裁判所に道徳を求めるな

 実の娘が中学生の頃から意に反する性交を何年も繰り返していた父親が、19歳になった娘に準強制性交等罪で訴えられて無罪になった事件。

 まったくむかっ腹の立つ事件で被害者が気の毒でならないし、この父親には行ったことに対して何らかの罰が加えられるべきだと思う。

 しかしこの無罪判決に対して、ネットには「そもそも近親相姦は人倫にもとる。それが裁判官にはわからなのか!」などと言っている人が少なからずいて、それはそれで暗い気持ちになってしまった。

 世の中には「人倫にもとる性行為」や「性的な逸脱」というものが山ほどある。例えば僕が子供の頃に学校で配布された保健体育の教科書では、同性愛や異性装が性的逸脱だとされていた。それは変態性欲であり、精神異常の一種であり、治療を要する重篤な心と体の病だった。

 LGBTが一定の市民権を得ている現在の目から見れば、これはまるで間違った話であり、ひどい差別だと思う。しかし当時は多くの人がそう思っていたわけだし、それに対して「それはおかしい」という声を上げる人は少なかったのだ。もちろん数の多さが正しさを保証するわけではないから、例え当時の多数意見や常識がどうであったにせよ、同性愛差別は間違いだ。それは今では当然のことだし、じつは当時もそうだったのだ。

 同性愛も近親相姦も同じだと言いたいわけではないし、同性愛と同じように近親相姦も今後は社会的に容認されるべきだと言いたいわけでもない。言いたいのは、ここで「人倫」を持ち出して人を裁こうとする人の多さに対する違和感だ。

 人倫、道徳、社会常識などを前提にして、法で規定されていない罰をこの事件の加害者に課そうとするのは間違いだ。事件や裁判の詳細は調べていないのでわからないが、今回の裁判に関しては検察側に落ち度があったようにも思うし、裁判所の判断が著しく被告人有利に働いていた可能性もある。しかし少なくとも裁判所や裁判官たるもの、「倫理」などというものを尺度にして人を裁かないのは当然であって、「裁判官は近親相姦が人倫に反していることがわからないのか!」と憤るのは間違っている。

 裁判で問われ、争われているのは、そこで行われていた行為が、果たして準強制性交等に該当するのか否かだ。裁判所はそれを認めなかった。近親相姦の有無を問うていたわけではないし、その道徳性を問うていたわけでもない。そこを勘違いしてしまうと、「人倫が!」「道徳が!」「社会道徳が!」「鬼畜の所業!」などと、抽象的な言葉ばかりが飛び交うだけになってしまう。

 僕はこの事件の被告(元被告?)を弁護する気は一切ないが、それでも法律で裁きを下すべき場に、「倫理」や「道徳」という判断基準を求めようとする人たちには反論しておきたい。

 今後この事件同様の行為を処罰するためには、法律の改正が必要だ。現在の法律条文で強制性交等罪の成立要件が「暴行又は脅迫を用いて」となっている部分を、「相手の同意なしに」に改めればよい。まあこれはこれで大変なことではあるのだが、議論の出発点としてはそこしかないように思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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