旧宮家の皇族復帰はファンタジー

 天皇の代替わりと新元号のスタートに加え、GWで特別編成を組みやすいこともあり、テレビでは盛んに新天皇や皇室の話題を繰り返し報じている。その中でしばしば話題になるのが、皇族減少と、今後の皇室をどのように維持していくかという問題だ。

 テレビではあまり触れないのだが、ネットではこうした話題を受けて必ず「男系男子を維持するために旧宮家を皇族に復帰させるべし!」という話が出てくる。先日はテレビの中でこの案を紹介し、「簡単にできる」と言う人もいた。しかし僕はこの案を、荒唐無稽なファンタジーだと思っている。

 旧宮家も今は一般国民だ。一般国民の一部を家柄や血筋で選別し、特別扱いするのは、社会的身分や門地による差別を禁じた憲法第十四条違反になってしまう。ところが旧宮家の復帰を主張する人で、このことを指摘する人がほとんどいない。真面目にこの案を考えれば、まず最初にぶち当たる障害が憲法との整合性だと思うのだが、それを誰も問題にしていない。おそらく旧宮家復帰を主張する人たち自身が、この問題にまるで本気ではないのだ。だから「それって憲法違反じゃないの?」という単純なことすら、真面目に考えようとはしていない。

 政治評論家(?)の竹田恒泰は、以前「旧宮家の皇籍復帰」を主張していたと思う。しかし最近はこれをトーンダウンさせて、皇室典範改正による養子の解禁を主張するようになった。旧宮家を丸ごと皇族に復帰させるのではなく、男系男子の血筋を持つ旧宮家の縁者を皇族が養子に取り、現在の宮家を男系で維持していくという案だ。実際にこうした養子縁組に応じる旧宮家の家庭があるかどうかは別として、憲法に抵触しない法律の変更で、男系男子の血統を再び皇族の中に引き入れるという点では現実的なアイデアだと思う。少なくとも竹田恒泰は、この問題を真面目に考えたのだ。

 しかしいずれにせよ長い目で見れば、皇統の維持を「女系」にまで広げざるを得ないだろう。皇族の結婚も自由恋愛が主流になっているらしい現在、皇族に男系男子が増えたとしても、それがみな結婚できるとは限らない。結婚したとしても「子供が生まれない」「生まれた子供がみんな女性」ということは十分にありえるし、今の時代に「皇族と結婚したからには男子の跡取りが生まれるまで5人でも10人でも子供を生め」とは言えないだろう。側室制度の復活など、さらにナンセンスだ。

 一般家庭ならここで、娘に養子を取って家名を継承することがある。子供がいない場合は、夫婦養子を取ることもある。だが「男系男子による血の継承」を必須とする皇族は、女性皇族に婿養子を取っても生まれた子供は女系になってしまうし、血の継承がない夫婦養子などまるで意味を持たない。

 戦後皇族を離れた旧宮家は11あったという。現在そのうちいくつの家が、男系男子による家系を維持しているのだろうか。Wikipediaの記事によれば、11家のうち半分ほどが、男系男子を維持できずに断絶しているという。70年経てば、11あった旧宮家も半分になる。今後何人かの男系男子を旧宮家から皇族に迎え入れたとしても、今後50年、100年という長い時間を、男系男子が維持し続けていける保証はないのだ。

 明治天皇が発し、昭和天皇が人間宣言の中でも引用している五箇条の御誓文に、「舊來(きゅうらい)ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破(やぶ)リ天地ノ公道ニ基(もとづ)クべシ」という一文がある。皇統を男系男子に限定するという仕組みは、もはや「舊來ノ陋習」に成り果てているように思う。本気で皇室の安定的な継承を願うなら、今この時期に「女性宮家」「女性天皇」「女系天皇」などの議論を始めるべきだろう。

