「自己責任」は嫌な言葉

後藤健二

 今年1月にジャーナリストの後藤健二さんがISILに拘束されたことが報じられ、その後殺害されて以降、「自己責任」という問題について少し考えている。

 ほとんどの人間の行動は、それが他人に無理強いされていない、自発的な行動である限りは「自己責任」であることに間違いない。誰かが無理矢理に、湯川遥菜さんや後藤健二さんをシリアに連れて行ったわけじゃない。彼らは彼らの意志で、危険を承知でシリアに入り、運悪くISILに拘束されて殺害された。

 これは本人が自分の意志と責任において行動したという意味で、やはり自己責任だと思うのです。でもそれとまったく同じことは、交通事故などでも言えることなんだよね……。

 Aさん(仮名)が自転車で道を走っていたら、そこに居眠り運転のトラックが突っ込んできて死んでしまったとする。これは誰かがその日のその時、Aさんに自転車でその道を走れと命じたのか? 違う。Aさんはその日、自分の意志と責任において、その道を自転車で走っていた。

 ではAさんは交通事故の危険をまったく感じていなかったのか? 違う。Aさんはテレビニュースや新聞報道などを通じて、日本では毎年何百人もの人が居眠り運転の自動車に轢かれて死んでいることを知っていた。であれば当然、運が悪ければ自分も同じ目に遭いかねないことを知っていたと考えるべきであろう。

 ではAさんの交通事故死について、第三者は「それは自己責任だね」と言うだろうか? マスコミや政治家が「本人の自己責任だからしょうがない」と言うだろうか? おそらく言わないのだ。湯川さんも後藤さんもAさんも、自分の行動のリスクをきちんと自覚した上で、自分の意志と責任において行動した。しかし湯川さんや後藤さんは「自己責任だからしょうがない」と言われ、Aさんがそう言われないのはなぜか。

 それは湯川さんや後藤さんの行動は一般の人にとって馴染みがなく、Aさんの行動は一般の人にとっても身近なものだからだろう。1月の事件でも(湯川さんはともかく)後藤さんの行動については、彼と同じように海外で報道の仕事に携わっている人たちは「自己責任だからしょうがない」と批判がましいことはあまり言っていなかったように思う。それは彼らにとって、後藤さんの行動が身近なものだったからだろう。場合によっては自分自身もそこにいて、同じように行動したかもしれないという思いがあったからではないだろうか。

 Aさんが交通事故で亡くなったのは、居眠り運転のトラックが悪い。ならば湯川さんや後藤さんが亡くなったのも、殺したISILが悪いのだ。それは間違いない。でもそこで「自己責任」という言葉が持ち出されるのはなぜだろう?

 おそらくこれは「それはわたしには関係のない話です」とか、「それについてわたしは深く考えることをやめます」という意味なのだ。だって「自己責任」という言葉を使えば、世の中のたいていの問題についてその時点で話を打ち切ってしまうことができるんじゃないか? これって究極の「逃げ口上」だよなぁ。

 自己責任という言葉の使われ方は「自業自得」にも似ている。しかし自業自得は「身から出た錆」や「因果応報」「悪行悪果」にも通じる言葉で、悪い行いに対して、悪い結果が付いてくるという意味だ。でも最近の「自己責任論」は、必ずしも「悪い行い」の結果でなくても「自己責任だ」の一言で切り捨ててしまう。

 そういう意味で「自己責任だ」は、他の言葉よりも切り捨てられる範囲や考えずに済む範囲が広まっているわけだ。だけどこういう言葉が流行するのは、他者に対する共感が欠如した、ギスギスした世の中になっているという証拠なのかもしれないなぁ……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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