表現の自由に聖域はない

印刷機

 フランスの新聞社がテロリストに襲撃された事件に関連して、「他の宗教や信仰を中傷するようなマンガを掲載することは表現の自由や言論の自由と言えるのか?」という意見を見かけることがある。こうしたことを言い出すこと自体が、表現の自由や言論の自由が何であるかを知らない証拠だと思う。

 例えば「マンガで茶化されているのがキリストやローマ法王ならどうするんですか?」みたいな意見もあるのだが、今回襲撃された新聞社はイスラム教の預言者以外に、キリストもユダヤ教徒も同じようにバカにするマンガを掲載していたのだ。嘘だと思ったら「Charlie Hebdo」でGoogleの画像検索をしてみればいい。出てくる出てくる、とんでもない風刺まんがが次々と……。でもキリスト教徒やユダヤ教徒は、それによって問題の新聞社に突入して自動小銃を乱射したか?

 そもそも歴史をさかのぼれば、ローマ法王をはじめとするキリスト教の聖職者ほど、徹底的に茶化され、非難され、コケにされ、馬鹿にされてきた人たちはいない。16世紀に起きた宗教改革では、普及し始めたばかりの印刷機が大活躍するのだが、これはカトリック陣営とプロテスタント陣営が、互いの中傷ビラを印刷するのにフル活用された。当時の民衆は字が読めなかったので(そもそも印刷物がないのだから字を読もうというニーズがさほどない)、宗教改革運動に参加する側もそれに対抗する側も、相手陣営の主張や態度を戯画化して貶め、自分たちの主張こそが正統であると主張した。

 つまりキリスト教の信仰を中傷するマンガなんてものは、16世紀から存在したわけだ。もう500年も前の話だよ。今さら「信仰を中傷するマンガはよせ」と言ったって、キリスト教の側は「何の話だよ!」と言うだけでしょう。

 500年前と言わず、さかのぼるのは50年でも構わない。かつてアメリカでは映画作品に厳しい表現規制がかけられていて、性表現や暴力描写に厳しい制約があった。男女のラブシーンの描写にも厳しい規制があって、夫婦が同じベッドに入る場面すら描けなかった。異人種間の恋愛や結婚がタブー視さるなど、今から見れば差別的な規制もあったようだ。こうした規制の中に宗教に対する批判や中傷を禁ずる規定もあり、キリスト教聖職者は、警察官などと同じく、悪人として描いてはならないとされた。

 映画倫理規定はあくまでも「業界内の自主規制」なのだが、これは公権力が映画の内容に介入してくることを防ぐための苦肉の策だった。公権力が検閲という手段に出る前に、先回りして同じような事実上の検閲を映画業界内で行って、権力による表現の自由の侵害を避けようとしたのだ。涙ぐましい努力ではあるけれど、1940年代後半に始まった赤狩りにハリウッドは屈服している。(これは公権力による弾圧だ。)権力に逆らうよりは、それを巧みにいなすことを映画業界は選んだわけです。

 これが1960年代に取っ払われる。倫理規定が消えてレーティングになり、成人向けの映画であれば事実上どんな表現でも許されるようになった。これによって、停滞していたアメリカ映画は息を吹き返す。等身大の男や女が繰り広げるリアルな日常や、世の中の生々しい現実を描いたアメリカンニューシネマが作られて、劇場を離れていた若者たちが再び映画を観るようになった。(ポルノ映画も作られるようになるのだが、それはまた別の話。)

 それまで封じられていた「体制側の権威に対する攻撃や批判」が解禁されたことで、警察の腐敗や聖職者の偽善を描く映画も作られるようになる。それを不快に感じる人も多かったはずだが、それよりも表現の自由が優先されたのだ。表現の自由にとって、神聖不可侵にしておくべき聖域など存在しない。そうしたタブーがないからこその「自由」なのだし、そこに何らかの規制を設けようとすれば、それは表現の自由の侵害になる。まずはこれが大原則だよ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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