人間の文明とは非科学的なもの

 東京都議会の百条委員会に呼び出された石原元都知事が、

「風評の前に科学の真実が負けることは文明国として恥」

などと言ったらしい。

 石原慎太郎という人は右翼で保守だと思っていたのだが、こうした発言を見る限りでは「近代合理主義」の申し子であり、保守かリベラルかで言えばリベラルの人なんだと思う。

 彼は同じ場でこうも言っている。

「一方で科学があり、もう一方に人間の心がある。この2つの要素に相克がある限り、この問題は終わりません。人間も科学も全能であれば安心も追求できましょうが、いずれも全能じゃないので、そういうことを踏まえて折り合いを付けていかないといけない」」

 つまり石原慎太郎という人の価値観では、科学と人の心に折り合いを付けるにあたって科学が勝利するのが「文明国」のあるべき姿なのだ。

 これのどこが右翼なんだ? これのどこが保守なんだ? 彼が言っていることは、時代遅れの左翼リベラルと同じじゃないか!

 人間の文明というのは、その内部に「不合理なもの」を抱え込んでいるものだ。何でもかんでも「科学的な合理性」で片づくなら話は簡単だが、そうは問屋が卸さない。

 例えば日本はその中心に「天皇」という非科学的で不合理な制度を抱え込んでいる。他の国々がその不合理を嫌って君主制に見切りを付けている中で、日本だけは千何百年かの歴史(神話に基づけば2700年近い歴史)を持つ天皇の制度を持ち続けているのだ。

 これは文明国にあるまじき事だろうか? そうではないはずだ。何でもかんでも「科学的に」「合理的に」と考えるコチコチ頭の左翼は反天皇かもしれないが、ほとんどの国民は天皇という不合理な存在を国家・国民統合の象徴とする現在の天皇制を支持している。不合理で結構。非科学的でも構わない。それを含めての文明国ではないのか。

 これは他の国でも同じはずだ。日本の同盟国であるアメリカは、保守的なキリスト教が政治の面でも人々の生活の面でも大きく幅をきかせる国だ。そのため彼の国の振る舞いには、時として不合理なものも垣間見える。でもそれもまた文明のひとつの姿だろう。

 非科学的なもの、不合理なものを政治や人々の暮らしの中から排除し、合理性一辺倒で人間が幸せになれると考えるのだとしたら、それはかつての共産主義国家と同じだ。

 僕自身は自分を保守主義者だと考えているので、科学的な合理性と人間の心の間に相剋があったなら、人間の心に寄り添う形で物事を進めるべきだと考える。もちろん科学の面からも物事を多角的に見るのは大切だし、それによって人間の心が動かされるなら、ぜひそうあるべきだろう。

 でも人間の心を置き去りにして、「科学の敗北は文明国の恥だ!」などと言うのは、やはり保守とはまるで違う世界だと思うのだ。現在の日本では、左翼崩れの新自由主義が「保守」を名乗って大手を振っている。石原慎太郎も、結局はそういう人たちだったんだな。

 築地市場はいずれ豊洲に移転することになるだろう。だがそれには、市場関係者や消費者の「納得」が必要なのだ。それまでには、まだもう少し時間がかかると思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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