『海賊とよばれた男』雑感

海賊とよばれた男

 俳人の中村草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだのは、昭和6年(1931年)のことだった。遠くなった明治の終わりは、その19年前、1912年のことだ。

 間もなく平成28年が終わろうとしている。今年は天皇陛下の生前退位問題が大きな話題になったわけだが、これは「間もなく平成の御代が終わり、新しい時代がやって来る」ということを意味する。昭和が終わったのは1989年のこと。中村草田男なら、もう何年も前に「昭和は遠くなりにけり」と詠んだことだろう。

 映画『海賊とよばれた男』は、その「遠い昭和」をノスタルジックに描いた作品だ。山崎貴監督はデビュー作こそSFアドベンチャーの『ジュブナイル』(2000)だったが、3作目の『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)がバカ当たりしてしまったのが運の尽き、『三丁目』の続編2本(2007、2012)、『永遠の0』(2013)、そして今回の『海賊とよばれた男』など、昭和を舞台にした映画の専門家みたいになってしまった。

 山崎監督と過去の作品には、それでも「昭和の庶民生活」や「昭和の歴史」をなるべく現代に引き寄せ、接点を見つけようとする部分があった。しかし今回の『海賊とよばれた男』は、物語が昭和の中だけで完結している。という点でこれまでにない作品になっている。

 この映画、いったい誰が観て喜ぶんだろうか?

 山崎監督の『永遠の0』は、多様な証言や批判の声を通じて、ゼロ戦パイロットだったひとりの男の人物像を浮かび上がらせていく物語だった。矛盾する部分もある多くの証言者たちに、観客は共感したり反発したりしながら、映画の世界に取り込まれていくわけだ。

 でも『海賊とよばれた男』は主人公の一人称で描かれている物語なので、観客をからめ取っていくための多様な仕掛けが存在しない。映画は『永遠の0』と同じく「現在進行形の物語」と「回想シーン」を交互に描いて進行していくが、映画の中の「現在」は平成の今現在ではなく、終戦を迎えた昭和20年から、主人公が亡くなる昭和56年までの間にある。

 『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズは、映画の登場人物たちが今もまだ平成日本のどこかに生きているであろうという地続きの過去だった。『永遠の0』は平成の世に生きる現代の若者たちが、戦死した祖父の足跡をたどる物語だった。どちらも「今」とつながっている。

 『海賊とよばれた男』の奇妙さは、そうした「今」との接点を拒絶していることだ。物語は大正時代から日本の戦後復興期あたりを行きつ戻りつするわけだが、平成に向けての接点はない。主人公の周囲にいた人たちも、主人公が亡くなったときには既に全員が亡くなっている。主人公と子供たちのエピソードはものの見事に省略され、死を前にした主人公は自分の若き日を夢想して目を閉じる。

 この映画には、平成28年の「今この時」に成立しなければならない必然性がない。主人公の波瀾万丈の人生はそれなりに面白いのだが、「だから何なの?」「この映画を観てどうしてほしいの?」という思いがぬぐえないのだけれど……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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