宮崎駿が辺野古基金の共同代表へ

東京新聞

 アニメーション監督の宮崎駿が、辺野古基金の共同代表になる(かもしれない)という東京新聞の記事。まだ正式な話ではないらしいが、他紙でも報じているし、まあ間違いないのだろう。

 これに対してはネットで「宮崎駿に失望した!」とか「映画監督は映画だけ作ってろ!」という意見も多いのだが、まあこうした意見自体は大昔からあるものなので今さらの感が強い。日本では作家や映画監督が政治的発言をすることを好まない風潮があって、黒澤明なども自分の作品の政治メッセージについてはあれこれ語りたがらなかった。映画監督は映画を通じてものを言えばいいのであって、映画の外であれこれ言う必要はないという意味のことをよく言っている。

 ただ黒澤明に関して言えば、これは言い訳のような気もするけどね。黒澤明は『七人の侍』(1954)の時に、日本の再軍備とからめてこれをずいぶんと政治的に批判されたのだ。まあ映画の公開と自衛隊の発足が同じ年だったんですね。そこで「村人たちが侍を雇って自分たちの手で村を守る」という物語が、日米安保や自衛隊の問題とからめて議論された。黒澤明はこれにウンザリしてしまった。自分は面白い映画を撮ろうとしただけなのに、それがたまたま当時の社会や世相の問題と結びついて、いびつな形でクローズアップされてしまうことを嫌悪した。

 しかしその黒澤明がまったく政治的にノンポリかと言えばそうではなく、若い頃はプロレタリア芸術運動に入れあげていたバリバリの左翼の闘士だったわけだし、『生きものの記録』(1955)、『夢』(1990)、『八月の狂詩曲』(1991)などを観れば、彼が素朴な反核思想の持ち主だったこともわかる。ただ、そうしたことを彼は表立ってはあまり言わなくなっちゃった。『八月の狂詩曲』で記者に盛んに質問されても、ごちゃごちゃごまかして明言を避けた。結局、面倒くさくなっちゃったんでしょうね……。

 作家の浅田次郎は「日本の『運命』について語ろう」の中で、作家の川端康成がベトナム戦争に反対する声明を出したときにガッカリしたと書いてる。これもやっぱり「作家は小説だけ書いてればいいのに余計なことを……」といことなんでしょう。

 作家が政治的な発言をすると、作る作品にも政治的な色が付いてしまう。観客や読者は作品の中から政治的なメッセージを掘り起こすことに熱中し始めて、作品を素直に受け止めてくれなくなる。それを避けて作品とニュートラルに接してもらうために、政治的な発言を封印したりする。

 でも海外では作家も映画人も、ばんばん政治的な発言をするんですけどね。ヨーロッパの映画人はインテリが多いから何かことがあればすぐに政治的なメッセージを発信するし、アメリカは選挙のたびごとに「民主党か共和党か」で旗幟鮮明にしなきゃならないお国柄だから、エンタテインメント業界でも同じように政治的立場を明確にしているよ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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