教育勅語の精神とは何なのか?

 稲田防衛大臣が参議院予算委員会で、次のように述べたことが物議を醸している。

「勅語の精神は親孝行、友達を大切にする、夫婦仲良くする、高い倫理観で世界中から尊敬される道義国家を目指すことだ」

 まったく呆れるしかない。稲田大臣は教育勅語を読んだことがあるのだろうか? 読んだとしても、中身を理解しているのだろうか?

 数日前の記事にも書いたのだが、教育勅語に書かれている徳目の多くは儒教に由来するもので、それ以外は近代的な国民国家としてのスローガンみたいなものだ。以下は勅語の徳目部分を現代語にリライトしたものだ。

あなたがた国民は、父母によく仕え、兄弟は助け合い、夫婦は力を合わせ、友人は互いを信頼し、自らは慎み深く控え目な態度を守り、すべての人を慈しみ、よく学び、仕事にはげみ、それによって知識と能力を開花させ、人格を向上させ、進んで自分以外の人のことを考え、社会のために働き、いつも憲法を守り、国の法律に従い、ひとたび危機が迫ったときは正しい勇気を持って人々のために活動することで、長い歴史と伝統を持つ皇室を助けてください。

 原文で「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とある部分を「兵隊になること」と解釈する人が多いのだが、僕はここを「ひとたび危機が迫ったときは正しい勇気を持って人々のために活動すること」とリライトした。大規模災害が起きた時にボランティアに駆けつける人などは、まさに「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の精神を体現している人だと思う。これを否定する必要はないだろう。

 徳目リストそのものに、特に不穏なものがあると僕は考えていない。ただしこれらの道徳がすべて「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」するためだと説明されているのは、天皇主権国家である明治時代なればこそだなぁ……と思ったりするのだが、まあその程度のことだ。

 しかし「その程度のこと」が実は大事であったりする。

 稲田大臣が言う「親孝行、友達を大切にする、夫婦仲良くする」などの徳目は、教育勅語のオリジナルではなく、中国由来の儒教道徳だ。もちろん儒教道徳だから悪いわけではない。

 教育勅語はこれについて、「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」と述べている。リライト版では噛み砕いて「これらは遠い昔から今まで少しも変わることなく、世界のどの国や地域でも共通する正しい教えです」としたが、要するに「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」のたぐいの徳目は古今東西万国共通の徳目であって、日本独自の特殊なものではないと教育勅語自身が述べているのだ。

 「教育勅語の精神」とは「世界のどこにでもある普遍的な価値観や道徳」ではあるまい。それは教育勅語にしかない、教育勅語オリジナルの価値観であるはずだ。ならばそれは「親孝行、友達を大切にする、夫婦仲良くする」といった徳目ではない。それ以外の部分にある。

 ではそれは何か? それはやはり徳目リストの最後にちょろりと出てくる「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という部分に違いない。

 国民の善意や善行が、すべて皇室を助けることになる、天皇陛下のためになるという考えは、おそらく儒教の中にはない。これは明治時代に輸入されたキリスト教の考えではないのか。キリスト教には「信徒の信仰から生まれた善行は、すべて神の栄光を顕すためにある」という考えがある。教育勅語はその考えを借りて、神を天皇にすげ替えたのだ。

 明治時代に作り出された国家神道は、欧米のキリスト教を下敷きにした疑似宗教だった。その一端が、教育勅語の中にもあるのではないだろうか。天皇が国民に対して道徳のリストを提示するという形式そのものが、神がシナイ山でモーセに授けた十戒と同じではないか。

 「教育勅語の精神」とは、単なる道徳や徳目ではないのだ。それは「国家神道」による、「天皇を中心にした国家運営」に他ならない。こんなものが、今の時代に受け入れられるはずがないではないか。

 稲田大臣は「教育勅語の精神」について、「高い倫理観で世界中から尊敬される道義国家を目指すこと」だとも言う。だが教育勅語のどこを見ても、こんなことは直接は書かれていないし、どこをどう読んでも「日本が道徳面で世界中から尊敬される国になろう」などと解釈できそうな部分はないと思うのだが……。

 まあ稲田大臣がそう考えるなら、それは個人の思いとして尊重するべきかもしれない。だが教育勅語の徳目リストのもとになっている儒教道徳では、「上に立つものが誰よりも道徳的に振る舞うべきである」というのが大原則だ。天皇ご一家はそれをきちんと守っていらっしゃる。守れていないのは、日本の政治家たちではないのか。

 稲田大臣が教育勅語の教えを大事だと考えるなら、率先してその教えを自分が守ればいいのだ。「教育勅語の精神は大事だ」などと言う必要はない。勅語に書かれている道徳をきちんと守り徳を高めることで、大臣自らが「高い倫理観で世界中から尊敬される道義的な人格」を身に着ければいい。そうすれば、周囲の人もそれをマネするに違いない。

 「教育勅語は大事だ」という人に限って、たいてい教育勅語に書かれている徳目を守っていないように見えるのは気のせいだろうか?

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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