 安倍首相は相変わらず憲法9条の改正にご執心のようだが、皇統の維持は日本国存続のためにはそれ以上に大切だ。これは「天皇は神様だ」とか、そいういう伝説や精神性のことを言っているわけではない。日本国憲法を見れば分かる通り、日本という国は天皇なしには国会も開けず、大臣も任命できず、法律も施行できない仕組みになっているのだ。天皇こそ日本という国のかなめ。これを安定的に維持していくことが、日本を守ることになるのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

将来の皇位継承に向けて

 天皇の代替わりもあるので、ここ10年以上話題になっている「皇位継承」について書いておく。

 現在の皇室典範では皇位継承について次のように定めている。

第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

 歴史学者の間ではさまざまな解釈があるようだが、「男系の男子」に皇位を継承することは、天皇家の伝統として長い年月に渡って守られてきた。

 ところが現在の皇族の中には、将来の天皇家を担っていけそうな男系男子の皇族がほとんどいないのだ。

 次期天皇となられる浩宮徳仁親王には、女性のお子様しかいらっしゃらない。弟の秋篠宮文仁親王には、男の子である悠仁親王がいらっしゃる。しかし、若い男性皇族はこれだけなのだ。皇位継承の重圧が、ひとり悠仁さまの肩にかかっている。

 そこで安定した皇位継承のためには、2つの方法が考えられている。

 1つは皇位継承を「男系の男子」に限らず、皇統に属する「女子」にも広げていくことだ。現在の皇族の中には、若い女性皇族が何人もいる。こうした方々にも皇位継承の可能性を認めることで、皇位継承の担い手の数はずっと増える。

 もう1つは皇族を離れた「男系の男子」を探して、皇族に復帰していただくことだ。歴史的には継体天皇などの事例もあるので、皇室の歴史の中では「伝統的な手法」のひとつでもある。

 歴代天皇の男系男子の家系は、「宮家」という形でかつては皇族の一員だった。戦前には多くの宮家が皇族として天皇家を支えていたが、これが戦後にGHQの主導もあって皇族を離れ、今は一般国民になっている。これが「旧宮家」の人々だ。

 旧宮家の中には、男系の血を引く若い男子もいるとのこと。こうした方々に皇族に復帰していただけば、男系男子で皇位継承を続けていくことも可能になる。

 保守系の論客と呼ばれる人たちの中には、この「旧宮家の皇族復帰」が簡単にできると主張する人たちが少なくない。しかしそれは無理な話だ。

 日本国憲法の第十四条には、次のような規定がある。

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 旧宮家を特別扱いして皇族復帰させるのは、日本国憲法が禁じた「門地による差別」に他ならない。旧宮家の皇族復帰を簡単に論じる人たちは、この問題をどう考えているのだろうか。

 なお現在もはや有名無実化しているかに思える自民党の憲法改正草案では、十四条は次のようになっている。

第十四条 全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 ここでもやはり「門地による差別」は明確に禁じられている。こういう状態で、どうやって旧宮家の復活なんてことがあり得るというのだろう。

 一部の保守論客の中には、皇室典範の一部を改正して皇族が養子をとれるようにし、旧宮家の男系男子を養子として迎えればいいと主張しているものもいるようだ。改正するのは皇室典範の以下の項目になる。

第九条 天皇及び皇族は、養子をすることができない。

 養子を取る場合は当然、その可否を皇室会議などで判断することになるのだろう。「旧宮家から男系男子の養子を」と主張している人たちは、皇室会議が旧宮家からの養子しか認めないことを期待しているようだ。

 しかしこれも「旧宮家」だけを他の一般家庭とは別の特殊な家系として扱っている点で、憲法第十四条の趣旨に反することになってしまう。

 旧宮家から新たな男系男子を皇族に迎えるというのは、旧宮家の皇族復帰であれ、旧宮家からの養子であれ、憲法第十四条に抵触してNGになる。ならば憲法を改正しろと主張する人がいるかというと、これがほとんど見当たらないのだ。

 旧宮家の皇族復帰が不可能なら、残る道は皇統に属する「女子」にも皇位継承の道を開くことしかない。つまり女性天皇や女系天皇も認めるという意味だ。その前段階として、女性宮家も認めるべきだろう。

 というか、皇位の安定継承にはそれしかないんじゃないの?

