「新約聖書よもやま話」を読む

新約聖書よもやま話

 先日某所で「すごくいい本です」と薦められたので、「新約聖書よもやま話」を読んでみた。言うまでもないことだが、「すごくいい本=すごく面白い本」というわけではない。この本については「ものすごく面白いか?」というとそうでもないのだが、聖書と教会説教以外にこれといって聖書に対する知識がない人にとっては、新約聖書学への入口になるような本なのかもしれない。

 個人的には、面白くないわけだ。いちいち食い足りない。物足りない。もう少し突っ込んで書いてくれるといいのになと思う部分も多い。内容的にセンシティブな部分に踏み込みそうになったところで、記述が核心に触れることなく寸止めになっているところが多い。しかしこの、大きく踏み込んでおいてスルスルと後ずさりするようなところが、逆にスリリングな部分になっているのかもしれないなぁ……と思い直してみたりもする。

 例えば『聖書は神のみことばですから、書かれた時点ですでに神のみことばでした』と聖書信仰の大前提を掲げつつ、そのすぐ後に『諸教会、ひいてはキリスト教会全体が、新約聖書二十七巻を神のみことばだと認めるには長い時間を要しました』と正典化に至る時間の隔たりについて書いていたりするのだ(P19)。

 この正典化の問題についてはその後「ユダの福音書」についての解説で補足的な説明があり、聖書の正典文書が書かれた時点では『見た目には普通の書物とまったく同じで、何の変哲もない書物だったのです。(中略)そしてクリスチャンが手にしていた、見た目には区別がつかない様々な書物が歴史によって様々な観点から検証、評価され、歴史のふるいにかけられていきました。そしてどの書が聖霊によって書き記された神のみことばなのかが徐々に明らかにされていったのです』と歴史の中での選択の問題が語られ、新約聖書の正典確立が4世紀末であることが紹介されている(P69-71)。

 新約聖書冒頭にある四福音書が同じようにイエス・キリストの生涯を描きながら、時として互いに矛盾する内容を記していることもあっさりと認めている。これは聖書を批判的に読んでいる部外者にはどうと言うことのない記述なのだが、聖書に書かれていることが一言一句すべて歴史的な事実だと考えている人たちにはドキリとするような内容だと思う。『四つある福音書はそれぞれ神の霊感を受けて書かれたものです。しかし、その四つをまとめてひとつのイエスの生涯を復元したとしても、それは聖書と同等の権威を持つものとはなりません。人間が書いたものとしか見なされないのです』(P61)というのは、福音書の記述をあちこちつなぎ合わせながら「こう読めば矛盾は生じない」と言う人たちに対する鋭い批判の言葉になっていると思う。

 聖書の中には、現代人にはなかなか受け入れがたいことも書かれている。その代表的なものが聖書の冒頭にある天地創造神話だろう。これを歴史的な事実だと主張する人たちも多いわけだが、このことについては本書で著者が次のように述べていることを参考にしてはどうだろうかと思う。

 『確かに聖書は神のみことばですが、聖書が天から降ってきたことを意味するわけではありません。神は、聖書の時代の人間にわかるように語りかけ、聖書にはそれに応えて生きた人間の姿が描かれています。/ 神は人を造った全知全能なるお方です。私たち人間の想像をはるかに超えた存在です。そのような神が絶対的真理をそのまま人間に突きつけても、人間には、とてもとても理解することはできません。/ だから神は、人間の側からは越えられない隔てを飛び越えて、人間の地上での営みを踏まえたうえで、人間にわかるようにして、お考えを明らかにしてくださるのです。つまり、当時の社会通念を踏まえて当時の人々にもわかるように、神は語りかけてくださったのです。』(P109-110)

 著者はこれをパウロ書簡の中の女性差別的な言葉についての解説として述べているわけだが、同じことは旧約聖書の創造神話や数々の奇跡伝承についても言えることなのだ。聖書の読者は「聖書は古代人が書き、古代人が読んだ古文書である」という当たり前のことを時々忘れてしまう。だが古代人には現代人とはまったく違う知識があって、その知識を前提として世界を理解しようとしていた。聖書はそうしてできた世界観を前提としてできている。

 聖書を神のことばと信じてその教えを生きようとする人は、聖書を書いた古代人の世界観も丸ごと受け入れなければならないんだろうか? 古代人の持っていた原始的な科学知識とは異なる知見が科学によってもたらされた時に、そうした最新の知見は無視して古代人の知識のままで生き続けることが必要なんだろうか?

 福音派と呼ばれる人たちの中には、こうした問題を突きつけられた時に「聖書が正しくて科学が間違いだ」と簡単に言い切ってしまう人が結構いるのだが、この問題はそう簡単なものでもあるまいと思う。逆にこうした科学知識と矛盾する記述について「古代人の迷信だから現代人には関係ないのだ」と切り捨ててしまうのも、また違うと思うんだけどね……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書, 日記

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