道徳教育の基本は自ら徳目を実践すること

 何かと話題の森友学園・籠池泰典理事長が、取り囲んだ報道陣を前にして一席ぶったらしい。

教育勅語がどうして悪い。12の徳目の夫婦仲良く、そして友達も仲良く、そして勉強も頑張りなさい。何か事があれば、自分の身を捨ててでも人のためにがんばりなさい。そういう教育勅語の何が悪い。全く悪くない。

 教育勅語に書かれている「12の徳目」自体は別に悪くない。あれこれ理屈を付けてこの徳目自体を否定したり批判する人がいるなら、僕はその人をこそ批判したい。しかし籠池理事長はまるでダメだと思う。

 この人は子供に教育勅語を教えることで、その子供たちにどうなってほしいのだろうか? 12の徳目を暗誦できればそれでいいわけがない。徳目を実践し、身に着けることが大切なはずだ。

 ではこの籠池理事長は、自らそれを実践できているのだろうか? まったくできていないのだ。だからこそ、こんな羽目になっているとも言える。

 例えば教育勅語の中には、「恭倹(きょうけん)己(おの)れを持し」という文言がある。「恭倹」とは他人に対しては丁寧にうやうやしく接し、自分自身の行いは慎み深くすることだ。この理事長には、そうした態度が見えるだろうか?

 「博󠄁愛(はくあい)衆(しゅう)に及󠄁ぼし」という文言もある。しかし報道されているとおり、森友学園が経営する幼稚園で行われていたのは、あからさまな中韓蔑視だった。

 「国憲を重んじ国法に遵(したが)い」という文言を、籠池理事長はどう考えているのだろうか?

 教育勅語の徳目は、それを守ることで「天壤無窮󠄁の皇運󠄁を扶翼󠄂す」るとされているものだ。国民が道徳的に振る舞うことが、皇室を助けることになる。それは天皇主権国家である当時の日本にとっては、国民が道徳的に振る舞うことで日本自体が強く立派な国になるという意味でもあった。それこそが「教育勅語の精神」なのだ。

 しかし籠池理事長はどうなのか? この人は教育勅語に示されている徳目を、結局は守っていないことが明らかだろう。教育勅語は大切だと言い、子供にそれを教え込んでいた張本人が、教育勅語の徳目を少しも実践できていなかったのだ。

 これは「教育勅語の精神」からすれば、いかななることになるのか? 道徳の実践が「天壤無窮󠄁の皇運󠄁を扶翼󠄂す」ることになるのだとすれば、道徳を守らないことは「皇運󠄁の毀損」に他ならないだろう。平たい言葉に言い直すなら、この人は天皇陛下の顔に泥を塗ったのだ。

 同じことは、国会の内外で「教育勅語は大事だ」と言っている他の政治家たちにも言えることだ。

 教育勅語が大事だと思うなら、まずその徳目を自らが実践すればいい。それによって優れた徳が明らかになれば、人々は「あの人はなぜあんなに立派な人格者になれたのだろうか。自分もそれにあやかりたいものだ」と思い、まねするようにようになるのではないだろうか。少なくともそれが、道徳教育の基本だと思う。

 道徳は上から下に押し付けるものではない。上の者が道徳的に振る舞うことで、下がそれに感化されて倣うものだ。教育勅語の徳目を大切にする人は、何も言わずとも教育勅語の徳目を自ら実践しているはずなのだ。

 しかしこれが、戦後日本における教育勅語のパラドックスでもある。教育勅語は憲法を重んじて法律に従うことを求めているため、それに従えば「教育勅語の復活を!」などと言えなくなってしまうのだ。

 ということは、これはその人が教育勅語の徳目を守っているかどうかを示す、わかりやすいリトマス試験紙でもある。「教育勅語を復活すべきだ」と言う政治家は、間違いなく教育勅語の徳目を守っていない。自分が守る気がない徳目を、子供たちにだけは押し付けたいという身勝手な人間たちなのだ。

 (引用した教育勅語は、新字新かなに改めました。)

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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