外出しないと損した気になる

カキフライ定食
ASUS Z00AD ƒ/2 1/40 3.78 mm ISO 620

 今日も一日家の中で過ごして外に出なかった。外出しないと一日を無駄にしたような気になるが、これは「外出するのがよい」というある種のイデオロギー(主義)に毒されているからだろうか。外出しなくても、家の中で快適に過ごせるならそれでいいのかもしれないが。

 とりあえずやることだけやっておこうと思い、金曜日に観た『マトリックス レザレクションズ』の感想を映画瓦版に書いておいた。この映画については「すごく面白い!」という感想をネットで見ることがない。ラナ・ウォシャウスキーの思想……というのは大げさかもしれないが、LGBTQを巡るアレゴリーやメタファーとしての解釈がもっぱらで、過去の三部作にあったような、アクションや映像表現に関する話がほとんど見られない。

 海外のレビュー状況がどうなっているのかは知らないが、最近しばしば見かける「映画レビュー」の状況というのは、作者のプロフィールと照らし合わせた伝記的批評が主流になりすぎていないだろうか。これは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の時にも感じたことだ。映画に出てくるこのエピソードは、作者のこんな状況の比喩であるとか、作中のこの人物のモデルはこの人であるとか、そうした解読作業ばかりが先んじてしまっているような気がするのだ。

 僕は昔から、こうした批評を「映画の外の話」と呼んでいる。映画作品の中に含まれてる情報ではなく、映画の外にある作者のエピソードや製作裏話から作品を分析していくのだ。もちろんそうした批評が合ったっていい。それはそれで、映画批評のひととつの流儀だからだ。でもそればっかりになってしまうのも、ちょっとなぁ……と思う。もっと「映画の中の話」がしたいことだってある。

 『エヴァンゲリオン』も伝記的批評は多かったけど、『マトリックス レザレクションズ』なんて伝記的批評ばかりじゃないか。とっかかりとして、そうした切り口から語りやすい映画であるのは確かだろう。そうしたことに触れないことが、むしろ不自然に感じられる映画でもある。今度の作品自体が、旧三部作の批評になっているような面もあるからだ。

 じゃあそうした「映画の外の話」を全て除外したとき、『マトリックス レザレクションズ』は何も残らない映画なんだろうか? それはそれで、今回の映画に関わったスタッフやキャストに失礼な話だと思ったりする。今回の映画には新しい面白さもあるだろうし、語るべき新しい話もあると思うんだけど。

 まあこれは、自分の書いた映画評を棚に上げての話ではあるのだけれど。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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