品は取り上げられている。だがそれだけではない。この本がテーマにしているのは、アメリカの映画産業とキリスト教の距離感なのだ。

 1920年代に起きた数多くのスキャンダルで、アメリカの保守的なキリスト教徒たちはハリウッドを悪徳の都だと見なした。ハリウッドは観客のボイコットを恐れて、キリスト教に媚びて擦り寄る姿勢を見せる。表現規制のための組織を作ったのだ。これは当初全く機能していなかったのだが、1930年代になって映画界の十戒とも呼べる「プロダクション・コード」を作り上げた。これがその後、30年以上に渡ってハリウッド映画を縛ることになる。

 第二次大戦が終わって冷戦がはじまると、1947年にはハリウッドで赤狩りがはじまる。共産主義者は無神論者であり、良きキリスト教徒であるアメリカ人の敵だった。ハリウッドは映画業界から共産主義者やそのシンパを追放することに決め、多くの者たちが映画業界を去った。

 1960年代にプロダクション・コードは消滅してニューシネマの時代が始まるが、その時代は10年程度しか続かない。伝統的なキリスト教からは若者が去って行ったが、「時代の反逆者」としてのイエス・キリストにシンパシーを感じる若者たちによって「ジーザス・ムーブメント」が起きる。

 1970年代にはキリスト教福音派が台頭して若者を中心に信者を増やし、1980年代にはレーガン政権が誕生。そんな時代の中で発表されたスコセッシの『最後の誘惑』は、アメリカのキリスト教界を二分する大論争を引き起こす。しかしこれに勝利したのは、保守的な福音派だった。

 1990年代からは「終末」をモチーフにしたディザスタームービーや、終末前の「携挙」をモチーフにした「ラプチャー・ムービー」がハリウッドの大手スタジオによって作られるようになる。

 この本が取り上げているのはアメリカ映画だけなので(アメリカに輸入される段階で騒動を巻き起こした『奇跡』が例外的に取り上げられている)、聖書を取り上げた映画でも、フランス映画の『ゴルゴダの丘』やイタリア映画『奇跡の丘』などは紹介されない。それらは「アメリカの映画産業とキリスト教の距離感」という本書のテーマの埒外なのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

ブッダが説いたこと

ブッダが説いたこと

 先日読んだ「仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす」も英語から訳された仏教入門書だったが、本書「ブッダが説いたこと」もやはり英語で書かれた仏教入門書の翻訳だ。

 訳者の今枝由郎は最近「スッタニパータ」「ダンマパダ」の新訳が評判になったチベット学者だが、この本でも仏教用語を伝統的な漢訳に頼らず英語から日本語に訳している。これが実に新鮮だ。

 例えば仏教の基本的な概念である「苦」は、パーリ語やサンスクリット語の音のまま「ドウッカ」と訳される。ドウッカは単なる苦痛や苦しみではなく、もっと幅広い意味を持っているからだ。

 このため四聖諦(四諦)も、「ドウッカの本質」「ドウッカの生起(起源)」「ドウッカの消滅」「ドウッカの消滅に至る道」となる。

 同じように、縁起は「条件付けられた生起」となり、五蘊は「五集合要素」に、十二因縁は「十二項目」になる。(八正道はそのまま「八正道」なのだが、これは「八つの正しい道」というわかりやすさからかもしれない。)

 もちろん伝統的な仏教に慣れている人は、こうした言葉を頭の中で伝統的な漢訳用語に置き換えたり相互変換しながら読むことになるのだろう。しかし伝統的な漢訳用語の中で固定化されていく意味が、新しい言葉の中で解きほぐされていくのは、読んでいてある種の「快感」ですらある。

 著者はスリランカ出身の学僧であり、本書も基本的にはテーラワーダ仏教(上座部仏教)の視点から書かれている。しかし四聖諦や八正道、縁起、十二因縁などは仏教の基本概念なので、大乗仏教の信徒にとっても十分参考になるだろう。

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投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

うちのお寺は臨済宗

うちのお寺は臨済宗

 実家の寺が臨済宗妙心寺派なので、来歴や約束事などを知っておこうと思って読んでみた。

 以前に同じシリーズで「うちのお寺は曹洞宗」というのを読んだのだが、それに比べるとだいぶ見劣りする内容なのは気になる。

 曹洞宗版は「曹洞宗から見た仏教入門」という奥深さが感じられたが、この臨済宗版は冠婚葬祭入門プラスアルファ程度にしか感じられない。

 本としては盛り沢山の内容なので、ひょっとすると臨済宗には紹介すべき内容が多すぎて、記述が総花的になってしまったのかもしれない。

 臨済宗は少なくとも我が家にとっては最も身近な仏教宗派なので、また別の本で少し勉強してみようと思う。入り口としては、まあこんなものなのかも。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす

