新聞は公正中立でなくて構わない

日本新聞協会

 文章読本のような本には、「事実と意見を明確に分けて書きなさい」というようなことが必ず書かれている。事実はそれとわかるように正確に書かなければならない。事実に対する所感や批評は、事実とは分けて書く。「○○という本に○○と書いてある」「政府高官が○○○だと語った」「本日○○○という判決が出た」「昨夜○時頃に○○市○○町で○○○という事件が起きた」というのはすべて事実。それに対して「悲しむべきことです」「憂慮すべきだ」「十分に注意しなければならない」「喜ばしいことである」「今後の活動に弾みが付くであろう」「今後の対外関係に影響が出ると思われる」などと書くのは意見だ。新聞記事は基本的にそのような形で書かれている。

 先日来の朝日新聞のドタバタや読売新聞の政府ベッタリぶりに対して、ネットでは「新聞は公正中立でなければならない」とコメントしている人がいて驚いた。放送メディアは免許事業者の義務として公正中立を求められるのが当然だが、新聞というのは基本的に「言論機関」なので、そこに公正中立さなど必要ないと思っていたからだ。「しんぶん赤旗」は公正中立になりようがないし、「聖教新聞」だって公正中立になりようがない。彼らにはそれぞれの主義主張や立場というものがあり、それを広く告知するために新聞を発行しているのだ。

 同じことは他の新聞についてもすべて言えることだ。新聞は公正中立ではない。当たり前のことだ。だがどうも新聞というのは公正中立を装いたがるところがあって、それが読者に対して「新聞も公正中立でなければならない」というバカげた意見を言わせる原因になっているのではないだろうか。

 日本新聞協会「新聞倫理要綱」には、新聞の正確さと公正さについて次のような規定がある。

正確と公正 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。

 ここで述べられている「報道」とは、「事実の報道」のことだろう。新聞は歴史の記録者として、事実を正確に書かなければならない。そこでは記者個人の、そして新聞媒体の立場や信条によって、事実が歪められてはならない。だが記者の任務はそうした事実の背後にある「真実」を追究するのが任務だ。そこでは記者や新聞社の「意見」が求められることもあるだろう。その論評は、世におもねらずに所信を貫くべし! 事実と意見を明確に分けた上で、意見については思うところを述べればいいのだ。

 ところが日本の新聞はこれがどうも苦手らしい。「社説」や「コラム」のように論説委員が意見を述べているところもあるが、新聞の紙面では意見をなるべく隠そうとする。その上で、事実を通して新聞社や記者の「意見」を代弁させるのだ。

 世論を二分させる問題、例えばそれは原発問題でも憲法改正でもいいのだが、そのうちの一方の意見だけを採り上げて紙面で大きく紹介し、もう一方は無視するか小さく扱う。紙面でインタビューや座談会を行って、一方の意見に好意的な意見を述べさせ、相対する意見を批判させる。それは確かに新聞社の意見ではない。インタビューされたり、座談会に呼ばれた識者の意見だ。でもそこには新聞社の恣意的な選択が介在している。新聞社は公正中立に「事実」だけを取り上げているような格好で、外部の人たちに新聞社の意見を代弁させるのだ。

 これは個別の新聞を批判しているわけではない。どの新聞社も同じことをやっている。朝日もやっていれば、産経もやっている手法なのだ。新聞だけではない。どの雑誌も同じことをやっている。テレビ局だって似たようなものだろう。報道番組や情報バラエティ番組のコメンテーターは、ニュースに対して似たような紋切り型の意見しか言わない。

 報道はこうして外部の人間に意見を代弁させるのだが、切れ味のないコメントや意見しか集められない時は、集められた意見に手を加えて脚色するし、場合によっては丸ごと捏造してしまうこともある。長目の取材やインタビューの中から、自分たちの意見にとって都合のいいところだけを要約してしまうことなど当たり前に行われている。同じようなことはネットの「まとめサイト」などでも行われているが、新聞も雑誌もこれを批判できないだろう。自分たちも散々同じことをやって来たからだ。

 新聞に限らず報道系のマスコミがこんなありさまになってしまったのは、彼らが表向きは「公正中立」を装っているからだ。だから意見を直接述べずに、事実に代弁させようとする。マスコミ、特に新聞は、もう公正中立などかなぐり捨てて、自分たちの支持する政策、政党、候補者などを明確にした方がいいんじゃないだろうか。もっとも大きな新聞社はその内部に、与党の支持者も野党の支持者も、原発推進派も反対派も、護憲論者も改憲論者も、死刑反対論者も賛成論者も、捕鯨賛成派も反対派も抱えているだろう。社としての方針を鮮明にすることは難しいかもしれないけどね……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

新聞は公正中立でなくて構わない」への3件のコメント

  1. そもそも、メディアの「政治的中立」というのは「政治的権力からの距離的な中立」であって、右翼でも左翼でもないという意味ではありませんよ。

    民主党が政権を取ったとき、「産経下野なう」と産経の記者がTwitterでつぶやいたように「俺たちの自民党と産経が認識している時点で、産経新聞よりも朝日新聞の方が素晴らしい新聞です。

    • 放送については放送法で『政治的に公平であること』や『意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること』が義務づけられています。つまり「右翼でも左翼でもない」ことが放送には求められているのです。

      こうした規定が新聞にも当然求められていると「誤解」している人が、じつは多いのではないでしょうか。

      • 放送については放送法で『政治的に公平であること』や『意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること』が義務づけられています。

        >それは日本の放送法がおかしいですね。欧米のテレビ局は、基本的第三者委員会で電波業務の管理を行い、ある程度、政府からの介入をふせぐ手立てができています。
        ところが、日本では第三者委員会ではなく総務省がテレビの電波業務の管理を行うので、システム上、政府のテレビへの介入の余地が出てきます。

        あなたは、日本では・・・とおっしゃらずにもう少し世界的な視野で物事を考える必要があるようですね。

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