「『福音書』解読 『復活』物語の言語学」を読む

「福音書」解読

 著者のFacebookに参加しているのになかなか読めなかった、溝田悟士の「『福音書』解読 『復活』物語の言語学」をようやく読んだ。マルコ福音書に書かれた「裸で逃げた若者」と「空の墓で婦人たちに目撃された若者」の正体に迫る本で、ミステリー小説じみた面白さがあると思う。ただし僕自身はこの本の中で前提とされている事柄にいくつか同意できないこともあり、この本によって新たな発見があったわけでもない。「ふ〜ん、なるほど。聖書というのはいろいろな読み方があり得るものだなぁ」と思っただけだ。

 問題の若者は、マルコ福音書の14:51と16:5-7に登場する。最初はイエス逮捕の場面で、そこから逃げた弟子もしくは関係者のひとりとしての姿だ。

 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。(マルコ14:51)

 次はイエスの死から三日目に婦人たちがイエスの墓を訪ねたところ、墓からはイエスの死体が消えていて、かわりに若者が座っていたという場面だ。

 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:5-7)

 最初に裸で逃げた若者は、伝統的にはこの福音書を書いたマルコ本人だと解釈されているらしい。また墓の中の若者は、同じ場面を描いたマタイとルカの福音書からの類推で、復活を告げる天使だとされている。しかし著者はこのどちらも否定する。裸で逃げた若者と墓の中の若者は同一人物で、天使ではなく人間である。そしてこれは、十二弟子の筆頭であるペトロなのだと……。

 著者はまず伝統的な解釈に至った経緯を歴史に沿って細かく紹介していくが、このくだりは読んでいて面白いと思った。逃げた若者がマルコだという解釈は、じつは聖書が書かれてから千年以上もたってから持ち出されたもので、それが定着したのは近代に入ってからなのだ。伝統的な解釈とは言いながら、その歴史は意外にも新しい。

 一方墓の中の若者を天使だという解釈はマタイやルカから必然的に生まれてくる解釈。新約聖書の文書の並びではマタイが先行しているため、マタイを読んだ後にマルコを読めばここにマタイの同じ場面をどうしても重ね合わせてしまうことになる。しかし現在の聖書学では、福音書の中で最初に描かれたのはマルコだということになっている。だとすればこの場面はむしろマタイやルカを除外して、マルコだけから内容を読まねばならない。マルコはここで「若者」と書いている。ならばこれは天使ではなく、やはり人間の若者なのだ。

 著者はここから「逃げた若者=墓の中の若者」であることを論じ、さらに「若者=ペトロ」だと結論づけていくのだが、このあたりから僕はあちこち首をひねりながら読むことになる。

 まず「逃げた若者」のエピソードはマルコ独自の記述なのだが、これはマタイやルカがあえて記述を削除したのだろうか? 著者はマタイやルカが参照したマルコ福音書は現在我々が手にしているものとまったく同じものだという前提で話を進めているのだが、ひょっとするとこの一文は、マタイやルカが参照したマルコ福音書には含まれていなかったのかもしれない。マルコ福音書が書かれたのは西暦60年頃(学者によって多少の移動あり)、マタイやルカが書かれたのはその20年か30年後だ。しかしマルコ福音書が書かれた直後の完全な写本は残っていないので、この時代のマルコ福音書が本当に今と同じ形になっているのかはわからない。おそらく緻密な本文批判を行っても、各福音書の本文は2世紀頃までしかたどれないであろう……というのが僕の認識なのだ。

 「逃げた若者」のエピソードはマルコ福音書の中でもかなり納まりの悪い形でこの部分に挿入されていて、この文章が存在しなくてもマルコ福音書は成立してしまう。もちろんここに若者の存在を挿入したのには何らかの意図があってそうしたのだろうし、この記事が書かれた時点では書き手にもそれを読む人たちにも「若者」の正体が何者七日について心当たりがあったのだろうが、この文章がいつどこでどんな形でここに挿入されたのかはわからない。それはマタイやルカが福音書を書く以前からそこにあり、にもかかわらず後続の福音書記者たちはあえてそれを削除してしまったのか、それともマタイやルカが書かれた後でマルコの古い写本にこの文章が挿入されて、それが後のあらゆる写本のルーツになったのか……。こんなものは誰にも確定的なことは言えないのだ。

 著者が「若者=ペトロ」だと主張する部分には、さらに疑問を持たざるを得ない。「逃げた若者」の直前には、ゲッセマネで祈るイエスが眠ったペトロを諌める場面があり、直後には連行されるイエスに従ってペトロが最高法院までついて行く場面が書かれている(この後にペトロがイエスを知らないと言う有名なエピソードがある)。これらの場面では実名でペトロが出てくるのに、なぜ「逃げる若者」の場面だけはペトロを匿名にする必要があるのだろう。

 著者はマタイやルカが天使だと書いているとしても、先行するマルコが天使であったと読むべきではないという。でも天使が人間の姿で描かれている話は、旧約聖書の中にも何度も出てくるではないか。例えば創世記でアブラハムにソドムの滅亡を告げ、ロトの家にやって来て町から逃れるように告げた男たち。彼らはどうも若い男の姿で現れたらしい。また旧約続編のトビト記に登場する天使ラファエルは、親戚の若者アザリアを名乗ってトビアの旅に同行する。若い男を天使として読む道筋は、マタイやルカからの類推ではなく、旧約聖書の中に既に用意されていたのではないだろうか。

 「若者=ペトロ」ではあり得ない理由はまだある。またこの若者は婦人たちに向かって、イエスのメッセージを『弟子たちとペトロに告げなさい』と命じているからだ。普通に考えれば、「ペトロに告げなさい」と命じている人物がペトロ本人であることはあり得ない。著者はこれを『語り手が自分自身について語る時に自分自身を婉曲的に三人称で表現する用法』であるイリイスムだと説明するのだが、その後に用例として引用されている「ローマ皇帝伝」やパウロ書簡の例とマルコ福音書の『ペトロに告げなさい』は、やはり質的にかなりの違いがあるように思えるのだ。自分自身を第三者として語ることと、第三者に見たてた自分自身に別の第三者であるところの自分が何かを命じるのとではかなりの飛躍があるのではないだろうか。

 だいたい十二人の使徒たちの頭だったペトロは、どう考えてもこの時点で「若者」じゃないと思うけどなぁ……。

 最初にこの本について「ミステリー小説じみた面白さ」と評したわけだが、この本のミステリー小説じみたところは、こうした推理の強引さにある。ミステリー小説なら最後に犯人が自白するから推理の強引さもカバーできるし、あえてそうした推理で犯人を捜し当ててトリックを暴く探偵の洞察力に読者は感嘆するわけだ。途中が多少無茶でも、結果が合っているならOKだ。しかしこの本にはそうした結末がないため、推理の強引さだけが目立ってしまった。

 なお「逃げた若者=墓の中の若者」という説は、この本を読む前から僕は知っていた。安彦良和のコミック「イエス」がこの説を採っているからだ(初出は1997年)。このコミックでは逃げた若者と墓の中の若者だけでなく、イエスと一緒に十字架につけられた罪人のひとりも同一人物だという話になっている。話としてはこちらの方が面白いと思うけどね。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

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