道徳教材としての「泣いた赤鬼」

泣いた赤鬼

 学校公開で子供の通う学校の授業風景を見に行ったら、道徳の授業で浜田廣介の「泣いた赤鬼」を教材に取り上げていた。最初に先生が子供たちを近くに集めて、絵本を使って作品の朗読。これは名作童話だと思う。参観中の保護者も感動。でもこれって、小学校の道徳教材としてはどうなんだろうか?

 「泣いた赤鬼」が名作であることは間違いないと思う。しかしこれを使って「道徳」について議論しようとすると、それこそ議論百出、ハーバード白熱教室になりかねない難しい問題をはらんでいるように思うのだ。なぜならこの作品には、道徳的にどう振る舞うのが正しかったのかという「正解」がないからだ。

 赤鬼は人間と友達になりたかった。だが人間は赤鬼を恐れて近づかない。そこで友人の青鬼は、赤鬼にひとつの馴れ合い芝居を持ちかける。青鬼が人間の村に出かけて暴れているところに、赤鬼が現れて懲らしめる。これで青鬼が退散すれば、村人は赤鬼に感謝して友達になってくれるだろう。計画は上手く行って、赤鬼は人間と友達になることができた。だが青鬼は赤鬼の前から姿を消す。彼が赤鬼と親しくしていたのでは馴れ合い芝居がばれて、人間が再び赤鬼を恐れるようになるからだ。赤鬼は青鬼が残した別れの手紙を読んで泣くのだった……。

 この物語の結末では、赤鬼は決して幸福になっていない。赤鬼と青鬼の友情は損なわれてしまった。赤鬼は人間と友達にはなれたが、親友の青鬼を永久に失ってしまうのだ。赤鬼はその後人間とどれほど楽しい時間を過ごしても、心の底から楽しむことはもうできないだろう。

 赤鬼は人間と友達になるという幸福を手に入れようとして、結局すべての幸福を手に入れられなくなってしまった。彼はどこで間違えたのだろうか? 彼はいったいどう振る舞えば良かったのだろうか?

  1. 赤鬼は人間と友達になろうとすべきではかった。赤鬼は時々遊びに来る青鬼だけを友として、山の中の小屋でひとりで暮らす生活を続けるべきだった。
  2. 赤鬼は立て札の効果が現れなくても、すぐにあきらめるべきではなかった。いつか人間が遊びに来てくれるかもしれないという希望を胸に、3年でも、5年でも、10年でも、ひょっとしたら死ぬまでであったとしても、ひたすら待ち続けるべきだった。(実態としては1.と変わらない)
  3. 赤鬼は青鬼に馴れ合い芝居を提案されても、それれに飛びつくべきではなかった。人間との関係はきっぱりとあきらめて、鬼は鬼同士で仲良くしていればよかった。(そして1.に戻る)
  4. 赤鬼は人間と友達になった後、青鬼との馴れ合い芝居について自ら真相を白状すべきだった。(そして人間が去って行けば1.に戻る)
  5. 赤鬼は人間との新しい関係を捨てて、旧友の青鬼を探しに旅に出るべきである。(そして1.に戻る)
  6. 赤鬼は去ってしまった青鬼に感謝しつつ、今後は過去を振り返らずに人間との新しい関係の中に自らの幸福を見つけるべきである。
  7. 馴れ合い芝居は青鬼が言いだしたことだし、旅に出たのも青鬼の判断だ。すべては青鬼の自己責任なので、赤鬼は青鬼の行為を恩義に感じる必要はないし、過去の自分の行動を後悔する必要もない。(6.に似ているがよりドライに割り切っている)

 さあ、どうするどうする? あなたが赤鬼ならどうするのがよかっただろうか?

 結局こんなものに、明確な正解なんてものはないのだ。でも「赤鬼がどうすべきだったかに正解はない」というのは、小学校レベルの道徳教材として適切なものと言えるだろうか? 「友情はトレードオフの関係にあって、Aと仲良くなればBとの友情を捨てなければなりません」というのは大人には「なるほど」と思えることかもしれないが、これは小学生に語るべき内容なのだろうか?

 僕は小学生レベル、特に小学校の低学年レベルというのは、物事の「原理原則」を教えるところだと思っている。だから道徳についても、原理原則となる徳目だけを教えてくれればいいのだ。「泣いた赤鬼」はいささかレベルが高すぎる。もっとも単純な道徳的教訓話として割り切れないからこそ、「泣いた赤鬼」は今でも名作として読み継がれているのかもしれないのだが……。

 ちなみにこれを道徳教材ではなく、広告について考えるテキストと想定してみると話はまるで違ってくる。赤鬼の目的は「人間と友達になる」ことである。そのために赤鬼が考えたのは、「小屋に遊びに来てください」という立て札を立てることだった。しかしこれは効果がなかったので、赤鬼はすぐに諦めてしまう。たぶんこの立て札を何年立てておいても、効果はほとんどなかっただろう。だから諦めてしまったこと自体は、別に悪いことではないと思う。

 これに対して青鬼の提案は、馴れ合い芝居によって人間たちに赤鬼が恩を売るというものだった。これは効果てきめんだったが、その代償として赤鬼は青鬼との友情を失ってしまった。だから広告プランとしては、やはり間違いだったのだと思う。

 ではどうすればよかったのか?

 人間たちの生活には、日頃からいろいろな問題があったはずなのだ。畑仕事で手が足りないかもしれない。力仕事で骨が折れるかもしれない。急な病人が出たとき、山を幾つも越えた町まで病人を運ばなければならないかもしれない。イノシシやシカなどの害獣に畑を荒らされて、困っていたかもしれない。そうした人間たちの抱える問題や悩みをきちんとリサーチしてその問題解決を赤鬼が提示できれば、彼は馴れ合い芝居でわざわざ問題を起こさなくても人間と親しくなれたかもしれないのだ。

 なぜそれができなかったのかと言えば、赤鬼は「人間と友達になりたい」と言いながら、じつは人間の暮らしの実態を知らなかったからだ。人間が抱える悩みや苦しみを見ないまま、単に「人間と友達になれば楽しかろう」と思っていただけだった。その浅はかさゆえに彼は古い友人を失い、人間との関係も損なってしまうことになったのだ。

 目的を達成するためには、きちんと対象をリサーチしましょう。これが「泣いた赤鬼」という童話から学べる教訓である。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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