釈迦の説いた因果の法則

Miroku_Hokuendo_Kofukuji

 前回釈迦の説いた「四諦(したい)」の話をしていたら、最初の「苦諦(くたい)」の話で終わってしまったので、今回はその続き。四諦は釈迦が説いた仏教の根本的な教えで、その実践ノウハウが「八正道」だ。「苦諦」は「人間が生きることはすべて苦しみだ」という教えで、人間にとってどのような苦しみがあるのかを体系的に述べたもの。

 では人間の苦しみは何から生まれてくるのか? なぜ人間は苦しまなければならない羽目になってしまっているのか? それを解いたのが四諦の2番目の項目「集諦(じったい)」になる。集諦の「集」は集めるという意味ではなく、原因という意味だという。人間の苦しみの原因について解いたのが集諦だ。

 仏教の入門書だとここで「縁起」とか「因縁」という言葉が出てくる。物事はすべて関係性の中で成り立っていて、原因があって結果が生まれる。苦しみというのは結果だから、それが生じるには原因がある。それをずっとさかのぼって、根本原因まで至るのが十二縁起や十二因縁だ。十二縁起(因縁)は次の12の要素から成り立っている。

  1. 無明(むみょう)
  2. 行(ぎょう)
  3. 識(しき)
  4. 名色(みょうしき)
  5. 六処(ろくしょ)
  6. 触(そく)
  7. 受(じゅ)
  8. 愛(あい)
  9. 取(しゅ)
  10. 有(う)
  11. 生(しょう)
  12. 老死(ろうし)

 11と12の要素は「苦諦」に出てくる生老病死の要素でもあるので、結果である苦しみそのものを意味している。その原因となるのが、その前にある10の要素だ。ところがこれが個別に何を意味しているのか、僕は不勉強でよくわからない。ものの本によれば、これは古い時代にはもっと数が少なくてシンプルだったものが、時代を経るに従って細分化されて12になったのだという。(12は仏教の好きな4の倍数だ。)

 増谷文雄の「釈尊の悟り」(講談社学術文庫)は、この十二縁起(因縁)から3つを取りだして簡単に説明している。それは「無明」と「取」と「苦」だ。「無明」という根本原因があり、それが「取」を生み出し、結果として「苦」が生じる。他の要素はそれをより詳しく説明するため、細分化していったものなのだという。以下、僕の理解した範囲で「無明」と「取」について説明する。

 「無明」とは人間の根本的な無知のことだ。人間はこの世界の真実を、ありのままに見ることができない。全知全能ではない人間の知覚には限界があって、物事の一部だけを見て全体を判断したり、物事を歪めてとらえたりしている。わかっていないのにわかった気になることもあれば、わかっているのにわからない気がしていることもある。暗闇の中を手探りで歩くようなもので、自分の足が踏みしめているごくわずかな範囲、自分の手が届くごく小さな世界以外は何もわからないのだ。

 「取」とは心がある物事に取り憑いてしまうこと。ベッタリと貼り付いて執着してしまうことだ。無明の中にいる人間は先の見通しが立てられないので、今その時に目の前にある物事のみを頼りとし、それに取りすがって離れないようになる。(ちなみにこの一歩前の段階で何かしら頼りになるモノを得ようする段階が「愛」だ。何かを手に入れようとする欲望。そして何かを手に入れてしまえば、それに執着する「取」が生まれる。)「取」の対象は、ヒト、モノ、カネ、地位、過去の経験、何らかの価値観、方針、何でも構わない。形あるものであれ、形のないものであれ、人はそれにとらわれ、執着して離れられなくなる。

 だが、世界は常に変化する。世界は変化し、人も変化する。だから何らかの物事に執着しても、それはやがて姿を変えたり、姿を消したり、役に立たない物になったりする。どれだけ物事にしがみつこうとしても、人は否応なしにそこから引き離されてしまう。こうして「苦」が生まれる。苦しみは人の判断力を低下させ、無明の闇はますます深くなっていく。そしてまた、新しい「取」が生まれる。この循環を抜け出さない限り、人間は永遠に苦しみ続ける。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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