「日本映画監督列伝1 小津安二郎の謎」を読む

小津安二郎の謎

 「ザナック ハリウッド最後のタイクーン」を読んだ後、ザナックと黒澤明の『トラ・トラ・トラ!』製作にまつわるコミック作品があることを思い出した。園村昌弘と中村真理子の「日本映画監督列伝2 クロサワ」だ。「小津安二郎の謎」はそれに先立つシリーズ1作目の作品で、原作の園村昌弘と作画の中村真理子は2作品で共通している。もう15年も前の作品だが、このシリーズは「小津安二郎の謎」と「クロサワ」のあと、なぜかやまさき十三と幸野武史にバトンタッチして3作目「沙堂やん 山中貞雄物語」が描かれることになった。「沙堂やん」も悪い作品ではないと思うのだが、作品の趣向がまるで違うので同じシリーズとして並べるのはどうなんだろうか。

 というわけで「小津安二郎の謎」なのだが、物語は映画についてあまり詳しくない女性雑誌記者が、小津安二郎について調べてその生涯をたどっていくという構成になっている。タイトルにある「小津安二郎の謎」とは、鎌倉に残る小津の墓に刻まれている「無」という文字のこと。なぜ小津は自らの墓に「無」という文字を刻んだのか。これは小津安二郎と「無」を巡るミステリーであり、主人公の記者が小津安二郎ゆかりの人々から次々に話を聞き取り、最後に小津本人の回想談が挿入されて「無」の由来が読者に示されるという構成は、「バラのつぼみ」という謎の言葉からスタートする映画『市民ケーン』を下敷きにしたものだと思う。

 この作品には良い点や面白い点がたくさんあるのだが、じつは一番の弱点は「小津安二郎の謎=無という言葉の意味」という点からスタートしてしまったことではないだろうか。この物語の中では「無=ナッシング」だとして、これをとてもネガティブな意味にとらえている。世界的な巨匠である小津が、なぜ自らの墓に「無=何もない」などと刻ませたのか……。このミステリーが物語を引っ張っていくわけだ。

 でも日本人にとって、「無」はそれほどネガティブな言葉なんだろうか? 「無為自然」とか「無垢な心」「無私の心」「無心になる」など、日本では「無」という言葉にある種の理想的な状況をあてることがある。日本は禅や茶の湯の影響から、目に見えて意図的な行為を不自然でわざとらしいものとして嫌うのだ。日本人が好むのは何もしていない状態。プラスでもマイナスでもない、中庸でニュートラルな状態。心が凪いで静かに澄んだ状態だ。小津映画のファンは小津の墓碑銘が「無」であることを知っているし、その「無」という言葉はまさに小津安二郎という人間にぴったりな言葉だと思っているのではないだろうか。小津の墓碑銘が「無」だと聞いても、「おお、なるほど!」とは思っても、「なぜだ!」とは思わないんような気がするのだ。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書

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