今日は15分だけ家事をする

 洗濯は全自動洗濯乾燥機がやってくれるのだが、乾燥し終えた衣類をたたむ仕事は人間がやらねばならない。ところがこれが面倒で、ベッドの上には乾燥した衣類が山積みになっている……。

 というわけで、今日はタイマーを15分にセットして、15分だけ集中して洗濯物の山を片付けることにした。「これを全部片づけよう」と思うともうウンザリしてしまうので、何があっても15分で作業を打ち切る。

 15分だけ、何も考えずに一心不乱に衣類の山と格闘する。これで今日は衣類の山が半分になったので、明日も15分やればだいたい片付くに違いない。(まあ明日は明日で新たな衣類の山が生じるわけだけど……。)

 仕事を「量」で見ないで「時間」で見るというのは、毎日の家事に追われる身としては新しい発見だった。明日も15分だけ家事をしよう。

 もちろん家事の中には、「量」で片付けるしかないものも多い。料理などは「15分たったから」という理由で途中で投げ出すわけには行かない。でも掃除はどうだろう。部屋中全部に掃除機をかけねば!と張り切らずに、とりあえず15分だけ、あるいは10分だけ掃除機をかけてみる。

 まあ10分あると、結構あちこち掃除できちゃうんですけどね。普段はあまり意識しないけど、10分とか15分というのは、じつは結構いろんなことができる時間なのです。

 こういう細かな時間を計るには、携帯型のタイマーが便利。僕は首から下げられるキッチンタイマーを数年前から使っているし、ポケットに入れて使うバイブレーション式タイマーも持っている。腕時計のアラーム機能も使えるかも。台所からキッチンタイマーを持ちだしてもいい。

 家事が苦手、家事が億劫だと感じている人は、とりあえず試してみることをお勧めします。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

観光は物見遊山ではない

 国会議員や地方議員が、議会閉会中に税金を使って海外旅行に出かけることがある。外遊とか海外視察と呼ばれるわけだが、これに対しては「単なる観光旅行では?」という批判も多い。

 でも僕は「観光旅行でもいいんじゃないの?」と思ったりする。一度も海外に出たことが無い人よりは、観光旅行であっても海外に出たことがある人の方が見聞を広められる可能性がある。

 (もちろんこれは可能性であって、海外に行っても何も見ず、何も聞かず、何も感じない人も多いとは思うけどね。)

 そもそも「観光」というのは、そう悪い意味の言葉ではなかった。これは「易経」の中の観卦の爻辞で、「外国に賓客として招かれ、その国の威光を仰ぎ見る」という意味。その土地の人々の暮らしぶりを見て、その土地で行われている政治のありようをつぶさに観察する。それが「観光」というものなのだ。

 僕は国内旅行でも海外旅行でも、それぞれの土地で地元ローカルテレビ局の放送を見たり、地元ローカル新聞の記事を読んだり(外国だと読めないけど)、地元の生鮮スーパーに出かけて商品の棚を見て歩くのが大好き。

 日本は最近どこにでかけても、駅前に高層ビルが建ち並ぶ似たような風景になっているようにも見える。でもテレビや新聞を見て、スーパーの棚の間を歩けば、そこにはそれぞれの土地に固有の暮らしがちゃんとあることがわかる。

 風光明媚な(いわゆる)観光地に出かけなくても、その土地を味わうことはできると思うけどね……。

 というわけで、三連休は家族で札幌に観光旅行。4月にも一度行っているのに、どういうわけか年に2回も札幌市内見物。まあこれはこれで楽しいもんです。春と秋の札幌には出かけたから、次は真夏とか真冬の札幌も見てみたかったりして。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

体年齢がほぼ還暦……やばい

 久しぶりに体重・体組成計に自分の身長や年齢を入力し、あれこれ計測してみた。

 現在実年齢は51だけど、表示される体年齢はましなときで55歳、ひどいときは間もなく60歳にならんとするありさま。

 いかん。これはいかん。

 やばい。これはやばい。

 まずい。これはまずい。

 ちょっと真面目にダイエットを考えねばならぬ。まずは酒を控えることだ。間食も控えよう。そして、少しは運動もしよう。

 バイト先まで歩いた方がいいかな。でもそれだと時間がなぁ……。

 これは今後の課題になりそうだが、ちょっとまじめに考える。健康で長生きしたいとか、そういう欲張りなことを考えているわけではない。体重を減らした方が腰への負担が減って、結果として座骨神経痛や、夜中に足がつるのが減らせるんじゃないかと思っているのだ。

 相変わらず毎晩のように足がつる。あるいは足がしびれる。これは、嫌なもんですよ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