 「いや、それでも男系男子なのだ!」「旧宮家の中には年若い男系男子がいらっしゃるのだ!」と言う人たちもいるだろうが、ならばそうした人たちはまず、憲法第十四条の改正を主張すべきだと思う。その上で旧宮家を皇族復帰させるなり、旧宮家の男系男子を養子として皇族に入れるなりするのが話の筋だ。

 憲法第十四条があり、皇位継承を男系男子に限る以上、皇位の安定継承は危うい。どちらかを変えなければならないことを、日本人は自覚すべきだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

高齢ドライバーの事故をどう減らす?

 池袋で起きた10人死傷事故をきっかけに、高齢ドライバーに対する批判の声が高まっている。

 この事故については、加害者になった高齢ドライバー個人に対して様々な批判があるようだが、陰謀論めいたそうした非難の声に僕はあまり興味を持てない。

 それより気になるのは、より一般化された「高齢ドライバーの事故をどう防ぐか」という話だ。

 一定の年齢に達した高齢ドライバーから、一律に免許を取り上げてしまうべきだという強硬論もある。現在既にある制度の範囲内で、認知能力や運動機能に障害を持つドライバーの免許を停止する仕組みを活用すべきだという意見もある。

 後者はともかく前者については、法律改正などの手続きが必要になる。しかし国会がこれをまともに取り合うだろうか? 僕はまったく期待できないと思う。

 これは考えればすぐわかることなのだ。政治家が地元の後援会に顔を出せば、そこにいるのは8割以上が60歳以上の高齢者だろう。そこで「高齢者の免許証を一律に取り上げる」なんて言えますか?

 「先生、ここにいる仲間たちの半分は、そんな法律ができたら免許を取り上げられてしまう。御存知の通り、この地域では仕事でも買い物でも病院通いでも子供の送り迎えでも、自動車はなくてはならない庶民の足だ。まさか先生は、それを奪い取るような法律に賛成しないよね?」

 地元の後援者たちにそう言われた時、「それでもあなたたちから免許を取り上げるのだ」と言い返せる政治家がどれだけいるだろう。

 高齢ドライバーの多くは、趣味で自動車に乗っているわけじゃない。暮らしの中で必要にかられて、やむを得ず自分で自動車を運転している。その「必要」を満たす代替手段を用意しないまま車を取り上げるのは、高齢ドライバーに不便な生活を強いることになる。

 自動車事故を減らすため、飲酒運転を厳罰化するのは構わない。それは飲酒運転をしない真面目なドライバーに何の痛みも与えない。シートベルトの着用義務も、多少面倒にはなったが習慣化してしまえばどうということはなかった。スピード違反を繰り返すドライバーや、煽り運転をするドライバーからも、即座に免許を取り上げてしまって構わないと思う。違反をしない善良なドライバーは、それで誰も困らないからだ。

 だが高齢者の免許を取り上げるのは、それとは全く違うことだ。問答無用で免許を取り上げれば、車を運転している高齢者の生活の質は下がる。それを埋め合わせる具体的な施策がないまま免許を取り上げてしまえば、高齢世帯の生活はあっという間に荒廃し、場合によっては崩壊してしまうだろう。

 もちろん、具体的な代替案というのはいくつも考えられる。

  • バスやタクシーなどの公共交通機関を利用させる。廃線になっていた路線バスを復活させたり、タクシー利用時のクーポン券を発行するなどの工夫は必要になるだろう。

  • 高齢者には、公共交通機関が発達した都市中心部に引っ越してもらう。引越し費用や家賃を誰がどう負担するかは議論が必要。もともと中心部に住んでいた人たちとの間で、不公平感が生じないようにする必要もある。