ビーイング・ピース

 ベトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハンの代表的な著作のひとつ。アメリカ人に仏教を紹介するため英語で書かれている本だが、その日本語訳にもいろいろな工夫がある。それは本書の中で語られている仏教を、伝統的な仏教用語を用いずに訳すことだ。

 例えばパーリ語のbodhisattaを音写した漢訳が菩提薩埵(ぼだいさった)で、それを略して菩薩(ぼさつ)とするのが伝統的な仏教用語だ。しかし本書はそれを「決意の人」と訳す。

 サンガ(僧伽)は「共同体」であり、慈悲は「愛」であり、座禅は「座ってする瞑想」であり、仏は「目覚めた人」であり、般若は「理解」のこと、空は「分かれたものがない」だとされる。

 これはティク・ナット・ハンという人がそのように仏教を解説していると言うより、棚橋一晃という訳者の趣味が大きい。巻末に訳語の対照表が載っているが、これによれば英語でも菩提薩埵はBodhisattva(サンスクリット語の音写)であり、仏はBuddha、空はemptyなのだ。

 伝統的な仏教用語をあえて避けた言葉に置き換えることで、この本は日本人にとって身近なところにある仏教に、まったく新しい光を当てることになる。「こんな仏教もあるのか」「これも仏教なのか」という、新鮮な発見がある。

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投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

腰痛探検隊

腰痛探検隊

 著者と同じく腰痛で苦しんだ経験がある人なら、身につまされること請け合いの「闘病エッセイ」だ。

 僕自身は2年前の春に腰痛が極度に悪化し、立つことも、座ることも、横になって寝ることもままならなくなり、整形外科に入院して椎間板ヘルニアの手術を受けたことがある。

 手術を受けて腰痛自体はほとんど消滅したのだが、その後苦しめられたのが(今も苦しめられている)のが座骨神経痛と、そこから引き起こされるこむら返りだ。とにかく毎晩のように足がつるという、拷問のような責め苦を味わった。

 最近は毎晩寝る前に入念なストレッチをすることで症状が改善しているのだが、小康状態を保っている状態で漠然と感じている不安のようなものは、この本の中で著者が訴えている不安と共通するものだと思う。

 腰痛治療のハウツー本は山のように出ているが、腰痛の「悩み」自体にスポットを当てている本はあまりない。この本はその珍しい領域に挑戦して、見事に成功している本。腰痛に苦しんでいる人、苦しんだ経験を持つ人には、あるあるネタの宝庫であり、腑に落ちることの多いものだと思う。

 ただし腰痛で今この時に苦しんでいて、何らかの治療法を探している人にはあまり役に立たないかもしれない。何しろこの本は、著者がありとあらゆる治療法を試み、あげくの果てにどれも効果が無かった……という本なのだ。

 著者は結局あることを通じて腰痛を克服するのだが、それがあらゆる腰痛持ちに共通の解決方法にはならない。これは著者も本の中で何度も書き、強調していることだが、著者にまったく効果が無かった治療法も、他の患者には効果てきめんの場合が多いし、著者に効果があった方法が、人によってはかえって腰痛を悪化させてしまうことだってあり得るからだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

瞑想クイック・マニュアル

瞑想クイック・マニュアル

 これはタイトルに偽りありの本だ。タイトル全体は「人生の流れを変える瞑想クイック・マニュアル―心をピュアにするヴィパッサナー瞑想入門」なのだが、これも内容をまったく表していない。

 これは「瞑想を中心にした在家仏教の入門書」なのだ。全体は瞑想の効果や役割について論じた3〜5ページ程度の短いコラムの集まりで、それをヴィパッサナー瞑想やサティ(気づき)という言葉を軸にして解説していく。八正道や五戒、カルマ、輪廻といって仏教の基本用語をヴィパッサナー瞑想と関連づけ、仏教に不可欠なものとして瞑想を配置しているのがこの本の特徴。

 仏教の基本的な考えは「四諦」であり、具体的な実践法は「八正道」だ。八正道の中にある正念と正定は瞑想法のことで、その中でも正念はヴィパッサナー瞑想のこと。(正定はサマタ瞑想。)このヴィパッサナー瞑想だけを取り上げたのが、現在ブームになっているマインドフルネスだ。

