生活ノートを担任に独占させるな

生活ノート

画像:YOMIURI ONLINE

 岩手県の男子中学生がいじめの事実や自殺をほのめかす内容を担任に提出する生活ノートに書いていたのに無視され、あげくの果てに鉄道自殺してしまったとされる問題。担任教師や学校に対する非難の声は当然だと思うし、僕もひどいとは思うのだが、これ担任ひとりの資質の問題だとするのも間違っているような気がする。

 人間の感受性というのはラジオと同じで、感度の違いもあれば、キャッチできる周波数帯にも違いがある。FM放送がきれいに受信できるラジオでも、AM放送が同じようにきれいに受信できるとは限らない。この担任教師は自殺した中学生の悩みを受け止めることはできなかったが、別の生徒の別種の悩みについてはきちんと受け止める力を持っていたのかもしれない。

 ニュースでこの問題を知った人たちは、生徒が自殺してしまったという現実から逆算して物事を判断してしまう。生徒が「死にたい」とか「死に場所を決めている」などとノートに書くのは、そこまで追い詰められていたのだと考える。その悩みをきちんと受け止められなかった担任は、教師としての資質に欠けていると考える。

 でも一般的な経験則として、多くの人は「死ぬ死ぬ言うヤツが本当に死んだためしはない」と考えているのだ。学校であろうと職場であろうと、「このままだと死んじゃう」とか「死にたい」と言う人は山ほどいるし、そうした人が本当に死んでしまうことはまずない。ところがごくまれに、「このままだと死んじゃう」と言っていた人が過労死したり、「死にたい」と言っていた人が自殺してしまうことがある。そうするとその事実から逆算して、「あのときこう言っていたのに」「なぜあの言葉をきちんと受け止められなかったのか」という話になる。

 「死にたい」とか、「もう耐えられない」とか、それに類する言葉は使われすぎていて、それにいちいちまともに取り合うことは難しい。今回の問題では死んだ生徒の生活ノートが取り上げられていたので「これに気づかないのか!」と誰もが思うわけだが、他の生徒のノートにも「死にたい」とか「生きていたくない」という言葉は満ちあふれているのかもしれない。また死んだ生徒もおそらく最初から「死にたい」と書くわけではなく、最初は小さなほのめかしから危機を訴えはじめ、少しずつ表現が直接的なものにエスカレートしていったはず。いきなり「死にます」ならその異様さに気づく人も、小出しに少しずつ表現が強まっていった場合には案外鈍感になってしまうのではないだろうか。

 手垢の付いた慣用句としての「死にたい」の中から、本当に深刻な魂の救難信号のような言葉を拾い上げるには、かなり鋭く研ぎ澄まされた感性が必要になると思う。残念ながらら死んだ生徒の担任にはそれがなかった。結果から見ればこれは重大で致命的な問題だったわけだが、それを担任ひとりの責任にするのは違うような気もするのだ。

 繰り返しになるが、人間の感受性はラジオと同じだ。感度の違いもあれば、受信できる周波数帯の偏りもある。本来なら感度がいいはずのラジオも電池切れで役に立たないことがあるし、近くにパソコンや蛍光灯があれば受信障害が起きて雑音だらけになる。ならば生活ノートのようなものは、担任ひとりが目を通すのではなく、複数の教員が目を通すようにすればいい。それでもキャッチしそびれる訴えはあるだろうが、たったひとりが目を通しているよりは、SOS信号の取りこぼしが少なくなるのではないだろうか。

 死んだ生徒は親に対しても「学校に行きたくない」などと言っていたそうで、この段階でも親に対してSOSのメッセージを発していたのだ。ひょっとしたらクラスメイトの中にも、いろいろな相談をされていた生徒がいるかもしれない。あちこちに救難信号を出していたのに、誰にも相手にされないまま本人は死を選んでしまった。すべての悩みをひとりで抱え込んだまま、いきなり自殺したわけではないというのが気の毒で哀れだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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