新元号の発表に思うこと

 改元そのものに興味はないし、「令和」という新元号にもあまり関心がない。しかし新元号の発表に浮き足立ち、発表と同時に大騒ぎしている日本人の様子には興味がある。

 たぶんみんな「共通の話題」が欲しかったんだと思う。老若男女を問わず、国民全体で分かち合える、ひとつの物語が欲しかったんだろう。

 流行歌も、ベストセラーも、人気テレビ番組も、国民全体が何となくそれを歌い、読み、見ているという時代は過ぎ去ってしまった。誰もが参加できる共通の話題を失った日本人は、きっとそれに飢えていたんだと思う。そこに投げ込まれたのが、改元という歴史的な事件だったのだ。

 改元自体は何十年かに一度は必ず行われる出来事だ。昔は天皇在位中にコロコロ元号を変えたりもしたが、大正以降は一世一元になって、天皇陛下の生存中は元号が変わらなくなった。しかし一世一元の元号が、何百年も変わらないということはあり得ない。たいていの人は、生きているうちに一度か二度は、改元を体験するのだ。

 夏の甲子園もレコード大賞も、毎年やっているから有難味がない。それでも多少は話題になる。4年に1度のオリンピックやワールドカップも、もはやあまり有難味はないのだが、それでも大いに盛り上がる。ならば数十年に1度の改元が、盛り上がらないはずがない。

 今回の改元に関する日本中の大騒ぎというのは、たぶんその程度のことなのだと思う。新天皇の誕生を寿(ことほ)ぐとか、日本のナショナリズムがどうとか、そういう理由付けも何かしらの説明にはなっていると思うのだが、それより何より、まず日本人が共通の話題を欲しいてたということの方が大きいに違いない。

 僕は今回の改元が、これまでの人生で2度目の改元になる。僕は自分の余生があと20年ぐらいだと思っているので、さらに次の改元が数十年後にあったとしても、その時に生きているかどうかはわからない。同じようなことを考えている人は、たぶん日本に大勢いるんじゃないだろうか。

 こうして改元は、多くの日本人の身体に刻み込まれる。「生まれてはじめての改元」とか、「生涯2度目の改元」とか、「たぶん自分の人生にとって最後の改元」という形で、改元は身体に刻まれ、元号は日本人の血肉になって行く。

 繰り返しになるが、僕は改元そのものに興味はないし、「令和」という新元号にもあまり関心がない。しかし今後何年も、あるいは何十年もかけて、元号は僕の身体の一部になっていくのだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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