仏教の三法印と四法印

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 少し前に仏教の基本的な教えとして四諦の話をして、八正道が後回しになっていた。八正道の話を書こうかとも思ったのだが、その前に三法印四法印について簡単にまとめておく。

 四諦八正道は仏教の教えを簡潔にまとめたものだが、三法印・四法印もも仏教の教えを簡単にまとめたものだ。重なり合う部分もあるが、多少アプローチの仕方が違うのかもしれない。三法印と四法印は「3つの法印」と「4つの法印」が別にあるのではなく、「3つの法印」に1つ加えたものが四法印となる。三法印は「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つで、これに「一切皆苦」を加えて四法印となる。

 諸行無常とは、世のすべてのものは移ろい流れ、決して一箇所にとどまっていることはないという真理だ。世界は変化している。人も変化している。ならば自分もまた変化している。「当たり前だ」と言われそうだが、その当たり前を人間は頭で理解しても、感覚的には受け入れない。目の前にあるものが、明日も、明後日も、来年も、再来年も、今と同じようにずっと存在し続けると思う。

 ガーシュウィン兄弟に「愛はずっとこのまま(Love is here to stay)」という曲がある。『時が来ればロッキー山脈も崩れ、ジブラルタル海峡も潰れてしまうだろう。でも僕たちの愛はずっとこのまま』というような大げさなラブソングだが、たぶんロッキーやジブラルタルが崩れる前に恋人たちの愛は消え去ると思うよ……。それが諸行無常。この世に変わらぬものなどないのである。

 諸法無我とは、この世界は相互の関係性によって成り立っているので、「これはコレコレである!」という明確な定義はあり得ないという真理。まあ実際のところ人間はいろいろな定義をしなければ生きて行けない存在なのだが、それはあくまでも便宜的なもの。例えば日本人はチョウとガを明確に区別する。クジラとイルカを区別する。現代の日本人はそのように定義しているわけだ。

 でもこれは他の文化圏では明確に区別されていなかったりする。チョウとガの区別、クジラとイルカの区別は、相互の関係性の中で生じているものであって、本質的なことではないのだ。「日本人から見たチョウとガ」と、「アメリカ人から見たチョウとガ」は、関係性によって定義が違ってくる。「わたしは東京に住む48歳の男性です」と今の僕は自分を定義するかもしれない。でもこの定義も「時」や「場所」との関係性の中での定義だ。時が変わり、場所が変われば、その定義は意味をなさなくなるかもしれない。

 「わたし」の身体は、わたしの食べたもののなれの果てだ。もともと「わたし」だったわけではない。ではそれがいつ、どの段階で「わたし」になったのかはわからない。しかし「わたし」の身体は「わたし」そのものだと言えるのだろうか。わたしの手や足は、目や鼻は、わたしの爪や髪は、はたしてそれだけで「わたし」と言えるのだろうか。「わたし」とそうでないものの境界は曖昧だ。西洋では哲学者のデカルトがこれを突きつめて「我思う故に我あり」という結論に至ったが、仏教は同じようにこの考えを突きつめた結果「無我=わたしは無い」という結論に到達した。

 涅槃寂静は、世の無常や無我の状態を悟って心穏やかな平安を得ることこそが人間の目的だという教え。諸行が無常であること、諸法が無我であることを、頭で理解することはたやすい。だが感覚的にこれを会得することは困難だ。しかし自分の身体でそれが会得できれば、人は世に縛られることがなくなる、人は「わたしが」という我欲に支配されることがなくなる。そこに人間の本当の自由がある。

 これが三法印だが、仏教は4の倍数が好きなのでこれに「一切皆苦」を加えて四法印とする。

 一切皆苦とは、この世の一切が苦であるという教え。四諦の第一番目にある苦諦と同じだ。生老病死から人は逃れられない。これが四苦だ。愛するものと別れる愛別離苦、出会いたくないものに出会わざるを得ない怨憎会苦、ほしいものが手に入らない求不得苦、あらゆる思いや考えがその人を苦しめる五蘊盛苦。この世は苦しみに満ちている。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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