日本人とユダヤ人

日本人とユダヤ人

 昭和45年に発行された山本書店版の「ユダヤ人と日本人」の奥付によれば、著者のイザヤ・ベンダサンは次のような経歴の持ち主だという。

Isaiah BenDasan
大正7年 神戸に生まる
昭和16年 渡米,移住
昭和20年 来日
昭和22年 離日,イスラエルへ行く,テル・アヴィヴに在住
昭和23年 イスラエル共和国誕生(5月14日)
昭和25年 来日
昭和30年 離日,渡米,以後,商用その他でたびたび来日

 イザヤ・ベンダサンの正体が山本書店の店主である山本七平本人であることは、現在既に定説となっている。1970年に山本書店から出された「日本人とユダヤ人」は、山本七平にとって自費出版のような本だったのだ。ところがこれが第2回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、大ベストセラーになってしまう。角川文庫版は昭和46年(1971年)初版だから、この本は山本書店版より角川文庫版で読んだ人の方が圧倒的に多いのではないだろうか。(ちなみに僕が今回読んだのは平成15年6月10日発行の94刷だ。)

 これは山本七平の本全般に言えることかもしれないが、「日本人とユダヤ人」は読み解くのに少し苦労する本だと思う。特に難しい言葉が使われているわけではない。「日暮硯」など古い文書の原文を長々と引用する部分などはあるが、全体としてはわかりやすい日本語で書かれている。紹介されているエピソードも印象的なものが多く、ただ読むだけならどんどん読めてしまうのだ。だが、そうしたものを通して著者が何を言いたいのかがわからなくなる。著者はこの本で、何を主張しているのだろうか?

 そもそも成り立ちからしてヘンな本なのだ。日本人である著者がユダヤ人と称し、日本人の思想と対比させながらユダヤ人の思想について語っていく。だがここに登場する「ユダヤ人」は旧約聖書の民であり、キリスト教徒と対比される形でのユダヤ人でしかない。1〜2世紀の祖国喪失以降、1,800年以上に渡って続いてきた民族の歴史はここで無視されている。これはクリスチャンである山本七平が実際のユダヤ人からではなく、旧約聖書や新約聖書を通じてユダヤ人を理解していたことから生じるものだろう。

 じつは日本人が「キリスト教徒」について書くときも、同じような「歴史と現実の無視」を行うことがある。キリスト教については聖書を読めばわかるはずだ。聖書にこう書いてある。キリスト教徒は聖書の教えを守っているはずだから、キリスト教徒はこう考えているに違いない……。世間にはそうした「キリスト教」や「キリスト教徒」に対する偏見が満ち満ちているし、山本七平もそうした偏見にさらされてきたはずだ。しかしそこで山本七平は、ユダヤ人に対して自分でも同じことをやっている。

 この本が「ユダヤ人論」だとしたら、著者のやっていることはトンチンカンもいいところだ。それはヨーロッパの大学で日本の古典文学をドイツ語やフランス語で学んだロシア人が、日本人の友人がひとりもおらず、日本語もろくにしゃべれず、来日経験も皆無なまま、日本人と称して「現代日本人論」を書くような無茶な話なのだ。でもこの本の実態は「日本人論」だ。ユダヤ人はそこに「外部の視点」として持ち出されているわけだが、これは着眼点としてはなかなか優れていたと思う。

 例えばこれがアメリカ人、ドイツ人、イギリス人など、日本人がよく知る他の国であれば、日本人はそこにそれぞれの国民性や民族性、歴史性などを見出してしまうだろう。だがユダヤ人のことを、日本人は何も知らない。それは日本人にとって無色透明な存在だった。無色透明な外国人であればこそ、そこで論じられる「日本人論」の中に、日本の読者は「著者は◯◯人だからこう考えるのだ。なぜなら◯◯人はこういう性格だから」といった歪みを生じさせることがなかったのだ。

 この本の大きなテーマになっているのは「日本教」だ。「日本教」とは何であるのか、その説明は難しい。聖書の中でイエスが「神の国」をたとえ話やエピソードを通じて語るように、著者も「日本教」をたとえ話やエピソードを通して間接的に描き出していく。例えば次のような具合だ。

  • 天皇は「日本教」の大祭司である。
  • 「理外の理」という共通の思考の基盤がある。
  • 「法外の法」が重んじられ、決議が100%人を拘束することはない。
  • 「言外の言」にこそ真実がある。真理は言外にあり、もっとも大切なことは行間に込められている。
  • 基本となるのは「人間」や「人間性」だが、それは実際の人間のことを意味していない。
  • 「日本教」に人間学はあっても神学はない。
  • 日本の新聞も「法外の法」に従っている。
  • 日本人とは「日本教徒」であって、日本人を「日本教」から改宗させることは不可能。
  • 日本人クリスチャンは「日本教徒キリスト派」である。
  • 西郷隆盛は「日本教」の聖者であり殉教者。
  • 夏目漱石の小説「草枕」は「日本教」の創世記である。そこには「人の世を作ったのは人だ」と書かれている。
  • 日本教徒キリスト派は聖書を用いて禅問答をする。
  • 日本教徒キリスト派は「ことば(ロゴス)」より、「ことば」の行間を読む。
  • 日本人は宗教的に潔癖でないのではなく、「日本教」に従順なのだ。
  • 日本人(日本教徒)にとって憲法とは、「日本教」の宗教的律法である。
  • 日本教徒理解には「氷川清話」を読むとよい。西郷隆盛と勝海舟は同じ「日本教徒」として互いに信頼し合っていた。
  • 日本教徒が読めば、聖書も「日本教」の経典になってしまう。

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 この本は「日本教」以外にもさまざまな事柄を取り上げているのだが、もっとも丁寧に手厚く語られているのは「日本教」についてであり、これがこの本の中の中心テーマ、少なくともそのひとつであることは間違いないだろう。

 もともと著者の問題意識は、「日本にはなぜキリスト教が定着しないのか」という点にあったようだ。それは結局、キリスト教の輸入を阻む強固な何かがあるからだ。日本にもキリスト教徒がいないわけではないが、そうした人たち(山本七平を含む)は海外のキリスト教信徒と何かが違う。日本で語られているキリスト教は、本来のキリスト教を離れて別のものに変質してしまった。これはキリスト教に限らず、仏教にしろ儒教にしろ、外来の思想は何らかの形で日本流にアレンジされない限り、日本人には受け付けられない。ではそのアレンジの基準はなんだろうか。日本人の思考を、日本人たらしめているものは何だろうか?

 それを著者は「日本教」と名付けた。ただしこれは方程式の中の「X」のようなもので、その中に何が入っているかはそれだけではわからない。「日本人とユダヤ人」の中でも、「日本教」の正体についてはまだ未解決のものになっている。山本七平(イザヤ・ベンダサン)は、その後も「日本教」や「日本人の精神性」にまつわる書籍を何冊も出している。いずれ機会があれば、それらにも目を通してみたいと思う。

 生前から山本七平は毀誉褒貶の激しい作家だったが、「日本人とユダヤ人」1冊を読むだけでもその理由はわかるような気がする。だが彼は今後も読まれ続けるべき作家だ。「日本人とは何者なのか?」という問題について考えるとき、山本七平は今でもさまざまな示唆を与えてくれる。

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