「大学」再読

大学・中庸

 Amazonで注文した岩波文庫版の「大学・中庸」が届いたので、さっそく読みはじめた。

 「大学」を読むのはこれが2度目で、最初に読んだのは講談社学術文庫版。これは朱子が校訂して註を入れた「大学章句」の訳で、「四書」としては一番ポピュラーな本文だ。しかし「大学章句」の中に朱子自らが書いているとおり、この本文は礼記の中にある本分に不備があると考えた朱子が、自分の判断で一部文書の順序を入れ替えたり欠落(していると朱子が勝手にかんがえた部分)を補ったりしている。それによって「儒教の教科書」としてはわかりやすくなっているのだが、その解釈が朱子の教学体系に沿いすぎていて、いささか理屈っぽすぎる部分があるのだ。

 そこで岩波版の「大学・中庸」では礼記の中にある本文を「(旧本)本文」として取り出し、これを一通り解説した上で、「大学章句」を紹介する形を取っている。僕などは素人なのでそれで何がどう変わってしまったのかポイントはよくわからないのだが、朱子の事細かな解説がしばしば挿入される「大学章句」よりはこちらの方が読みやすいと思った。

 「大学」には三綱領・八条目というものがある。三綱領とは、明徳を明らかにすること=明明徳、民を新しくすること=新民(もしくは民を親しましむこと=親民)、至善に止まること=止於至善。明徳とは人間が持つ仁・義・礼・智などの徳目のことで、民を新しくする(親しましむ)とは人々が互いに仲良く平和に暮らせる世の中を作るという意味。至善とは個人が持つ明徳と世の中の平和が、長く保たれることを意味する。

 八条目とは、格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下のこと。物事の事実関係を知り、それに考えをめくらせ、胸の内に確信と覚悟をもって事にあたり、心を整え、人として正しい行動を取り、家族同胞が仲良くなり、国が治まり、世界中が平和になるという考えだ。「大学」ではこうした物事の順序や序列を大切に考える。国を治める立派な政治家というのは、まず家の中が平和でなければならない。つまり家庭不和の人物は、政治家として失格なのだ。

 「大学」に限らず、儒教は中国古代の伝説的な名君たちの治世(堯舜の世)を理想化しているのだが、その名君たちがそもそも実在したのかすら怪しいような部分もある。政治や人間性にまつわるありとあらゆる理想化された姿を太古の聖王たちに委ねてしまうことで、儒教の規範が作られているのだ。しかし超自然的な神や仏を崇拝する宗教に比べると、儒教の理想は普通の人間たちと地続きのところにある。

 江戸時代の日本人にとって公式の学問と言えば儒教(朱子学)であり、幕末維新の志士たちも、儒教的な素養の中から近代日本を作り上げた。儒教というのは化石のような古い学問だと思われそうだが、2千年以上続いた思想体系が石仏のようなコチコチの石頭であるはずがない。これはこれで、じつは結構柔軟な思想だったのではあるまいか……と思ったりするのだ。

 ヨーロッパにおいては、キリスト教が近代を生み出す鋳型になった。それに対して日本の近代は、儒教を鋳型にして生まれた。世界中で近代という時代の枠組みが行き詰まりかけている今、我々は再度基督教や儒教という前近代の枠組みを再点検してみるべきなのかもしれない。案外そこに、近代を乗り越えるポストモダンの種がひそんでいるのかもしれない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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