新しい腕時計

 最近新しく購入した腕時計の調子がいいので、ちょっと書いておく。

 カシオのW-735H-1AJF という機種で、3千円前後の安い腕時計だ。いわゆる「チプカシ(チープなカシオ製ウォッチ)」というやつである。

 デジタル表示でタイマーやストップウォッチ、アラームなど一通りの機能は付いているが、電波時計やソーラーバッテリーのような機能はない。ただのクオーツ時計だ。

 ただしこの時計には、他の腕時計にない特徴がある。それはバイブ機能。アラーム、タイマー、時報などを、ブルブルッと本体の振動(バイブ)で教えてくれる。通常のアラームにも切り替えられるのだが、僕はもっぱらバイブ機能を使っている。そのために買った時計なのだ。

 毎正時ごとにブルッと教えてくれるのは、時間の経過が直感的にわかって便利。僕は腰が悪くて一定時間ごとに少し立ったり歩いたりすることを心がけているので、これはとてもありがたい。

 バイブの振動は着用している本人にはわかるが、周囲にはおそらくわからないと思う。携帯のバイブ呼び出しのように、周囲にもブンブン音が漏れるようなことはないはずだ。

 本体が多少分厚いのだが、軽いのでさほどごつい感じはしない。何と言っても安いのがいい。10気圧防水で10年の電池寿命を歌っているが、たぶんベルトが10年持たないので、その時点で買い替えになるだろう。チプカシはベルト交換するより、本体ごと買い替えてしまった方が安いのだ。

 じつはバイブ機能付きの目覚まし時計やタイマーが好きで、これ以外にも小型のもの(腕時計ではない)をいくつか持っている。腕時計型は初めてなのだが、今後あれこれ増えて行きそうな気がする……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

聖書 聖書協会共同訳?

 日本聖書協会が来年末をめどに発行を準備している新しい日本語訳聖書の正式名が、「聖書 聖書協会共同訳」に決まったらしい。

 現在出ている聖書が「新共同訳」で、その次に出るのが「聖書協会共同訳」というのはあべこべな感じがするが、それより気になるのは「これじゃ前に出ていた共同訳の立つ瀬がない」ということだ。

 日本聖書協会のプレスリリースには、今回の「聖書協会共同訳」について次のように書かれている。

聖書協会は、活動を開始した1875(明治8)年以来、明治元訳(1887年)、大正改訳(1917年)、口語訳(1955年)、新共同訳(1987年)の4種の聖書を翻訳・出版してきたが、今回も新共同訳に引き続き、カトリック教会とプロテスタント教会との共同訳となる。

 日本聖書協会にとって、1978年に発行された「共同訳」は存在しない歴史になっているようだ。しかしそれでは、新共同訳の「新」が何に対する「新」なのかがよくわからないではないか……。

 日本でカトリックとプロテスタントの共同訳聖書を作ろうという呼びかけは1960年代半ばに始まり、1970年代に入って本格的な作業が開始された。幹事役は日本聖書協会。この結果、1978年に「共同訳」の新約聖書が発行されているが、その後は旧約聖書の翻訳も進めていく予定だった。

 この共同訳は日本人が慣れ親しんだ聖書の翻訳を大きく離れ、原典ギリシャ語(新約聖書)の発音をそのまま固有名詞に持ち込むなど,かなり意欲的で大胆な訳になっていた。例えば四福音書の著者名も、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネではなく、マタイオス、マルコス、ルカス、ヨハンネスといった具合。イエス・キリストは、イエスス・キリストになった。

 この聖書がカトリックとプロテスタントの教会で広く使われていたら、その後の日本のキリスト教はずいぶんと様子が違ったものになっていただろう。

 しかしこの聖書、それ以前から聖書を使っていた人たちにはとても評判が悪かったのだ。まあそりゃそうだろう。気持ちはわかる。慣れた聖書が変わることに対する抵抗は文語訳が口語訳になる時にも見られたはずだが、この共同訳に対する抵抗はそれどころではなかった。

 こうした声に押されて聖書協会はこの「共同訳」の翻訳作業を中断し、新たに翻訳聖書を作ってそれを「新共同訳」と名付けた。聖書協会に捨てられた「共同訳」は講談社学術文庫で命をつないだのだが、それも今は絶版のようだ。(まあ古本で簡単に手に入るので、読むのは苦労しない。)

 で、「聖書協会共同訳」の話に戻る。

 当初は「標準訳」という名前も候補にあがっていたようだが、同時期に福音派系の新日本聖書刊行会も新改訳聖書の新訳作業を進めて、こちらも「標準訳」での発行がアナウンスされていたと記憶する。結局新たな新改訳は「新改訳 2017」という名で発行されたわけだが、ならば聖書協会は「標準訳」で出しても良かったのになぁ……というのが僕の無責任な感想だ。

 「聖書協会共同訳」は書名として長い。だがへたに略して「聖書協会訳」では他の訳と区別が付かないし(文語訳も口語訳も新共同訳も全部聖書協会訳だ)、「共同訳」となれば「新共同訳」とまぎらわしい上に、以前出した「共同訳」との区別が付かないではないか!

