武士道

武士道

 キリスト者の新渡戸稲造(1862ー1933)が英語で出版した原著を、キリスト者である矢内原忠雄が翻訳した「武士道」。原著の出版の1899年(明治32年)だから、今から100年以上前のこと。日本語では明治41年に桜井鴎村による訳本が出て、これは新渡戸稲造本人によるお墨付きだったらしい。ただし漢文調の本文は読みにくいため、昭和13年に矢内原による本訳が出た。

 この矢内原訳も今の感覚からするとだいぶ日本語が古めかしいが、岩波文庫という定番の叢書に収録されていることから今でも読者は多いようだ。だがこれは、そろそろ新訳に差し替えた方がいい時期になっていると思う。岩波文庫は戦後に出された翻訳でも、おそらく編集部では、その準備を進めているのではないだろうか。

 「武士道」執筆のきっかけについては、本書の冒頭に書かれている。ベルギーの法律家から「日本の学校では宗教教育を行っていないというが、宗教なしにどうやって道徳教育を行うのですか?」と問われ、著者の新渡戸は返答に窮してしまう。だがこの質問を考え続けるうち、著者は「日本の道徳の根幹には武士道がある!」という結論に至るのだ。

 武士道に正典はない。著者曰く、『精々、口伝により、もしくは数人の有名なる武士もしくは学者の筆によって伝えられたる僅かの格言があるに過ぎない』のだ。しかし著者はおそらく自らが受けた武士の子弟としての教育をもとに「日本人の徳目」を再構成して体系化し、そこに「武士道」という名前を付けた。武士道は新渡戸稲造によって理想化された、日本人の道徳規範だ。それは武家社会の中ではある程度の規範となっていたかもしれないが、日本人の9割が農民だった時代において、それを「日本人すべてに共有されている道徳」としてしまうのは無理がある。

 江戸から明治にかけて大部分の日本人に共有されていた道徳の規範は、仏教や神道に根ざすものだったと思う。しかし著者はそれらにはほんのわずか振れるだけで、あとはほとんどを儒教的な(あるいは武家の公式学問だった朱子学的なと言うべきか)徳目を引用して日本人の道徳を説明しようとする。

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 著者曰く『孔子の教訓は武士道の最も豊富なる淵源であった』、『孔孟の書は青少年の主要なる教科書であり、また大人の間における議論の最高権威であった』。以下、著者は「義」「勇」「仁」「礼」「誠」、さらに「名誉」「忠義」「克己」などの徳目を紹介し、それを欧米のそれと引き合わせながら、日本人の重んじる徳目が決して特殊なものではなく、欧米人にとっても馴染みのものであることを証明しようとする。

 これは日本人の道徳が欧米の道徳と何ら変わることのない普遍的なものであることを証明しようとするものであり、おそらく当時の欧米人が日本に投影していた東洋神秘論(オリエンタリズム)から日本人を解放しようとするものだったのだろう。

 だが著者は本書の中で、輝かしい武士道の伝統は日本の封建制度崩壊と共に滅びたと述べている。桜の花がその盛りに一気に花びらを散らせるがごとく、日本の武士道もその盛りに花を散らせてしまった。だがキリスト者である著者は、武士道の精神が日本においてキリスト教に接ぎ木され、新たな命を得ることを期待していたようだ。本書がクエイカー詩人の言葉で締めくくられているのも、そんな著者の気持ちの表れだろう。

 武士道は滅びた。だが新渡戸稲造が期待に反して、日本でキリスト教が広まり、武士道の精神を引き継いでいくこともなかった。明治政府は新渡戸が武士道の基礎だと考えた儒教道徳(孔孟の教え)を庶民にも広めるべく、教育勅語を発布し、学校で修身教育を行ったが、それもまた戦後になって途絶えてしまった。

 「日本人の道徳の規範は何ですか?」と問われたとき、現代の日本人は何と答えるのだろうか? 新渡戸の「武士道」を読めば、「日本人には武士道がある」などとは口が裂けても言えないはずだ。武士道の終焉は、著者の新渡戸自身が認めていることなのだから。では日本に何があるのだろう?

 最近になって学校で「道徳」を正規教科にしようとする動きがある。道徳なき社会を望むものなど、この世にいないだろう。それが本当に必要であれば、家庭でも学校でも子供に道徳を教えるべきだ。それに反論する人も、まずいないと思う。

 だがそこで教えるべき道徳の「規範」は何なのだろうか? 武士道はもはや日本にない。孔孟の教えから国家や国民を説く理論家も、日本からは滅び去っている。仏教、神道、キリスト教は論外だ。といって戦前の修身教育に戻れるはずもない。日本人は道徳の支柱を、完全に失ってしまったのではないだろうか。そんな暗澹たる気分にさせられる読後感だった。

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