「茶の間の正義」はいまだ健在

 「茶の間の正義」は山本夏彦のコラム集で、1967年に文藝春秋社から発売された。今からちょうど50年前の本だ。各コラムの初出は雑誌「室内」などだから、コラムが書かれた時期はさらに数年さかのぼるはずだ。

 半世紀も前に書かれた本だが、ここに書かれている内容は今もそのまま生きている。タイトルにある「茶の間の正義」というのは、マスコミが垂れ流す「一般社会に迎合した正義」のことだ。

 例えばマスコミに出演している司会者やコメンテーターは、1回の出演ごとに高額のギャラを受け取っている。昭和40年前後の庶民の月収が3〜6万円の時代に、年収で1千万円を下らない人たちだ。その人たちが、番組で紹介された20万円の着物に「とても手が出ない」と驚いてみせる。

 そんなはずはない。彼らはその気になれば、いつでもそれを手にできる人たちだ。彼らが番組中で着ている着物だって、同じぐらいの値はするに違いない。だが彼らは「とても手が出ない」とため息をつかねばならない。でないとテレビを見ている視聴者が嫉妬するからだ。

 これはインチキである。八百長である。だがテレビを見ている視聴者たちは、コメンテーターが20万円の着物を前に「とても手が出せない」と嘆く様子を見て共感を覚える。安心する。視聴者はだまされているのだ。だがそれは、視聴者たちが自らだまされることを欲しているのだとも言える。

 一般大衆は政治家の不正や芸能人の醜聞を糾弾するが、これもすべてインチキであり八百長なのだ。多くの人は自分がその立場にないから政治家や芸能人を非難するが、同じ立場になれば平然と不正を働くだろう。だから政治家や芸能人を糾弾するのは偽善である。山本夏彦はこうした偽善に満ちた正義の言論を「茶の間の正義」と呼んだ。

 では半世紀たった今はどうなのか? 社会は相変わらず「茶の間の正義」に満ちている。新聞はラジオに取って代わられ、ラジオはテレビに取って代わられ、テレビはネットに取って代わられた。批判の対象が政治家や芸能人だけでなく、マスコミそのものに向けられるようになったという変化もある。しかしそこで語られている言葉は、昔も今も変わらない。その根底には持たざる者の「嫉妬」がある。嫉妬はみっともない、見苦しいと思っているから、誰もがそれを「正義」だと偽っているだけのことだ。

 「茶の間の正義」の中で、山本夏彦はこう言っている。『私はこの記事を、五十年前にも読んだ。十年前にも読んだ。五年後にも、十年後にも読むであろう』。それから50年たって、やはり日本人は同じ事をやっている。「茶の間の正義」は死なない。それはこれから10年先、50年先も生き延びるだろう。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中