  • 高齢者専用免許を作り、自動ブレーキ装備など、一定の安全基準を満たした車しか運転できないようにする。高齢者がこうした車を購入したり買い替えたりする際は、国が補助金を出す。

 いずれにせよ莫大な費用がかかるので、それを誰がどんな方法で負担するのかは考えねばならない。

 受益者負担の原則で考えると、高齢者の自動車事故が減ることで利益を得るのは、社会全体ということになる。ならばこうしたことにかかる費用も、やはり社会全体で担うべきなのだろう。つまり、税金で賄うしかない。日本全体で、それにいったいいくらかかるだろう。何千億円だろうか。それとも何兆円だろうか。

 それができないなら、我々は高齢ドライバーの起こす交通事故を、社会全体で支払うコストとして受け入れるしかない。身も蓋もない言い方をするなら、高齢ドライバー対策に何千億円もの金をかけるより、高齢ドライバーが事故を起こした時、被害者に1億円ずつ支払うほうが安く済むことは間違いない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

協調性のない子供

 子供の頃から、協調性がないと言われていた。小学校の成績表にはいつだってそう書かれていたし、自分でもその自覚がある。

 みんなが「Aだ!」と言えば「違う、Bだ!」と言い、全体がBになびいてくれば「やっぱりAだ!」とか「そうじゃない、本当はCだ!」と話を混ぜっ返す。

 要するに全体でまとまるのが嫌なのだ。生理的に受け入れられない。これは本能的なものだ。他人に行動を合わせられず、そもそも人と同じことができない。

 のろまだとか、グズだと言われたこともある。他人に合わせられず、いやいや行動しているから動作が遅く見えることもあるのだろう。でも逆に、他人に先んじて何かをとっととやってしまうこともある。足並みが揃わない。揃えたくないのだ。

 運動会や音楽会、文化祭などの、学校行事は嫌い。団体行動が苦手。僕は別にそれでいいと思っていたのだが、親は何度も学校に呼び出されていたなぁ……。

 そんな性格のまま大人になった。今では社会生活の都合から多少は他人に合わせられるようになったが、それは合わせているふりをしているだけで、本当は合わせる気なんてない。口癖は「でも」である。「そもそも」である。「ところで」である。自分で書いている文章を読み直すと、「だが」「しかし」などがやたら多くて嫌になることがある。(推敲してなるべく減らす。)

 僕は今でも協調性のない人間だ。多数派には属したくない。少数派でいたい。そのほうが自分は安心できるし心地よいのだ。だが民主主義社会では多数派が常に体制側になる仕組みなので、協調性のない、へそ曲がりで、天邪鬼な人間は、いつだって必然的に反体制になる。

 反体制派だから、僕は当然現在の日本では「反自民」であり「反安倍政権」だ。反体制側の人たちというのは政治思想や信条の問題として反体制になる人もいるのだろうが、案外僕と同じようなへそ曲がりも多いんじゃないだろうか。その手の人間は、将来政権交代が起きて自民党が下野すれば、今度は自民党を応援し始めるかもしれない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

最近よく眠れない

 ここ何日か、夜よく眠れない日が続いている。こむら返りが原因だ。

 正確にはこむら返りというより、その前兆のような足のしびれ、足の筋のこわばり、あるいは小さな痙攣で飛び起きる。

 こむら返りがクセになっている人はわかると思うが、ふくらはぎの筋肉が完全に引きつって激痛でにっちもさっちも行かなくなる前に、その前触れのようなものが起きる。最近はそれで飛び起きる。しかも一晩に何度もだ。

 足の痙攣は寝ているとそのまま進んで大発作になるのだが、飛び起きて立ち上がっていると致命的な(というのも大げさだが)大発作に結びつかず、足のひどいしびれや筋肉のこわばりによる痛みなどで済むことが多い。少なくとも僕は、それでやり過ごすことがほとんどだ。

