戸籍とアイデンティティ

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 性同一性障害の経済産業省職員が、トイレの使用を制限されるなどの差別を受けたとして国に損害賠償などを求めた裁判が行われている。この職員は性適合手術を受けておらず、手術を条件としている戸籍の性別変更も行っていない。そのため「男性が女子トイレを使うのはセクハラになる」のだそうだ。

 「本当は男性なんだから、男性としての扱いを受けて当然だ」と言う人もいるかもしれないが、この職員は更衣室については女子更衣室の使用が許可されているのだという。更衣室を女性と共用するのはセクハラではないが、女子トイレを使うのはセクハラになるという理屈がよくわからないのだけれど……。ナンナンデスカコレハ?

 この場合「本当は男性」の「本当」とはどういう意味なんだろうか? 生物学的に男性だったこと? だったら性適合手術を受けたって、生物学的には「男性器を欠いた男性」でしかない。この場合の「本当」を決めているのは、戸籍なのだ。戸籍が男性なら、その人は男性。戸籍が女性なら、その人は女性だということになる。

 しかし僕はそもそも「戸籍が性別を規定する」という定義自体に、ひどい違和感を感じる。今回の問題は、たかだかトイレの使用の話です。トイレ程度のことで、戸籍を持ち出して来ること自体がそもそも差別なんじゃないだろうか。少なくとも僕は、トイレ利用に際して「戸籍の性別」を問われたことなどない。

 この件に関して言えば、この職員のトイレ使用に関して他の職員がどう感じているかが問題なんだと思うけど……。「更衣室は構わないけど、トイレはちょっとね」という女性職員が少なからずいたんだろうか? でも性適合手術を受けようが、戸籍の性別を変更しようが、この職員の外見は何ひとつ変わらないのです。性適合手術を受けたかどうかや、戸籍の変更が済んだかどうかなどは、本人のきわめてプライベートな問題であるはず。それをいちいち周囲に断らないと、トイレひとつ使わせてもらえないのでしょうかね?

 これは先日の「夫婦別姓問題」でも感じたことなのだが、日本人の中には「戸籍の記載情報がその個人のアイデンティティをすべて規定する」と考えている人が多いのではないだろうか。「氏名」や「性別」という、人間にとってもっともベーシックな情報に関しても、その本人が「こうしたい」と願うことや、その本人が生活実態としてどう暮らしているかより、「戸籍の記述」を優先してしまう。戸籍絶対主義、戸籍原理主義だ。

 僕自身は「戸籍なんてどうでもいいじゃん!」とお気楽に考えているのだが、そう言えてしまうのは、僕がたまたまお気楽に考えられる立場と境遇にいるからでしかない。戸籍は国民の登録管理という意味では大事なのかもしれないけれど、普通の人の生活にとってはかなり縁遠い物だ。普通の人が日常生活の中で「戸籍が必要だ」と考える場面は、年に1度あるかないかじゃないか? 少なくとも僕は、あまり必要を感じたことがない。僕がたまたまそうなのかもしれないけど……。どうなんでしょうね?

 戸籍と個人情報を紐付けておく必要はあるだろうけれど、その紐付けの仕組みさえしっかりできているなら、人が戸籍の情報にがんじがらめに縛られる必要はないと思う。本籍地と同程度の、便宜的な物でいいのではないだろうか。本籍地は現住所と無関係に存在する。現住所を管理するのは、居住自治体の住民票だ。戸籍と住民票は紐付けられているから、それをたぐれば戸籍情報にアクセスすることができる。

 名前にしろ性別にしろ、まったく何も管理せず自由にしてしまうのは問題だろう。でも国民登録情報としての戸籍と生活実態を示す住民票が分かれているように、戸籍情報と別の「氏名」や「性別」などを登録する仕組みがあってもいいような気がするけどね。

 その場合の「氏名」は通称ではなく、役所に登録されている公式の名前であり本名です。これで夫婦別姓は可能になるし、性同一性障害の性別変更も戸籍を触らずに実現できる。何なら親につけられてしまったキラキラネームを、自分の意志で変更することだって簡単になるでしょう。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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