スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳

スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳

 岩波文庫で中村元が訳した「ブッダのことば―スッタニパータ」がド定番で、僕も以前に読んでいる仏教の初期経典。

 Amazonのレビューではこの訳の評価も高いので読んでみたが、わかりやすい部分もあれば、そうでない部分もあるなど一長一短のような気がした。

 古典の翻訳や解釈というのは、それこそ千差万別なのだ。だからこそ古い訳に特別な不自由がなくても、新しい訳が次々に出てくる意味もある。聖書しかり、仏典しかり、文学作品しかりだ。

 ただしこうした古典の訳は、先行する訳のイメージが強烈すぎて、後続の訳はそれと違うだけで違和感を感じさせてしまう面がある。どちらが正しいか間違っているかではなく、「違う」ということ自体がマイナス評価に結びついてしまうのだ。

 例えば中村元訳に、以下のような有名な言葉がある。

朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。(37)

 これが本書では次のようになる。

好意をもってくれている親友にどうにかして役に立ちたいと親しみの情を懐いていても、もしも友情関係を一定不変なものとして固執する心が生ずるならば、せっかくの親切もそうでなくなってしまう。肝胆相照らす友人関係にもこういう危惧すべきことがあることを深く熟慮して、ひとり離れて修行し歩くがよい、あたかも一角の犀そっくりになって。(37)

 パーリ語の原点がどうなっているのかは知らない。どちらがよりわかりやすいかどうかは、人にもよるだろう。しかし僕は両者を比較すると、中村元訳の方が好みなのだ。

 「犀の角のようにただ独り歩め」と「ひとり離れて修行し歩くがよい、あたかも一角の犀そっくりになって」とでは、言葉の切れ味が違う。一連の言葉は詩の形になっているのだが、詩は短い言葉でずかずかと踏み込んでくるような単刀直入さが必要なのだ。本書の訳は、中村元訳に比べると回りくどすぎるような気がする。

 一方でこの回りくどさが、いみじみとした言葉の味わいとなっている部分もある。例えば以下のような部分だ。

この世の人々の生涯は、これといって一定のさまがあるわけではなく、人知では計りがたいものである。労苦に満ち、短く、苦しみとともにある。(574)
生まれた以上は、死なずに済む手だてなどあるわけがなく、老いに至れば死が迫る。これが生きとし生けるものたちのならいである。(575)
果実は、熟すると、今朝落ちるか、明日落ちるかと、常におびえねばならない。人々も同様に、生をうければ、常に死におびえねばならない。(576)

 日常的な言葉で語られる法話のような、温もりのあるやわらかな口調だ。しかし同じ言葉は、中村元訳ではやはり詩として訳されている。

この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。(574)
生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。(575)
熟した果実は早く落ちる。それと同じで、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れががある。(576)

 最終的には好みの問題なのだろうが、全部を通して「こちらが最高!」という単純なものではないのが面白いところだ。

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)
岩波書店
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投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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