 この本はヴィパッサナー瞑想を八正道の中からあえて独立させず、仏教修行の実践の中で語っているところがユニーク。しかしこれはマインドフルネスの解説書としてはユニークだということであって、「瞑想を中心にした在家仏教の入門書」としては当然のことだろう。

 本書の初版は2007年で、同じ著者の「ブッダの瞑想法」はその前年に出ている。今から10年前だ。マインドフルネスが大きなブームになっているのはここ数年のことなので(その前から知る人ぞ知る存在ではあったのだろうけれど)、この本はマインドフルネスの大ブームとはほとんど無関係に出ている。

 僕自身はこの本の仏教的な部分にあまり興味がわかなかったのだが、学問的な仏教入門書とはまったく別に、今この時を生きるブッダの教えとして瞑想に注目する姿勢には興味を持った。この本を読んだ後に、「ダンマパタ」や「スッタニパータ」を読み直すと、以前とは別の発見があるように思う。

 なお本書のタイトルになっている「瞑想クイック・マニュアル」的な部分は、巻末にほんの10ペーシほどの簡単な解説がある。このタイトルならまずこのクイック・マニュアルを巻頭に置いて、その後に各コラムを配置した方がわかりやすかったかもしれない。もっともこれは、「ブッダの瞑想法」を先に読んでおけということなのかもしれないけれど……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

グーグルのマインドフルネス革命

グーグルのマインドフルネス革命

 先にチャディー・メン・タンの「サーチ・インサイド・ユアセルフ」を読んでいたのだが、アメリカのマインドフルネス事情を紹介する本として、こちらを先に読んでおけばよかったかもしれない。

 内容はグーグルの人材開発部でマインドフルネスの導入や指導に従事しているビル・ドウェイン氏のインタビューを軸に、そこにサンガ編集部の解説を加えたものだ。インタビュー部分はゴシック体で、解説部分は明朝体で印刷してある。

 全体は大まかに二部構成。第一部では、ストレスの多い最先端企業の中でマインドフルネスが生み出す効果、導入事例の紹介、仏教とマインドフルネスの関わりなどの紹介。第二部はより具体的に、マインドフルネスの実践法を紹介したパートになっている。この第二部は付属のCDと連動していて、読者も実際に本書の中で紹介されているマインドフルネス瞑想を体験できる仕組みだ。

 第二部では瞑想用のアプリ「ヘッドスペース」が紹介されているが、このアプリはガイドの音声がすべて英語。本書を読むと、日本語版の登場が待ち遠しくなるに違いない。

 マインドフルネスについてはさまざまな解説本が出されているのだが、本書はテーラワーダ仏教系のサンガという出版社と編集部が関わっていることもあって、他のマインドフルネス本が遠慮がちに書いている仏教の関わりについてもずかずかと踏み込んでいるのが痛快だ。

 例えばマインドフルネスの定義だが(p.32-33)、本書は『瞬間瞬間の体験に対して、今の瞬間に、判断をしないで、意図的に注意を払うことによって実現される気づき』というジョン・カバッジジン博士の定義を紹介しつつ、その直後に『マインドフルネスは、仏教瞑想をルーツとして一種の瞑想法で、心のトレーニング方法です。漢字で書くと「念」となり、日本語では「気づきの瞑想法」と訳されることもあります』と定義する。前者と後者のどちらがわかりやすいかといえば、少なくとも僕には後者の定義の方がずっとわかりやすかった。

 マインドフルネスは、仏教の瞑想法から宗教色を抜き取ったものなのだ。「これは仏教の瞑想法です」と言ったのでは、キリスト教社会のアメリカでは最初から受け入れられない。だから「これはマインドフルネスという心のトレーニングです。ストレスが軽減し、集中力も増し、対人コミュニケーションも改善して、仕事がとてもはかどるようになりますよ」という紹介の仕方がされている。

 しかしアメリカでマインドフルネスの導入や指導をしている人達の多くは、テーラワーダや禅の修行をした人たちであり、マインドフルネスの背後にはやはり仏教が存在することは間違いない。現在は持てはやされているマインドフルネスが、一過性のブームに終わってしまうのか、それともアメリカ社会の中で一定の定着を見せるのか、その時、マインドフルネスの背後にある仏教はどのようにアメリカ社会の中に受容されるのかなど、いろいろなことを考えさせられる本だった。

 日本でマインドフルネスが話題になったのは、ほんのここ1〜2年のことだと思う。アメリカでのブームが日本に輸入される形で、やはり非宗教的な瞑想法として受容されているように思う。しかし日本にはもともとの仏教的な土壌があるため、アメリカとは違った形でマインドフルネスが受け入れられ定着していく可能性もあるだろう。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書