キリスト教は何を教えているのか

Hoffman-ChristAndTheRichYoungRuler

 昨日はキリスト教について書こうと思ったら途中で終わってしまったので、今回はその続き。昨日の記事は「イエスは何を教えたのか」に改めました。そこで終わっちゃったからね……。

 イエスは「正義は必ず勝つ!」とか「善人は天国に行って、悪人は地獄に落ちるのだ!」という、およそあらゆる宗教が前提としていてもおかしくなさそうな世界観を出発点にしながら、より独自で過激な主張をして大衆的な人気を得ていた。「悪人は最後は地獄に落ちる。そしてこの世で成功している連中はほとんど悪人だから、あいつらはみんな地獄に落ちるのだ。金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しい」とか、「善人は最後に天国に行ける。この世で苦しみを受けている人、泣いている人、悲しんでいる人はたいてい善人だから、そういう人たちはみんな天国に行ける」と言っているのだ。この世の価値観は、神の最終的な介入によってすべてひっくり返る。

 だがこんなことを言われたら、この世の権力者たちは面白くない。イエスの説教によれば、彼らは既に地獄行き決定の悪人たちなのだ。イエスは権力者たちの恨みを買って、逮捕されて殺されてしまった。イエスの弟子たちも一度はバラバラになってしまった。そこで終わっていればキリスト教は出現しなかったのだが、ここで不思議なことが起きる。命からがらあちこちに逃げていた弟子たちが、再び集まってきたのだ。そして「殺されたイエスは正しかった」と言い出した。「イエスは正しかったからこそ殺された」とも言い出した。

 逮捕されて処刑されたイエスは犯罪者だ。彼が率いていた教団は瓦解して信者は散り散りになる。それが再び新たな教団を形成し、殺されたイエスを自分たちの救い主(キリスト)として崇拝するようになったのだ。こんなこと普通はあり得ない。不思議だ。こんな不思議が起きたのは、イエスが復活したからに違いない!……と、昔はずいぶんいろんな本で読んだけど、今の僕は必ずしもそれを不思議だとは思わない。

 だって今の日本には、オウム真理教の残党というのがずいぶん残っていて、さらに新しい信者を集めてるそうじゃないですか。オウム真理教は長野県の松本市や東京の地下鉄にサリンをばらまいた犯罪組織です。でもそれを信じず、「麻原彰晃尊師は正しい!」と崇拝している人たちがまだ大勢いるのだ。だったら同じような人たちは、1世紀のパレスチナにもいたんでしょう。少なくともイエスは毒ガスをばらまいたわけじゃないし、誘拐事件で人を殺したわけでも、脱走しようとした信者を殺したわけでもない。オウム信者の残党が活動できるなら、イエスの教団の残党だって活動できるでしょう。

 そんなわけでイエスの死後もイエスの教団の残党組が活動を続けて組織が少しずつ拡大していたのだが、ここでイエスの存在が改めて再定義されるようになる。それは「イエスは正しいことを言っていたはずなのに、なぜ殺されなければならなかったのか?」という疑問に対する答えでもある。

 当時のユダヤ人たちは自分たちが犯したさまざまな罪を神にゆるしてもらうため、生け贄の動物を神に捧げるという習慣を持っていた。動物の命を神に捧げることで、人間の罪を帳消しにするわけだ。そこでイエスの弟子たちは考えた。イエスが殺されたのは、イエスの命によって人間たちの罪を帳消しにするためだった。イエスは人間たちを救うための特別な生け贄として、神に自らを捧げたのだ。

 これはものすごく独創的で画期的なアイデアだった。これによってイエスが逮捕され処刑されたことも正当化できるし、イエスが説いていた「神による罪のゆるし」も、イエスの死によってより確実なものになった。しかしイエスというひとりの人間が犠牲になることで、いったい何人の人間の、どれだけの罪を救えるのか? イエスと神は特別に親しい関係だった。そうした特別な人間を生贄に献げたのだから、ものすごく大勢の人間の罪がゆるされるに違いない。より多くの人間を救うためには、イエスが神にとってより特別な存在にならなければならない。かくしてイエスはどんどん神に近づき、最終的には神に等しい存在となった。

 イエスの弟子たちから始まったキリスト教会は、やがてこんなことを主張するようになる。イエスは人間としてこの世に生まれた神の独り子だ。その証拠に、イエスは聖霊によって処女マリアから生まれたよね。一度は十字架につけられて殺されたけど、三日目に死からよみがえった。イエスは今は天に上って全能の父なる神のそばにいるが、この世に神が介入してあらゆるものが作り替えられるその日には、イエスがこの世に再び下って全人類を裁く。その時点で生きている人だけではなく、死んでいる人も復活して裁かれる。だがイエス・キリストを自分自身の救い主(キリスト)だと信じている人たちは、罪をゆるされて天国で永遠に憩うことができるのである。これ、マジな話だかんね!

 というわけでキリスト教の解説はだいたい終わり。仏教もそうだけど、こういう「基本的な教え」はさらに発展して、あれやこれやいろいろなことが言われたりするようになる。ただしそれによって基本的な教えがどこかに行ってしまうわけではないので、部外者はこうした基本的な考え方の部分だけ「なるほどそうなっているのか!」と知っていればいいんだと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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