なぜ敵を赦すのか?

中国故事物語

 古代中国の春秋時代。呉の王であった闔閭(こうりょ)は隣国の越に攻め込んだが、越王・勾践(こうせん)の反撃に遭って命を落とした。

 新たな呉王となった夫差(ふさ)は死んだ父の仇を討つため、夜眠るときは薪の上に横になってその痛みを身体に刻みつけ、部屋に出入りする部下たちには「夫差よ、父が勾践に殺されたことを忘れるな!」と叫ばせた。

 やがて呉と越は再び戦い、今度は夫差が勾践を追い詰めた。必死の命乞いもあって勾践は許されたが、彼はこの恥辱を忘れないため部屋に苦い肝を吊し、毎日それを舐めては呉への復讐の機会を狙った。それから20年後、越の勾践は再び力を付けて呉に攻め込み、ついに呉を滅ぼしてしまったという。

 以上、よく知られている「臥薪嘗胆」の故事の由来だ。

 臥薪嘗胆は「将来の大きな成功のために苦労に耐える」という意味で使われる四字熟語なのだが、この故事が示しているのは「大きな怨みや屈辱も人並み外れた努力なしには維持することができない」という人間心理の真実だと思う。

 家族を殺されたら、遺族は殺した者を憎むに違いない。敵から屈辱的な扱いを受ければ、その恥辱は胸に刻まれて一生涯忘れられないに違いない。しかしその憎しみや怒りも、時間がたてば少しずつ薄れて小さくなってしまう。

 だから「いつか復讐してやる!」とか、「いつかこの怨みを晴らしてやる!」という強くて激しい思いを維持するために、人は何らかの努力をし続けることになる。夫差はそのために薪の上で寝起きし、勾践は部屋に吊した肝を舐めた。そうやって我が身を痛めつけ、苦しませ続けなければ、親を殺された怨みも、屈辱的な命乞いを強いられた怒りも薄れてしまうからだ。

 何らかの被害を受けて、加害者を怨んだり憎んだりすることはあるだろう。それは自然な感情だ。だが相手を長く怨み続けたり、憎み続けたりするのは、必ずしも自然な感情ではない。燃え上がった怨みや怒りの炎が消えないよう、そこにせっせと新たな燃料を継ぎ足し続けないと、怨みや怒りの感情は小さくなってしまう。

 怒りや怨みを忘れないために、人は何度でも、それらの感情を生み出した出来事を心の中で再現しなければならない。それは何度も何度も、自分自身の心を繰り返し傷つける。「この怨みは忘れないぞ!」と言う人は、薪の上に寝たり肝を舐めなくても、そのたびに自分を傷つけているのだ。

 だから聖書は「敵を赦せ」と説く。釈迦は「敵を怨むな」と教える。でないと敵を憎んだり怨んだりすることで、自分自身が傷つくことになる。敵を赦し、怨みを捨てることで、人は自分自身の心の傷を本当に癒やすことができる。それが聖書が説き、釈迦が教えたことなのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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