 前兆や軽い発作の状態で済めば、早いときは数分、ひどくても30分か1時間もすればまた横になって寝ることができる。

 おかげで最近は本格的な大発作になることは少なくなった。前兆や痛み、しびれなどで飛び起きても、大発作につながるのは数十回に一度あるか無いかだろう。しかしそれでも、毎晩のように何度も飛び起きるのだから困ってしまう。

 ベッドに入るのが夜11時過ぎから12時前後。それから最初に飛び起きるのが2時。30分か1時間してまた横になり、次は3時半に軽い発作で目を覚ます。また30分か1時間して眠り、次は5時半頃に目が覚める。それから30分か1時間すれば、もう外はすっかり明るくなってしまうのだ。

 これが何日も続けば、寝不足で頭がぼんやりしてくるよ。

 夜中に足の痛みが起きる理由はよくわからない。医者に行ってもよくわからないと言われた。個人的には4年前に受けた椎間板ヘルニア手術の後遺症ではないかと思っているが、それは「ヘルニアの腰の痛みに比べれば、何のこれしき」という自己暗示かもしれない。

 こむら返りの痛みには芍薬甘草湯という漢方の特効薬があるのだが、僕はこれもあまり効果を感じなくなってしまった。鍼灸なども効果があるらしいので、今度どこかの鍼灸院に行ってみようかと思っている。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

静かで冷たい独裁国家

 日本はもう何年も前から、独裁国家なんじゃないだろうか。ふとそんなことを考える。

 独裁者というと、ヒットラーやスターリン、あるいは毛沢東のように、権力を独占して反対者を粛清し、国民にも多くの犠牲者を出すようなイメージがあるかもしれない。

 だから現在の日本が独裁国家だと言えば、「現在の日本のどこにヒットラーやスターリンのような独裁者がいるのだ! どこに粛清があり、どこに虐殺があるのだ!」と反論されるだろう。

 でも独裁者は粛清や虐殺を行うから独裁者なのではなく、独裁者として権力を掌握した結果として、粛清や虐殺を行うようになるのだ。粛清や虐殺は独裁の条件ではなく、独裁のひとつの結果に過ぎない。

 もちろん日本は民主主義国家であって、国民には言論の自由も集会結社の自由も認められている。現在の政府が成立しているのは公正な選挙の結果であって、そこで大掛かりな選挙妨害や不正が行われた形跡もない。

 だとすれば、日本のどこが独裁なのか。もしも日本が独裁国家だとすれば、それは日本人が自ら望んで選択した独裁制であり、現在の選挙制度などが政権選択の方法として確保されている限り、それをいつ止めるかも日本人の望むままに選択できるはずだ。

 しかしそれでも、僕は現在の日本が独裁国家に思える。そこには少しの熱狂もない。ほとんどの国民の諦めと、冷笑に支えられた独裁だ。

 ネットの中は別として、僕は周囲に熱狂的な安倍自民党支持者など見たことがない。しかし野党に対する諦めと冷笑はしばしば見かける。これはテレビの中のコメンテーターなども同じだろう。

 「野党はダメだ」「反対ばかりで対案がない」「野党の批判はきれい事ばかりだ」など、その言葉の多くは紋切り型だが、日本人の多くはそれに慣れっこになってしまった。

 かく言う僕も似たようなものだ。安倍自民党はダメだと思う。あらゆる政策で、これといった成果を出せていない。何より、日本の景気が良くなっていない。低賃金のデフレ体質は変わらず、未婚化や少子化も止まらない。

 しかしだからと言って、現在の野党に政権担当能力があるとも思えない。それどころか現在の自民党内部に、安倍首相以外のリーダーをイメージすることもできない。

 日本は安倍首相という愚鈍な独裁者の下で、今後も低迷を続けるだろう。でもそれが、日本人の選んだことなのだから仕方ない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

