道徳の根拠はどこにあるのか

老子(岩波文庫)

 一部の保守派が「道徳教育」の教材として「教育勅語」を持ち上げるのは、いくつかの理由があると思う。その中で忘れてならないのは、これが普遍的な徳目のリストとして優れていることだ。

 キリスト教の基本的な徳目リストとしてはモーセの十戒があり、かつては欧米の学校でも道徳教材として広く使われていたことがある。教育勅語はその日本版と言えるだろう。十戒はモーセがシナイ山で神から受け取った石版に由来するが、教育勅語は皇室に先祖代々伝わる教えだとされている。

 Wikipediaから、モーセの十戒を引用してみよう。カトリックとプロテスタントで若干異なるのだが、以下はプロテスタント版だ。

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
  4. 安息日を守ること
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
  7. 姦淫をしてはいけないこと
  8. 盗んではいけないこと
  9. 偽証してはいけないこと
  10. 隣人の家をむさぼってはいけないこと

 1〜4までが人間と神の関係についての戒めで、5以降が人間同士の社会規範になっている。

 これに対して、教育勅語が定める徳目は以下の12項目だ。(現代語部分の解釈には疑問がないわけではないが、とりあえずWikipediaからそのままコピペしておく。)

  1. 父母ニ孝ニ (親に孝養を尽くしましょう)
  2. 兄弟ニ友ニ (兄弟・姉妹は仲良くしましょう)
  3. 夫婦相和シ (夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう)
  4. 朋友相信シ (友だちはお互いに信じ合いましょう)
  5. 恭倹己レヲ持シ (自分の言動を慎みましょう)
  6. 博愛衆ニ及ホシ (広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)
  7. 学ヲ修メ業ヲ習ヒ (勉学に励み職業を身につけましょう)
  8. 以テ智能ヲ啓発シ (知識を養い才能を伸ばしましょう)
  9. 徳器ヲ成就シ (人格の向上に努めましょう)
  10. 進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ (広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
  11. 常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ (法令を守り国の秩序に遵いましょう)
  12. 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ (国に危機が迫ったなら国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)

 ここには「殺すな」や「盗むな」のような禁止事項はない。何かをしてはいけないという禁止事項ではなく、このようにしましょうという推奨項目のリストになっている。

 日本版の十戒である教育勅語は、儒教的な徳目のリストでもあるのだ。例えば三綱五常(君臣・父子・夫婦の間の道徳と、仁・義・礼・智・信の五常)や、大学の三綱領八条目(明明徳・新民・止至善と、致知・格物・正心・誠意・修身・斉家・治国・平天下)といったものだろう。

 教育勅語にはそれだけではなく、立憲主義や法治主義、国民の国防義務など、日本が近代的な国民国家として歩んで行くにあたり、国民に求められる徳目を加えているのが特徴だ。江戸時代以前からある孔孟の道徳と、近代的な価値観が同居している。時代性は感じるものの、これはこれでよくできたリストだと思う。

 教育勅語には良いことがたくさん書かれている。問題はそれを国民に知らしめ教化する根拠として、これを「我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓」、つまり「天皇家が先祖代々守り続けてきた教え」としていることなのだ。言うまでもなく、これはフィクションだ。

 教育勅語は当時の内閣法制局長官だった井上毅が原案を作り、儒学者の元田永孚と相談して文案を練り上げたものだ。それを「天皇家に伝わる教え」とすることで、この文書に権威づけをしているだけなのだ。

 こうしたことは、じつはよく行われている。儒教の徳目もほとんどは「聖人である孔子の教え」ということになっているし、孔子自身は「自分の教えは古代の聖人たちの教えだ」と言っている。道徳には、こうした権威づけが必要だし、「昔からこういうものだ」「これが普通のことで自然なのだ」という理屈が付いて回る。

 戦後の日本人は、こうした「権威」を失ってしまった。「古代の聖人の教え」や「天皇家に代々伝わってきた教え」、あるいは「モーセがシナイ山で神から授かった戒め」という神話や伝説やフィクションなしに、日本人は道徳について語らなければならなくなってしまった。

 保守派が教育勅語の復活を目論もうとするのは、そうした道徳教育の困難さゆえなのではないだろうか。とりあえず教育勅語にさえ戻ってしまえば、そこで道徳を「天皇家の教えだ」で押し通せると思っているのかもしれない。(実際には押し通せっこないのに……。)

 僕自身は道徳教育は徳目教育で構わないと思っているし、三綱五常や三綱領八条目で「人間が生きる道」としての道徳の規範はこと足りるだろうと思っている。教育勅語にある「法律を守れ」とか「国防の義務を果たせ」というのは公民教育の分野で扱うべきものであって、それは道徳とはまたちょっと違うような気がしている。公民教育としては、例えば他にも「納税の義務を果たせ」とか「投票に行け」とか、他にも何項目か取り上げた方がいいようなことはあるだろう。だがそれは道徳とは別だ。

 しかし日本人が今さら儒教道徳には戻れるとは思えない。日本人の道徳観のベースは今でも儒教だと思うが、戦後70年たってその基礎はまったくお粗末な状態になってしまっている。安倍首相以下、日本の政治家たちは誰しも戦後民主主義教育で育ち、もはや近代日本が教育勅語を通して国民に求めていた徳目を身に着けてはいないのだ。

 「道徳」という言葉の出典は「易経」や「老子(道徳経)」だろう。この言葉がそもそも漢語であることからもわかるように、日本の道徳はほとんどが漢籍にルーツを持っている。しかし日本人のどれだけが、今どき儒教経典を読むだろうか。「云々」を「でんでん」と読んだ我らの首相が、漢籍に親しんでいるとはとても思えない。日本の道徳的な伝統は、すでに断ち切られているのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

道徳の根拠はどこにあるのか」への1件のコメント

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