五輪エンブレムの使用中止に思うこと

Olympic 2020

 佐野研二郎デザインのオリンピック・エンブレムについて、五輪組織委員会は白紙撤回することを決めた。今後は早い段階で新しいデザインを公募するとのこと。新国立競技場の問題に続いて2020年東京五輪はドタバタ続きだが、この調子だと開催までにあと2つか3つは大騒動が巻き起こるんじゃないかね……。

 エンブレムの使用については、僕も昨日の日記に「五輪エンブレムは公開再投票で別案にした方がいい」という記事を書いたばかり。僕はエンブレム展開例に用いられている写真が無断使用だった可能性があるという話が出てきた時点で「これはもうダメだなぁ」と思ったわけだが、組織委員会や関係者の中でも同じタイミングで「ダメだ」と判断したのだろう。まあここまで騒がれてしまうと、このエンブレムを押し通すことは難しいと思う。

 というわけでエンブレムの使用中止や白紙撤回については止むを得ないとも思うのだが、今回の決定を受けて感じたことがいくつかあるので、簡単に思うところを書いておきたいと思う。

デザイン業界全体が信頼を失った

 僕は今回のエンブレムを使用中止にするなら、次のデザインとしてはコンペで選に漏れた100案以上のデザインの中からオープンな投票で決めればいいと思っていた。五輪エンブレムのコンペには国際的にも評価の高い、国内外の一流デザイナーがこぞって参加しているのだ。応募作の内容は公開されていないが、優れたデザインが多数寄せられたことは想像に難くない。

 だが五輪組織委員会は「新たに公墓」という方針を打ち出している。コンペの応募作も「公墓」の中に混ぜて新たに審査するのかもしれないが、とりあえず前回コンペをしたときのようなデザイン業界内でのフィルタリングは見直すのだろう。

 これが完全にオープンなコンペになるとすれば、そこではもはや「デザイン業界の視点」や「デザイナーの役割」は求められていないことになる。要するに「デザイナーなんて不要だよね!」ということだ。

デザイナーの仕事が誤解された

 指摘されている佐野研二郎氏の「パクリ」については、元デザイナーの目から見て「これは別にパクリとは言わないなぁ」「これまでパクリだと否定されたら、デザイナーは今後仕事がやりずらくなるだろうなぁ」というものも多かった。明らかにマズかったのは、デザインの素材になった写真について使用許諾を取らなかったという部分。これはこれでもちろん一種の「盗み」ではあるし、プロのデザイナーとしてあるまじきことなのだが、デザインのセンスや才能とは無関係だと思う。

 写真素材の無断使用は、デザインのパクリとイコールではない。デザインのアイデアを借用することは「考え方を形にしたものがデザイン」という考えに立てばもちろんパクリだが、アイデア自体は著作権によって保護されないし、そんなものに権利を主張されたらデザインの発展なんてあり得ない。

 デザイナーは自分で写真を撮らないし、自分でイラストも描かない。もちろん自分でコピーを考えるわけでも、文字を書く(レタリングする)わけでもない。デザイナーの仕事の範囲はその時々で変わるので、自分で写真を撮ったりイラストを描いたりコピーも考える人だっている。でも広告や出版やパッケージなどを主たる活動の場とするグラフィックデザイナーは、ほとんどの場合、複数のプロフェッショナルが参加する分業体制で仕事をしているのだ。

 「他人の写真を使うな!」と言われたら、デザイナーは仕事ができなくなってしまう。他人の写真を使ったっていいのだ。問題は「他人の写真を無断で使ったこと」だ。それは本屋で本を立ち読みすることと、その本をレジを通さずに持って帰ってきてしまうことと同じぐらいの違う。前者は問題なしだが、後者は明らかに盗みだ。だが一連の佐野デザイン批判では、前者も後者とひとまとめに批判されていたような気がする。

 デザイン素材の権利確認ミスは、1度や2度ならうっかりミスという言い訳もできるだろう。だが佐野氏については、明らかに無断使用の頻度が高すぎるように思う。

 今回の件ではネットの中に佐野デザイン批判があふれかえっていたが、その中には「素材を無断使用できるならこんなデザインは誰にだってできる」という論調のものも少なからずあった。これについて、僕は元デザイナーの立場から「馬鹿か!」と言うしかない。同じデザイン素材を使っても、デザイナーによって仕上がりは天と地の違いがあることは、多少なりともデザインのことを知っている人なら誰にだってわかる。

 しかし佐野氏の素材無断使用が、こうした乱暴な意見を平気でまかり通らせてしまっているのも確かなのだ。

デザイナーの専門性が理解されていない

 今回白紙撤回された五輪エンブレムは、盗作やパクリではないと僕は思っている。これについては、プロのデザイナーの多くが同じように考えているのではないだろうか。しかしそうしたデザイナーの理屈は、一般の人には理解できない。「似ていればパクリ」なのだ。これに加えて過去に佐野研二郎氏が行っていた数々の素材写真の無断使用(盗用)が、彼の仕事に対する心証を決定的に悪いものにしている。まあ身から出た錆ではあるけれど、でも、エンブレムはやっぱりパクリじゃないと思うけどなぁ……。

 これについて、僕は昨日の朝の段階で次のようなツイートをした。

 もともとはFacebookに書いたものでで、次のようなものだ。

佐野研二郎のオリンピック・エンブレムは、正方形を3×3で9分割して、そこにベーシックな幾何図形を配置していくところにデザインのポイントがある。

これは原案でも修正案でも維持されているデザインの根幹部分だし、ベルギーの劇場マークやヤン・チヒョルト展のポスターにはない独自性なのだ。

「それでも似てるじゃないか!」と言われればそれまでだけど、「デザインは考え方を形にしたものだ」というのが僕の考えからすると、それらは似てるけど別物なんだよね。

でもまあ、結果として似ていればアウトというのが現在の世論なんでしょうけど。

 夕方に帰宅してネットでニュースを見ていたら、デザイナーの永井一正さんが同じようなことを言っていた。(引用:IT medhia

「デザイン界の理解としては、正方形を9分割して作られた佐野さんのデザインの基本と、チヒョルト展のポスターのピリオドとはまったく違うものなので、佐野さんのオリジナルなものとして認識される」

「このような説明は、専門家の間では十分分かり合えるが、一般国民には、残念ながら分かりにくい」

 僕としてはまったく同感なのだが、こうした言い方もまた、一般の人にはまったく理解できないらしい。デザイナーの立場を擁護して、責任を一般国民に転嫁したかのように受け止められてしまったのだ。

 でもこれって、おかしくないか?

 デザイナーだって専門職なのだ。専門の訓練を受けたプロフェッショナルなのだから、その専門職の中でしか通用しない理屈や理論というものは当然あるのだ。専門職の中で通じる言葉が、他の一般の人に通じないことはいくらでもある。例えば同じことを他の専門家が言えば、おそらく何の問題も起きないはずだ。

 「このような説明は原子物理学者の同士なら十分わかりあえるが、一般国民には残念ながらわかりにくいだろう」

 こう言われても、一般国民はバカにされたとは思わないはずだ。だって、原子物理学の話なんてどのみちチンプンカンプンだもんね。でもデザインについては、そうした「一般の人にはわからない領域」がないと思われている。「見ればわかる。似ている。マネだ。言い訳すんな!」で押し通されてしまう。

 今回の一連の出来事で、ネットの検索技術に精通したアマチュアが、国家プロジェクトの一環として採用されたプロの仕事を撤回させたというのは痛快だ。しかしその副作用として、デザインの仕事の専門性が軽んじられる風潮が生まれるのだとしたら、それは大問題だと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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