 まだ発売まで1年以上あるので、もうちょっとわかりやすい訳名が付くといいんだけどな。「明治元訳」とか「大正訳」があるんだから、いっそのこと「平成訳」とでもしてはどうだろう。平成は来年で終わるから、それ以降に新しい「平成訳」が出る心配は要らないぞ。

 もっとも発行が遅れて来年末から次の年にずれ込んでしまうと、もう平成じゃなくなっちゃうんだけどね……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

名古屋の中心と言えば名駅だ

 名古屋のショッピングゾーンと言えば栄と相場が決まっていたのだが、ここ数年の再開発で今は完全に名駅が名古屋の中心になっている。

 ちなみに「名駅」は「めいえき」と読む。これはもともと名古屋駅のことなのだろうが、現在は名古屋駅とその東側の商業地域一帯を含む正式な町名(名古屋市中村区名駅)だ。

 名古屋駅の周辺再開発が整ってきたのは本当にここ2〜3年のことらしく、僕が名古屋に引っ越して来てからも、大名古屋ビルヂング、JRゲートタワー、JPタワーなどが次々にオープンした。

 高層ビルと無縁の街だった名古屋に次々とビルができて、ビルができれば中に大量のテナントが入って、買物や食事の客で賑わうようになる。

 我が家は栄まで行こうとすると途中で電車乗換だが、名駅なら一本で行ける。そんなこともあって、何かあれば名駅まで出て買物だの食事だのをする。名古屋のくせに、人が東京なみに多い。さすがに都会だと思う。

 名古屋は一駅隣の(歩いて行ける距離)のささしまライブにまたいくつか高層ビルがオープンしたので、そこも新しい買物&食事ゾーンになりそう。あとは駅の西側再開発が待っているけれど、これも2017年のリニア開業に向けて着々と計画は進んでいるようだ。

 名古屋の景色は、今後10年ぐらいでがらりと変わると思う。へんに東京化してもつまらないので、名古屋らしい発展をしてほしいんですけどね……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

立憲民主党

 民進党の枝野幸男が、希望の党に合流しない民進党議員の受け皿として「立憲民主党」を立ち上げることにしたらしい。

 民進党は「事実上の解体」と言われていたが、これで決定的に解体・解党ということだろう。リベラル政党としての「民進党」、あるいは「民主党」が残るのは結構なことだが、「立憲民主党」もなんだか迫力不足ではある。

 立憲民主に誰が合流して行くのかが今後の見どころではあるのだが、それによっては案外これが「希望の党」以上の台風の目になるかもしれない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

リベラル受難の時代

 僕は自分を伝統主義者であり保守主義者だと思っているが、同時にリベラルでありたいとも思っている。

 保守主義とは、古い仕組みを頑なに守ることではない。世界は常に変化している。その変化に対処できない人や組織は、衰退していずれ死ぬしかないだろう。生き残るためには、どんな人も組織も変化しなければならない。だがその変化は、なるべく緩やかであることが望ましいのだ。

 自称保守主義者である僕は、そう考えている。

 だが急激な変化を嫌う保守主義は、あらゆる変化を嫌う前例踏襲主義や「昔はよかった」という懐古主義に陥りがちでもある。だがリベラルであることこそが、そうした停滞に風穴を開ける。リベラルだからこそ、急激でないとしても、人や組織がゆるやかに変化していくことを促せるのだ。

 しかし最近はこの「リベラル」という言葉が、ひどく肩身の狭いものになっている。なぜ日本人は、かくも「リベラル」が嫌いになってしまったんだろうか?

 「リベラル」とは「自由」のことだ。自由主義をリベラリズムと呼ぶ。小池百合子東京都知事は、新たに作った「希望の党」について「リベラルな議員は排除する」という方向を明確にしている。しかしその場合の「リベラル」とは何なんだろうか? リベラルを尊重しない政治正統は、一体どんな世の中を目指していらっしゃるのだろう?