裁判所に道徳を求めるな

 実の娘が中学生の頃から意に反する性交を何年も繰り返していた父親が、19歳になった娘に準強制性交等罪で訴えられて無罪になった事件。

 まったくむかっ腹の立つ事件で被害者が気の毒でならないし、この父親には行ったことに対して何らかの罰が加えられるべきだと思う。

 しかしこの無罪判決に対して、ネットには「そもそも近親相姦は人倫にもとる。それが裁判官にはわからなのか!」などと言っている人が少なからずいて、それはそれで暗い気持ちになってしまった。

 世の中には「人倫にもとる性行為」や「性的な逸脱」というものが山ほどある。例えば僕が子供の頃に学校で配布された保健体育の教科書では、同性愛や異性装が性的逸脱だとされていた。それは変態性欲であり、精神異常の一種であり、治療を要する重篤な心と体の病だった。

 LGBTが一定の市民権を得ている現在の目から見れば、これはまるで間違った話であり、ひどい差別だと思う。しかし当時は多くの人がそう思っていたわけだし、それに対して「それはおかしい」という声を上げる人は少なかったのだ。もちろん数の多さが正しさを保証するわけではないから、例え当時の多数意見や常識がどうであったにせよ、同性愛差別は間違いだ。それは今では当然のことだし、じつは当時もそうだったのだ。

 同性愛も近親相姦も同じだと言いたいわけではないし、同性愛と同じように近親相姦も今後は社会的に容認されるべきだと言いたいわけでもない。言いたいのは、ここで「人倫」を持ち出して人を裁こうとする人の多さに対する違和感だ。

 人倫、道徳、社会常識などを前提にして、法で規定されていない罰をこの事件の加害者に課そうとするのは間違いだ。事件や裁判の詳細は調べていないのでわからないが、今回の裁判に関しては検察側に落ち度があったようにも思うし、裁判所の判断が著しく被告人有利に働いていた可能性もある。しかし少なくとも裁判所や裁判官たるもの、「倫理」などというものを尺度にして人を裁かないのは当然であって、「裁判官は近親相姦が人倫に反していることがわからないのか!」と憤るのは間違っている。

 裁判で問われ、争われているのは、そこで行われていた行為が、果たして準強制性交等に該当するのか否かだ。裁判所はそれを認めなかった。近親相姦の有無を問うていたわけではないし、その道徳性を問うていたわけでもない。そこを勘違いしてしまうと、「人倫が!」「道徳が!」「社会道徳が!」「鬼畜の所業!」などと、抽象的な言葉ばかりが飛び交うだけになってしまう。

 僕はこの事件の被告(元被告?)を弁護する気は一切ないが、それでも法律で裁きを下すべき場に、「倫理」や「道徳」という判断基準を求めようとする人たちには反論しておきたい。

 今後この事件同様の行為を処罰するためには、法律の改正が必要だ。現在の法律条文で強制性交等罪の成立要件が「暴行又は脅迫を用いて」となっている部分を、「相手の同意なしに」に改めればよい。まあこれはこれで大変なことではあるのだが、議論の出発点としてはそこしかないように思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

140文字に切り取られた世界

 最近ブログの更新がすっかり滞っていたのは、何にせよ、書いたり読んだりすることはSNSで用が足りるようになってしまったからだ。

 インターネットが普及しはじめた今から20年ほど前、自分で何かの意見を発表をする人は、ホームページを作った。その後、メルマガやメーリングリストが流行した。さらにブログが登場した。それがSNSに置き換わって今に至る。

 他には動画配信サービスというものもあるが、僕はこれを利用していない。初期に動画に進出していれば、ひょっとしたら今ごろは有名YouTuberになっていたかもしれないのに、残念なことをした。

(……と、こういうことを書くと本気にする人がいるので念のためだが、これは冗談で書いている。大スクリーンで3時間の映画を観ることは苦にならなくても、テレビで30分の番組を見る根気が続かない僕にとって、YouTubeに代表される動画サイトは、最初から興味のわかないものだった。)

