召集令状に大喜びした人々

マッサン

 NHKの朝ドラ「マッサン」で、熊虎(風間杜夫)の一人息子・一馬(堀井新太)が戦死した。これ自体は事前に死亡フラグ立ちまくりだったので驚くようなことではないのだが、むしろ現代人にわかりにくいのは一馬に召集令状が届いたときの家族の様子だろう。

出征する息子に「死んでこい」と言う人たち

 戦時中を舞台にした映画やドラマでは、息子に召集令状(赤紙)が届くと周囲の人が大喜びし、万歳三唱で送り出す。「お国のためにがんばって働いてこい」とか、「国にご奉公するため命を投げ出す覚悟で行け」とか、あげくの果てには「立派に死んでこい」とまで言う。今の感覚から見ると狂っているとしか思えない。

 僕はずっと長く、こうしたことを言う人たちは頭がおかしいとしか思えなかった。たぶん戦前の軍国主義教育のせいで、完全に洗脳されてしまったのだろう。そうでなければ、特高警察だの憲兵隊だのの目が恐くて、本心を言えなかったのか……。

 しかし今年で戦後70年ということもあり、ちょっと簡単な足し算引き算をやってみた。そして思ったのだが、当時の人たちは別に頭がおかしかったわけでもないし、取り締まりへの恐怖で心にもないことを言っていたわけでもなさそうだ。むしろ当時の人たちの感覚としては、これが当たり前のことだったのだろうと思う。

 こうなってしまった理由は、過去の戦争体験だ。

日露戦争の記憶

 近代日本(大日本帝国)が経験した最も華々しい戦勝体験は、言うまでもなく日露戦争なのだ。世界の大国であるロシアを相手に戦争をして、見事それに勝利した。これが世界中を驚かせて、日本は世界の一等国の仲間入りをすることができた。

 ではその勝利がいつだったのか? 日露戦争は1904年(明治37年)から1905年(明治38年)までの戦争だ。僕はこれが「明治」のことだからすご〜く昔のことだと思っていたのだが、じつはそれほど昔でもない。太平洋戦争が始まった1941年から見れば、日露戦争勝利の1905年はたった36年前に過ぎない。これに比べれば、太平洋戦争終結から現在まで70年というのは倍の距離感がある。

 ドラマや映画では、太平洋戦争が始まるとたいてい主人公が「あの大国と戦争するなんて大丈夫だろうか」と暗い表情をしたり、「バカげた戦争だ。こんなの絶対に負ける!」と家族の前で言ったりするのだが、実際にはそんなことはほとんどなかっただろう。アメリカとの戦争で「日本はヤバイ」と思っていたのは日本の中でごくわずかな人で、それはずいぶん変わった人たちだったと思う。

 太平洋戦争が始まったとき、日本中は歓喜の声で沸き立った。この様子は木下惠介の映画『花咲く港』に描かれているが、当時の日本人にとってアメリカに戦いを仕掛ける日本の勇ましさは誇らしいものだったに違いない。

 今から考えれば「アメリカに勝てる」と思っていた方がよほど狂っているし、戦後の日本人も「よくよく考えればなんで勝てると思っちゃったんだろう?」と首をかしげたわけだが、当時の日本人には36年前の日露戦争大勝利の記憶がまだ鮮明に残っていた。

 36年はものすごく大昔だろうか? もちろん若い人にとっては大昔だろう。でも2015年の今から36年前を振り返ったとき、僕と同じような年齢の人は「つい昨日」とまで言わずとも、それほど遠い過去だとは思わないと思うのだ。

 今から36年前は1979年だ。街ではインベーダーゲームが流行し、ソ連はアフガニスタンに侵攻し、西城秀樹は「ヤングマン」を歌い、ジュディ・オングがヒラヒラの衣装で「魅せられて」を歌っていた。僕は当時中学生だった。

 昭和16年に出征する息子を見送る父親は、おそらく40代後半から50代だろう。この人たちは30数年前の子供時代に、日露戦争大勝利という華々しい体験を刷り込まれている。

戦争の勝利は戦死を合理化する

 日中戦争や太平洋戦争ほどではないにせよ、日露戦争でも日本はずいぶん大きな犠牲を払った。30万人を動員してそのうち9万人近くが死んでいるのだから、戦争に行った3人に1人ぐらいは死んでしまった勘定だ。これは残された家族にとって、大きな悲劇であったに違いない。

 しかし戦没者遺族の悲劇は「戦争の勝利」によって華々しく飾り立てられ、合理化されてしまった。犠牲者が出たのは確かに悲劇だが、それは日本が世界の一等国になるための礎(いしずえ)となった。彼らの尊い犠牲の上に、日本の輝かしい今の姿がある。だから日本人はみんな戦没者たちに感謝している。戦争で死んだ人たちの御魂は今も、残された家族の幸せと祖国の発展を願っているのである……。日露戦争の勝利は、国民たちが共有するそんな物語を作り出した。その象徴が靖国神社だ。

 日露戦争以降、日本人は肩までドップリとこの物語に浸って生きてきたのだ。「マッサン」に登場する男たちも、女たちも、全員同じだ。だから彼らは、自分の家族に向かって「立派に戦ってこい」とか「死んでこい」と言えた。仮に戦地で死んだとしても、それは国家発展に殉じた尊い死ではないか。誰もがその死を誉め称え、感謝し、残された家族も鼻が高い。そんな立派な死ではないか。

 どんな死も、それが「意味のある死」「尊い死」として合理化されていれば恐るるに足らずだ。戦前の日本は、戦争による死を国家ぐるみでシステマチックに合理化していて、ほとんどの人はそこに疑いの目を向けなかった。

 ましてや彼らの多くは日露戦争大勝利や、その後の第一次世界大戦での勝利、満州事変での勝利、日中戦争での優勢などを、リアルタイムで体験している。その中でアメリカ相手の戦争にも「必ず勝てる!」と思ったのだ。勝てる戦争なら、戦死なんて恐くない。長生きして畳の上で大往生するより、よほど周囲の人に感謝されて死ぬことができる。

 でもそうはならなかった……。それは日本にとって、良いことだったと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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