NIKON CORPORATION COOLPIX W300 ƒ/4.2 1/50 6.6 mm ISO 125
日曜日なので教会。今日は入谷から歩いて、日本ホーリネス教団上野教会の礼拝に出席。10時半ぎりぎりにすべり込んだと思ったら、礼拝は10時15分スタートだったので遅刻。こういう場合、僕は律儀にまた別の日に最初から礼拝に参加することにしている。だから上野教会には、遠からずまた行く。
礼拝に合流したときはちょうど聖書朗読で、使徒言行録16章のパウロ第2回目の宣教旅行の場面だった。パウロたちはアジア州諸都市への宣教を目指すが果たせず、右往左往したあげくに船でマケドニアに渡る。
聖書はこの右往左往を『アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた』とか『ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった』と書くのだが、具体的に何があったのかはよくわからない。おそらくアジア州やビティニア州にはパウロたち一行の来訪に強固に反対する人たちがいて、先に進めなくなってしまったのだろう。
だがこうして本来の目的地への伝道が阻まれた結果、パウロたちは海を渡ってマケドニアに入る。こうしてキリスト教は、アジアからヨーロッパに渡ったのだ。
今日の教会の説教ではこれを「神の計画」という言葉で説明するが、まあ聖書的ななものの見方ではそうなるのだろう。ヨセフ物語と同じだし、出エジプトの物語も同じだ。
困難がある。苦労がある。でも結果オーライ。あの苦難や苦労があればこそ、今日のこの成功があり得た。神はこのことを前もって準備しておられたのだ……というロジック。でもこれって、典型的な生存者バイアスだろうな。
『神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます』も同じような生存者バイアス。試練に耐えられなかった人は教会に残らなかったから、結果として教会の中は試練に耐えた人だけが残された。
キリスト教というのは歴史の中のいろいろな偶然や巡り合わせから、今に至るまで2千年に渡って続いている宗教。それは外野の他人から見れば「偶然や巡り合わせ」だが、中にいる人には「神の計画」に見えている。
何をどう解釈するかは立場によって違うのだが、今日たまたま読まれていた聖書の箇所にも、それは端的に表れている。聖霊やイエスの霊は、その場その時の話ではなく、マケドニアやギリシャでの宣教が成功したことから振り返って、「あの時に聖霊が」「あの時にイエスの霊が」と逆算した言葉だと思う。そう考えると、マケドニア人が夢枕に立った話も似たようなものだろう。
昼は教会近くの街中華「大精軒」でタンメン。730円。そのままかっぱ橋道具街まで歩いて通りを南下し、浅草通りを上野方面に歩く。途中でブックオフを見つけたので、220円の文庫本を5冊購入。さらに歩いて稲荷町の駅を通過し、下谷神社を抜け、下谷教会の前を通って、上野駅に出る。
映画を観ようと思い立ってTOHOシネマズまで行ったが、今日は会員証を家に置いてきてしまったので、映画は取りやめ、仲御徒町で地下鉄に乗ってそのまま帰ることにした。会員証がなくても映画は観られるのだが、まあいいや……。こういう点は、我ながらケチくさい話だと思ってあきれる。
自宅に戻ったらAmazonから荷物が届いていた。チェーンロック用の南京錠。明日は雨のようだから、使うのは明後日以降か。今朝はヨドバシドットコムにパナソニックのシェーバーを注文したのだが、これは配達が明後日になる手はず。
今日はカメラをNIKON COOLPIX W300にしてみた。いちいちカードの抜き差しをしなくても、無線通信でスマホに写真データを取り込んでしまうのは楽ちん。ただ、スマホのバッテリーが最近本当にイカン状態。これもいい加減に買い換えかな。
夕方から大河ドラマ「どうする家康」を見るが、既に投げ出してしまいたい気分になっている。なんか、軽いんだよなぁ。
本日の卦は、賁(ひ 22)の初爻変。賁の艮(ごん 52)に之く。
賁は、亨る。少しく往くところあるに利ろし。初九。その趾(あし)を賁(かざ)る。車を舎(す)てて徒(かち)す。象に曰く、車を舎てて徒すとは、義として乗らざるなり。
その背に艮(とど)まりてその身を獲ず。その庭に行きてその人を見ず。咎なし。
今日は自転車を使わずに歩いたが、これは義として乗らなかったわけではなく、単に天気が悪かったからだ。でも結果として雨は降らなかったのだが……。