日本を愛するキリスト者の会と自虐史観

日本を愛するキリスト者の会

 「日本を愛するキリスト者の会」なるものが存在するそうで、なんだか困ったもんだなぁ……と思ったりしている。まあネトウヨの方々によれば日本キリスト教団(日本最大のプロテスタント教団)は反日団体だそうですから、そうした世間の風向きに対するアリバイ作りとして「クリスチャンの中にもあなた方のお仲間はいますぞ!」とアピールしたいのかもしれないけど、それにしたってねぇ……。

 会の設立趣意書によれば、『現在のキリスト教界の所謂〝自虐史観〟に則った言論や決議の蔓延を憂え、もっと公正にバランスのとれた報道や意見が尊重されるあり方を求めます』とのこと。この『所謂〝自虐史観〟』というのがクセモノで、僕はだいたい今ごろになって『自虐史観』などと言う人たちはかなり怪しいと思っているのだ。

 「自虐史観」という言葉は今から20年ぐらい前、藤岡信勝の「自由主義史観研究会」が言い出したものだと理解している。彼らの主義主張を最初に大きく取り上げたのは産経新聞に連載された「教科書が教えない歴史」だ。これは「日本の過去の歴史は悪く言われてばかりいるが、じつは世界に誇るべき立派な人たちもいたし、立派なこともたくさんしてきた」と、日本の過去の業績についてその負の面ではなく正の面に光を当てようというものだった。

 僕はこの頃の自由主義史観の台頭については、それなりの評価をしてもいいと思っている。それまでの歴史観というのは、歴史の中で人類はどんどん進歩している、発達している、だから未来は明るいはずだ!というものだった。未来は明るいのだから、それに比べれば現在はまだ薄暗いところもある。未来が明るくて現在が薄暗いなら、過去は暗いはずだ。近現代史は暗い。そして中世になればさらに暗くなり、古代などは真っ暗闇である……。こうした暗い時代から、時代を経るごとにどんどん世界が明るくなっていくという、ものすごく単純な歴史観が世界を支配していた。

 しかし20世の終わり頃になって、この歴史観はどうも怪しいのではないか……ということになった。冷戦が終了したというのがそこに決定打を与えたのだが、本当はそれだけではない。「人間は大昔から現在、そして未来永劫ずっとアホである」というのは、それこそ古代の賢人たちもずっと言っていたことなのだ。人間がアホなんだから、その人間たちが作る社会もやはりアホなのだ。しかしアホな人たちの中からも時々は立派な人たちが出てきて、アホな社会を多少なりともマシなものにしようと働くことがある。「教科書が教えない歴史」はまさにそうした人たちを取り上げたものだった。そしてこうした立派な人、立派な業績を完全に無視して、「過去の人たちはみんなアホでした」ばかり言いつのることを「自虐史観」と呼んだのだ。

 人間は歴史の中で良いことも悪いこともしている。そこにフィルターをかけて「悪いこと」ばかりを抽出するのが自虐史観だ。これは歴史を学ぶ人間を萎縮させようとか、自尊心を奪ってしまおうというものではなく、大前提として「過去は暗かったが未来は明るい!」という大きな歴史観があってのものだ。未来の明るさを強調するためには、それと対比される過去の暗さもまた強調されなければならない。ところが「過去は暗く、未来は明るい!」という大きな歴史観が20世紀の終わり頃に陳腐なおとぎ話になってしまうと、「過去は暗かった」という話が陰々滅々たるものにしか見えなくなってしまう。ここに「自虐史観」という名前を付けたのはなかなかのネーミングセンスだと思う。

 「歴史の中には良いことも悪いことも両方あるのに、その悪いことだけを取り上げるのはバランスが悪いではないか!」という批判は正当なものだと思うし、それはそれでどんどんやればいいと思う。そういう意味で、僕は初期の自由主義史観研究会の活動は評価すべきだと思うのだ。しかしこうした主張はやがて「歴史の中の良いことだけを取り上げるべきで、悪いことを取り上げるのはケシカラン!」というものにすり替わっていく。自由主義史観から生まれた自虐史観攻撃は、攻撃対象である自虐史観の鏡像である自尊史観になり果ててしまった。自虐史観もバランスを欠いているが、自尊史観もバランスが悪い。現在「自虐史観」を攻撃する人たちは、大半がこの「バランスを欠いた自尊史観」の人たちだと僕は思っている。

 というわけで「日本を愛するキリスト者の会」の話題に戻るのだが、設立趣意書が自虐史観攻撃や朝日新聞攻撃になっている時点で「こりゃもうダメだなぁ」というのが僕の印象だ。こうした物言いはネトウヨと何も変わらないよ。

 ちなみに僕自身の歴史観は「人間は過去にアホだったし、現在もアホだし、未来永劫ずっとアホである」というもの。歴史の中には明るい面も暗い面もあるが、現在についてもそれは言えるし、未来もまた同じだろう。安倍首相が「日本の未来は明るい!」「日本はこれからも成長を続けていく!」と言っているのを見ると、何だかんだ言いながら彼もまた、前世紀に生まれた進歩主義的な歴史観の申し子なのだなぁ……と感じざるを得ない。

 日本は今後、国家として収縮の時代を迎える。日本は低成長から、はっきりと経済退行の時期に入る。日本は幕末の開国と明治維新によって国際社会の一員になって以降、ひたすら経済発展を遂げて豊かになってきた。かれこれ150年ぐらいそうした時代が続いている。でもこれから先、日本はこれが逆転する。人口は減り、経済規模は縮小し、人々は貧しくなっていくだろう。そうした未来を見据えながらどうやって国の舵取りをするかが政治家に求められていることだと思うのだが、どうも「成長だ!」「発展だ!」「未来は明るい!」ばかりの現実逃避が目立つんだよなぁ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

日本を愛するキリスト者の会と自虐史観」への4件のコメント

  1. 「日本は今後、国家として収縮の時代を迎える。日本は低成長から、はっきりと経済退行の時期に入る。」と断言するのは「時代を経るごとにどんどん世界が明るくなっていくという、ものすごく単純な歴史観」・「進歩主義的な歴史観」の「鏡像」にすぎず、「日本を愛するキリスト者の会」と似たことをやってしまっているのではないでしょうか?

    • 日本経済は超高齢化と人口減少で一度収縮します。これはもう避けようがない現実です。

      最終的には国の規模と経済規模が釣り合うところに収斂していくと思いますが、その過程で収縮が行き過ぎれば国は破綻するでしょうね。

      そうならないように、政治家たちには巧みな舵取りをお願いしたいのですが……。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中