 マンガ家の小林よしのりは、

自民党の中にだってリベラルな議員はいるのに、希望の党はリベラル排除だという。
じゃあ、自民党より「極右」になる。

自身のブログで述べている。自民党というのは正式名称が自由民主党だ。英語名称を「Liberal Democratic Party of Japan」という。今や政党名の中に「リベラル」という言葉を入れた、日本における唯一の国政政党になっている。

 自民党は右寄りになっても、看板自体は「リベラル」なのだ。党内にはリベラルな主張をする議員がまだ大勢いるし、それを排除するという話もない。(冷飯は食わされているかもしれないが。)

 だが希望の党はリベラル排除……。自由のない希望って、それ何なのよ?

 日本人はいつからこんなに「自由」を毛嫌いするようになったんだろうか。日本人は北朝鮮や中国を「あの国には自由がない」などと批判するが、それでいて「リベラル排除」に喝采を送るのはおかしいんじゃないだろうか。

 民主主義政治にとって「リベラル」はまず大前提だろう。国民の自由を縛って形ばかりの民主主義を行うなら、それは「北朝鮮民主主義共和国」と変わらない。

 日本は江戸時代から市民的な自由が謳歌されていたし、明治以降はそれに政治的な自由も加わって、大正時代にはそれが一定の水準にまで達した。昭和初期からは戦争によってそれがついえたが、戦争になればどんな自由な国でもそれが制限されるのは、イラク戦争時のアメリカを思い出してもわかることだ。しかしそうした自由の制限を当たり前のこととはせず、平時に戻れば揺り戻しがあるのがリベラルな社会であって、アメリカは今でもそうした基本的な気質を失っていないと思う。

 しかし日本はどうなのか。日本人は長引く不況の中で、長らく謳歌していた自由を自らかなぐり捨てようとしている。政治家に「リベラル」のレッテルを貼ることは、今では「時代遅れのサヨク」「建設的な対案のない批判勢力」と同義であり、ひどい場合には「反日運動家」「外国のスパイ」とまで言われる始末なのだ。

 確かに政治家や知識人と言われる人たちの中には、30年前の東西イデオロギー対立から脱皮できない人たちも大勢いる。しかし市民的な自由を主張する人たちに片っ端から「リベラル」のレッテルを貼り、「時代遅れのサヨクだ」「老害だ」「とっととひっこめ」と排除してしまうのも乱暴すぎやしないか?

 僕は伝統主義者であり保守主義者だ。しかしリベラルでもありたいと思っている。最近のリベラル排除の風潮には疑問を感じているし、リベラルが復権することこそが、日本人の幸せにつながると信じているのだが……。

 で、次の選挙ではどうすりゃいいんですかね?

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

仏教の面白さ

 ここ何年かで、仏教の本を読むことが多くなっている。もともと僕はキリスト教育ちで、その後は映画の仕事を通じてキリスト教を掘り下げる方向に向かったのだが、最近の個人的な仏教ブームは仕事とはあまり関係がない。

 仏教関係の入門書はずいぶん前に何冊か読んでいたのだが、どれもあまりピンと来なかったというのが正直なところだ。四諦と八正道、十二縁起、三法印に四法印、六波羅蜜など、次から次に数字と専門用語が出てくるものの、まるでチンプンカンプンだった。

 岩波文庫版の「ダンマパダ」(中村元訳の「ブッダの真理のことば・感興のことば」)は前から持っていたのだが、ちょっと読んで投げ出していた。数年前に辻秀一先生のライフスキルに関するセミナーに参加して「心を整える」ということを学び、ここから「ダンマパダ」を読み直したら、ブッダの言葉は心を整えるための心構えやノウハウが満載で面白かったというのがきっかけだ。

 ライフスキル方面の探求と実践からはすっかり遠ざかってしまったが、仏教関係は面白いと思うようになった。マインドフルネス瞑想なども、自己流で時々やっている。あくまでも自己流なので、あまり効果は実感できないのだけれど……。

 読書に関して言えば、「ダンマパダ」の後は「スッタニパータ」を読み、さらに仏教関係の概説書に戻り、原始仏教から日本の仏教関係の本を読んだりして今に至っている。専門的な本を読むほどではなく、現時点ではあくまでも表面を舐めている程度だが、仏教はキリスト教と同じぐらい範囲が広いのできりがない。今は巨大なバースデイケーキの上に立てたローソクを引き抜いて、その根本の銀紙に付いたクリームを少し舐めてみた程度のことだろうと思う。

 僕が仏教を面白いと感じるのは、そこにキリスト教的な人間観や世界観とはまったく別種の考えがあるからだ。

 例えばキリスト教は「わたしはある」と名乗る神が、自らの似姿として人間を作ったことになっている。当然人間たちも「わたしはある」という強烈な自意識・自我を持って生きている。しかし仏教はそれとはまったく逆に、「わたしはない(無我)」を主張するのだ。

