原節子の死について

原節子

 小津映画のヒロインとして知られる原節子が、今年の9月5日に亡くなっていたという。原節子は「伝説の女優」だ。最後の映画出演は1962年(昭和37年)の『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(稲垣浩監督)。僕は1966年(昭和41年)生まれだから、僕が生まれた時点で既に原節子は伝説だった。

 僕が原節子の出演作をきちんと観るようになったのは学生時代か大人になってからだろうが、その前にテレビの名作劇場のような番組で小津監督の『東京物語』(1953)は観ていると思う。あと山中貞雄の『河内山宗俊』(1936)もやはりテレビで観ている。僕は『東京物語』の戦争未亡人より、『河内山宗俊』の可憐な美少女の方が好きだった。

 まあこれは当たり前の話だ。原節子は1920年生まれだから、『東京物語』の時は33歳、『河内山宗俊』では16歳だった。中学生か高校生ぐらいの童貞少年にとって、自分とさほど年が違わない少女の方が魅力的に見えるのは普通のことだろう。

 小津映画を銀座の並木座で集中的に観たのは20代の頃だった。同時期に黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946)や『白痴』(1951)、木下惠介の『お嬢さん乾杯』(1949)なども観たが、どれも原節子は強い印象を残している。

 彼女のデビュー作はまだトーキーではなかった。アーノルド・ファンクと伊丹万作が共同監督した『新しき土』(1937)でスターになったが、戦前戦中の作品で今でも観られているのは『ハワイ・マレー沖海戦』(1942)など限られたものだと思う。女優として花開いたのは戦後になってからだろう。

 戦後の原節子の作品には、戦争や戦後の世相の変化もあって結婚しそびれたヒロインという役が多い。『我が青春に悔なし』や『お嬢さん乾杯』もそうだろうし、『安城家の舞踏会』(1947)の没落華族とか、小津映画の『晩春』(1949)や『麦秋』(1951)で演じた役なども同じだ。あるいは『白痴』もそうかもしれない。

 原節子は「昭和の名女優」ではなく、「戦後の名女優」なのだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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