明治村の教育勅語

 犬山市にある博物館明治村でみつけた教育勅語の展示。

 これは教育勅語の原文ではなく、漢訳版になっている。なぜこのようなものがあるのか、展示品の由来はわからない。ただこうしたものが実際に存在するということは、漢訳版の教育勅語がかつて日本のどこかで使われていたということなのだろう。

(あるいはこれは、日本の旧植民地で中国人の教育向けに使用されていたのかもしれない。だがそれが明治村に展示されているということは、それをざわざわ苦労して日本まで持ち帰った人がいるということだ。)

 写真は教育勅語の冒頭部分だけだが、これを読める人がどれだけいるだろうか。漢文訓読体の教育勅語原文を読んだことがある人なら、その記憶をたどりながらなんとなく読めるかもしれない。しかし普通の人には、もはや読むことができないに違いない。

 じつは漢文訓読体の教育勅語原文にしても、もはや読んでその意味を理解できる人はほとんどいない。だからこそ、教育勅語の12の徳目だけを取り出して、「これが教育勅語の精神だ。これに異論があるなどどうかしている!」などと偉そうに講釈する人が後を絶たないのだ。

 そうした人たちにとって、教育勅語は法事の席で僧侶が唱える読経と何も変わらない。意味はよくわからないけれど、何となくありがたいことを言っているらしいという理解があるだけなのだ。であるなら、教育勅語は漢文訓読体で書かれているより、お経と同じように漢文の方が有難味が増すのかもしれない。

 もっともこれは、日本国憲法をありがたがる自称リベラルの方々にも似たようなことが言える。彼らは憲法前文をひどく有り難がり、第9条をことさら持ち上げるのだが、その内容をきちんと理解しているとは思えない。その理解度は、自称保守の人たちが教育勅語を有り難がるのと五十歩百歩ではないだろうか。

 僕は教育勅語も日本国憲法も、原文から現代日本語にリライトしてみたことがある。古い日本語を現代の日本語に置き換える和文和訳だ。その過程でずいぶん色々なことを考えたし、言葉の意味を調べてもみた。その結果が間違いなく正しいかどうかはわからないが、少なくともその理解は以前に比べて格段に深まったと思う。

 教育勅語をありがたがる人たちも、日本国憲法をありがたがる人たちも、同じことをしてみればいい。こうした文書を、普段自分が使っている日常の日本語に直して、それでもなお「ありがたい」「正しいことを言っている」と思えるかどうかを自分で試してみるのだ。

 僕は教育勅語をリライトした上で「これは現代社会では受け入れられない」と思ったし、日本国憲法も前文や9条は日本語として最低の悪文だと思っている。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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