言論や表現の自由を制約するもの

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Magazines by theseanster93

 フランスの新聞社襲撃にからめて「言論の自由」や「表現の自由」について書いてきたので、その続き。

 (国家権力からの)言論や表現の自由は無制限に守られるのが原則だが、実際にはそれを無制限に主張できるものではないし、無制限に行使できるものでもない。なぜなら資本主義経済社会において、言論や表現も「売り物」にならなければ発表の機会を得られないからだ。

 反体制派の芸術家が、裏庭の納屋を改造した私設美術館に展示するのは自由だ。でもそれを誰が観るだろうか? 反体制の映画監督が、ホームムービーで撮影した作品を自宅リビングで上映するのは自由だ。でもそれを誰が観るだろうか? 反体制派の作家が、原稿用紙何千枚にもなる論文や小説を書くのも自由だ。でも仕事場の押し入れに積み上げられたそれらの原稿は、誰かが活字に組んで印刷しなければ人の目に触れて社会を動かすことが出来ない。

 言論の自由というのは、商品として売り買いできる言論の自由に過ぎない。これはコラムニストの故山本夏彦が繰り返し言っていたことだ。言論機関たる新聞雑誌は売れることを欲する。売れるためには読者の読みたい記事を書く。お得意様である読者に迎合して、時には事実を曲げて読者を喜ばせようとする。

 昨年から自称保守派の方々が盛んに朝日新聞を批判し、朝日新聞が戦後の日本国民を欺いたとか、世論を誘導したなどと言っているが、それは半分正しくて半分間違いだ。朝日新聞は商売として、読者が望む記事、読みたいと思う記事を提供したという面もある。朝日が事実を曲げたのだとすれば、それは当時の読者が、そうしたねじ曲げられた事実を欲したからに他ならない。

 というわけで、言論の自由も表現の自由も売り買いできる言論や表現の自由であって、商売にならない言論や表現は世に出ることなく埋もれてしまうし、商売になりさえすれば事実や真実でないものも流通していく。言論や表現の自由は、商業主義というフィルターを通じて、それを消費する市場とつながっている。メディアを通じて流通している言論や表現は、それを受け入れる市場の欲望を映し出す鏡みたいなものなのだ。

 言論の自由や表現の自由に歯止めをかけたいのなら、行き過ぎた言論や表現に対して市場が「ノー」のサインを出せばいい。要するにそれを買わなければいいのだ。そうすれば、それは一定の範囲以上には広まらない。

 しかしこれは、もはや古い思考モデルなのかもしれない。

 「市場による言論や表現の淘汰」が、今は意味を失いつつあるからだ。ネットを介して、経済的な価値を持たない情報も世の中に広がっていくからだ。それは人間が潜在的に持っている欲望を刺激して、際限なくコピーされて広がっていく。ここに「市場性」や「商業価値」というフィルターは働かない。むき出しの欲望だけが、ネットの中の言論や表現を膨張させていく。

 こんなことは、人間の歴史の中で過去になかったことかもしれない。特定の個人や団体に対する誹謗中傷も、差別的な言葉も、プライバシーの侵害も、それが事実であろうとなかろうと、一切のフィルターなしにあっという間に広まってしまうだ。しかも一度広まった情報は、ネットの中で断片化し、細分化して、半永久的に漂い続ける。そうなってしまえば、もはやそれらの誰も責任を取らない。リベンジポルノなどはその一例だろう。

 言論の自由や表現の自由は、民主主義社会の根幹だ。それは過去に「商業的な価値の有無」という判断基準によって、ある程度のフィルタリングが行われていた。それがいいか悪いかはともかく、ありとあらゆる表現や言論が無制限に世に出てしまうという自体は防がれていた。だが今はそれとはまったく違う現実があるのだ。じゃあどうすりゃいいのか? 僕にはよくわからないんだけどね……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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