 現在僕はFacebookやTwitterを主に使っている。Facebookの投稿はTwitterにも投稿される設定にしているので、書くのはそれを見越した短文になる。140字以内。少し長いものを書くときは、これを連投する。あるいはTwitterの側で、コメントをつなげて行く。

 最初はこれが物足りない部分もあってブログも更新していた。ブログとSNSの棲み分けや使い分けを考えていた。でもそのうち、SNSだけで用が足りるようになってしまったのだ。SNSだけで用が足りる世界に足を踏み入れると、140字でたいていのことは言えるし意味が通ることがわかる。

 スピーチ原稿は1分間に300字が目安で、ニュース原稿などなら350字ぐらいだという。黙読ならそれよりスピードアップするので、1分で400字は読めるだろう。映画瓦版は本文1,200字だが、これはだいたい3分で読める計算だ。

 しかしSNSは140字なのだ。目で追うだけなら数秒で読める。それがSNSのスピード感だ。ブログやメルマガが将棋の対局なら、SNSは卓球の高速ラリーみたいなスピード感になる。問題は世の中全体が、高速ラリーのスピード感で動いていることなのだ。

 140字で大概のことは言える。しかし140字からこぼれ落ちてしまうことも多い。それを補うのがSNSのリンク先にある記事本文なのだが、高速ラリーの中にいる人の多くはそれを読みもせずに、SNS記事に「いいね」したり「シェア」したりしているのだ。何を隠そう、僕もそうしている。

 SNSが主流になると、文章の中で委曲を尽くすとか、ひねりを効かせるということができなくなる。文章の構成など不要になる。起承転結なんて要らない。結論だけスパッと書く。それでOK。確かにそれで用は足りるのだろうが、そこからこぼれ落ちてしまう部分にこそ、本当に大事なものがあるんじゃないだろうか。

 ずいぶん昔、大昔の話だが、深夜テレビでシナトラ主演の『夜の豹』(1957)という映画を観た。原作はジーン・ケリーが主演した舞台ミュージカル「パル・ジョイ」で、リチャード・ロジャースとロレンツ・ハートが作ったミュージカルだ。ところがこの放送では、肝心のミュージカルシーンを全部切った短縮版になっていた。それでストーリーはわかるのだ。でもミュージカルシーンを全部切った『夜の豹』に、どれだけの価値があるんだろう。

 世の中の森羅万象を140字にしてしまうSNSというのも、それと同じなんじゃないだろうか。我々はあらゆる物事を140字にまとめられるSNSの簡便さと引き替えに、本当に大事な何かを切り捨ててしまった可能性がある。

 あの日同じ深夜テレビを見ていた人は、ミュージカルシーンを切り捨てた『夜の豹』の短縮版を見て、それが『夜の豹』という映画だと思ったことだろう。140字で流れて行くSNSというのは、そんなものの連続なのかもしれない。

 というわけで、僕はその反省も込めて、またブログに復帰しようと思っているわけだ。とはいえSNSの簡便さにすっかり慣れてしまっているので、これがいつまで続くかわからないけどね。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

新元号の発表に思うこと

 改元そのものに興味はないし、「令和」という新元号にもあまり関心がない。しかし新元号の発表に浮き足立ち、発表と同時に大騒ぎしている日本人の様子には興味がある。

 たぶんみんな「共通の話題」が欲しかったんだと思う。老若男女を問わず、国民全体で分かち合える、ひとつの物語が欲しかったんだろう。

 流行歌も、ベストセラーも、人気テレビ番組も、国民全体が何となくそれを歌い、読み、見ているという時代は過ぎ去ってしまった。誰もが参加できる共通の話題を失った日本人は、きっとそれに飢えていたんだと思う。そこに投げ込まれたのが、改元という歴史的な事件だったのだ。

