ぼくがデザイナーを辞めた理由

エンブレム原案・修正案

 デザインというのは「考え方や機能を形にしたもの」というのが僕の考えで、「考え方や機能」が損なわれないなら表面的な意匠が変更されても「同じデザイン」だと思っている。

 でも僕はそう考えていたから、デザイナーとして「美しさを突きつめていく」ことにあまり興味を持てなかった。例えば印刷書体の微妙な違いや、レイアウトされるデザイン要素の0コンマ何ミリという微妙なサイズの差異、ごくわずかな色の違い、写真のトリミングの厳密さを追究して、フォルムの精度や完成度を上げていくことに面白さを感じられなかったのだ。

 しかし一方で、こうした部分で抜群のセンスを発揮する人たちというのも周囲に大勢いた。アシスタントだった僕が2時間ぐらいかけて一通りのレイアウトを終わらせたものを、先輩のデザイナーがコピー機の拡大縮小機能とペーパーセメントを使って10数分で手直しすると、見違えるようにかっこよくなる。僕はそれが「かっこいい」とは思ったが、自分でその「かっこよさ」を追究していこうとは思わなかった。

 僕が二十歳でデザインの仕事に足を突っ込み、20代後半には早々にデザインに見切りを付けてしまったのはそれが原因だったと思う。僕はその後コピーライターになり、それも辞めて映画批評家という肩書きのライターになった。広告コピーの仕事は今でも依頼があれば受けるけど、自分で積極的に取りに行くことはない。デザイナーは完全に廃業だ。でも結果としては、それが僕にとって正しかったように思う。

 今回佐野研二郎のオリンピック・エンブレムについて、公墓案とその後の修正案が「まるで違う!」と批判されているのだが、僕自身のデザイン観からすれば、あんなものは「まるで違う!」とはとても言えない変更だと思う。今回原案と修正案を「似ても似つかない」「ぜんぜん別のデザインだ」と批判する人たちも、「じつは既存のマークでこんなものがありました」と原案を見せられれば、「そっくりだ!」「まるで同じじゃないか!」と言うんじゃないだろうか……。

 まあこれはデザイナーになり損ねた人間の言うことなので、デザイナーの中にもぜんぜん別の考えの人は大勢いると思う。デザイナーは考え方や機能だけではなく、フォルムを追究してこその仕事だとも思うので、「この変更はあり得ない」「自分ならこんな変更を強いられた時点でコンペから辞退する」と言う人もいるだろう。

 ただ今回のエンブレムに関して言えば、一連の騒動でデザインの露出が多くなればなるほど、逆にこのデザインの優位性を感じずにはいられない。スマホの画面の中で数ミリ角に表示されたものを見ても、それがオリンピックのエンブレムだとわかる明快さがあるのだ。いろいろな点でこのデザインにケチが付いてしまったのは残念だけどね。

 ちなみに配色の大部分を黒が占めていることを「喪章だ」とか「墓石だ」などと揶揄する人もいるのだが、九鬼周造の「粋の構造」によれば、黒やグレーこそ江戸好みの最も粋な色なのだ。伝統的な漆器などにも、同じ色が使われている。漆の黒に、金銀に赤だ。そういう意味では、オリンピックのエンブレムは、日本の伝統を背負った配色になっている。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中