 もちろん人間はほとんどの場合、「わたしはある」と考えて生きている。しかしそれは仏教の考えからすると愚かな人間の錯覚に過ぎず、他から独立した個別具体的な「わたし」という存在はあり得ない。あらゆるものには固有の実体がなく(諸法無我)、周囲との関係性の中でかりそめに存在するはかないものなのだ。

 キリスト教は世界を「神によって創造されたもの」と考える。しかし仏教には創造神というものがなく、しかも世界は無限に存在しているという。我々の暮らす世界は百何十億年か昔にビッグバンによって誕生したと言うが、仏教の世界観ではこうした「我々の暮らす宇宙」に限を飛び越えた多元宇宙を想定している。生命はそうした多種多様な宇宙の中を、無限に輪廻しているのだ。

 その中には戦争に明け暮れる修羅の世界もあれば、飢えにさいなまれる餓鬼の世界もある。安楽に暮らす天上界もあれば、ひたすら苦しみを味わう地獄もある。これは我々が暮らしている世界の中だけでなく、無限に存在する多様な宇宙のありようのことだ。仏教ではそれを大ざっぱに六道に分類するわけだが、実際には他にも無数の世界があるのだろう。(西方浄土に代表される別の仏国土も、そうした多元宇宙のひとつだと考えてもいい。)

 キリスト教はかなりスケールの大きな話をしている宗教だが、仏教もそれに負けずにスケールの大きな世界を扱う宗教だ。こうした人間の生死の尺度を離れたスケールの話というのは、荒唐無稽と言えば荒唐無稽ではあるが、それを考えることで目の前の現実を別の視点から見られる効能がある。

 もちろんキリスト教と仏教の共通点もある。両宗教で共通していることの第一は、「人間はアホである」「アホは死んでも治らない」という身もふたもない人間性の洞察をしていることだ。人間がアホなのは原罪のせいなのか、はたまた無明のせいなのかはわからない。しかし「人間はアホである」「人間はアホだから不幸になるのである」「アホは治らないのだから人間はずっと不幸なままである」という認識は変わらない。

 アホな人間は、どうすればいいのか? ゴータマ・ブッダは「修行して涅槃に至れ」「悟ってブッダになれ」と言うが、普通の人にそれは無理。しょうがないから仏教では、「今の人生では無理でも来世に望みを託せ」と言いだした。やがて「阿弥陀様が助けてくれるから、来世では必ずブッダになれる」という信仰も生まれる。キリスト教も「イエス・キリストを信じれば世の終わりに必ず神の国に入れる」と、とりあえずいつ来るかわからない未来に問題の根本的な解決を投げ出してしまった。

 でも未来に問題を投げ出すことで今はその問題に悩まずに済むのなら、それはそれで幸せなことなのだ。この点では、仏教もキリスト教も似たようなものだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

しらけ鳥は飛んでいく

 ニュースでは盛んに「事実上の選挙戦突入!」などと騒いでいるが、気持ちは白けるばかりだ。たぶん国民の多くは白けきっていると思う。

 頭の中では小松政夫の「しらけ鳥音頭」(作詞:小松政夫・スージー白鳥)が無限にリフレインしている。

しらけ鳥 飛んでいく
南の空へ
みじめ みじめ
しらけないで しらけないで
しらけたけれど
みじめ みじめ

 選挙というのは多少なりともお祭り気分のもので、それが任期満了による地方自治体の選挙であれ、全国区のニュースになる国政選挙であれ、多かれ少なかれ根拠のない浮かれた気分に包まれるものなのだ。

 しかし今回の選挙には、それがまったく感じられない。いったい何なんだろう。それとも僕の知らないところで、この選挙に浮かれた気分になっている人もいるんだろうか……。

 頭の中にこだまするしらけ鳥は、四方どこへ飛んでいってもしらけっぱなしだ。膨大な国費を使った茶番劇の幕が開き、数週間後には安倍首相がニコニコした顔で「国民の審判は下った」「自民党は信任を得た」「憲法改正だ」などと言い出すに違いない。

 安倍首相は「北朝鮮の脅威や少子化といった国難を、国民の信を得てご理解とお力をいただき、乗り越えていかなければならない」などと言っているが、日本が憲法を改正すれば北朝鮮の対米政策が変わるのか? 憲法を改正すれば少子高齢化が何とかなるのか? なるわけな〜いじゃ〜ん!

 政治家の言葉は空回りするばかり。まったくしらけるしかないのだ。しらけていてもしょうがないと思いつつ、しらけてしまうのは止められない。みじめ、みじめ〜♪

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記