 改元自体は何十年かに一度は必ず行われる出来事だ。昔は天皇在位中にコロコロ元号を変えたりもしたが、大正以降は一世一元になって、天皇陛下の生存中は元号が変わらなくなった。しかし一世一元の元号が、何百年も変わらないということはあり得ない。たいていの人は、生きているうちに一度か二度は、改元を体験するのだ。

 夏の甲子園もレコード大賞も、毎年やっているから有難味がない。それでも多少は話題になる。4年に1度のオリンピックやワールドカップも、もはやあまり有難味はないのだが、それでも大いに盛り上がる。ならば数十年に1度の改元が、盛り上がらないはずがない。

 今回の改元に関する日本中の大騒ぎというのは、たぶんその程度のことなのだと思う。新天皇の誕生を寿(ことほ)ぐとか、日本のナショナリズムがどうとか、そういう理由付けも何かしらの説明にはなっていると思うのだが、それより何より、まず日本人が共通の話題を欲しいてたということの方が大きいに違いない。

 僕は今回の改元が、これまでの人生で2度目の改元になる。僕は自分の余生があと20年ぐらいだと思っているので、さらに次の改元が数十年後にあったとしても、その時に生きているかどうかはわからない。同じようなことを考えている人は、たぶん日本に大勢いるんじゃないだろうか。

 こうして改元は、多くの日本人の身体に刻み込まれる。「生まれてはじめての改元」とか、「生涯2度目の改元」とか、「たぶん自分の人生にとって最後の改元」という形で、改元は身体に刻まれ、元号は日本人の血肉になって行く。

 繰り返しになるが、僕は改元そのものに興味はないし、「令和」という新元号にもあまり関心がない。しかし今後何年も、あるいは何十年もかけて、元号は僕の身体の一部になっていくのだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

写真は安上がりな趣味になった

 最近また写真を撮るようになった。カメラは既に何台か持っているのだが、最近購入したのはRICOH GXRとレンズユニットA12 50mmとA12 28mmだ。どちらもGRレンズ搭載。これがじつによく写る。欠点は同じようにGRレンズを搭載したコンパクトカメラGRDシリーズやGRシリーズに比べると、大きくと重いことぐらいだろう。

 現在、写真は安上がりな趣味だ。カメラさえ購入してしまえば、あとはランニングコストがかからない。何百枚写真を撮っても、それによって生じる費用はゼロ。これはフィルム時代から見ると夢のような話だ。

 デジタルになっても、かつては写真を保管・保存するのにそれなりの費用がかかった。しかし今はそれもタダだ。撮った写真はプリントせずに、SNS(TwitterとかInstagramとかね)などに投稿してそこでおしまいにすればいい。それ以外の写真も、GoogleやAmazonのサービスを使えば無限に保存しておくことができる。

 カメラも安くなっている。最近使っているGXRは10年以上前に発売されたデジカメ。デジカメもここ10年ぐらいは大きな技術革新のない枯れた製品になっていて、10年以上前のカメラでも、普通に何の不満もなく使える。10年前の高級デジカメを中古数万円で購入すれば、あとは写真をいくら撮っても、いくら写真を保存しておいてもお金はかからない。

 一方で趣味や道楽にはお金をかけられる部分がないとつまらない。その点で写真は、金をかけずに趣味として楽しもうとすればほとんどタダみたいなコストで参加できるし(カメラだってスマホでいいのだ)、お金をかけようとすれば際限なくお金をかけることもできる奥の深い世界になっている。

 カメラに投資しようとすればいくらでも高価な機材が存在するし、交換レンズだの、ストロボだの、カメラバッグだのと、周辺機器も多い。写真の加工にパソコンやソフトに投資する人もいる。写真を撮るために世界中を旅する人もいるだろう。プロのカメラマンではなく、あくまでも趣味としての話だ。

 まあ僕は少ない投資でちびちびと写真を楽しんでいるわけだが、それでもGXRには何万円かかけてしまった。今後はこれで何年か楽しむつもりだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記