1927年のトーキー革命

ジャズ・シンガー

 「トーキー革命に匹敵する」と言われた映画のデジタル革命が、結局は映画流通の革命でしかなく、観客に新しい体験を提供する本当の革命にはなっていないのではないか……という話を昨日の日記に書いた。

 映画のデジタル革命は、今のところ「新聞の電子製版」みたいなものなのかもしれない。朝日新聞は1980年に電子製版システムのネルソンを導入し、1988年には従来の活字製版が消えてしまった。杉山隆男が「メディアの興亡」で新聞社から活字が消えていく様子を描いて大宅壮一賞を受賞したのは1986年だ。これは新聞発行にとっては大転換だったのだが、これが読者の新聞購読スタイルを変えたかと言えば、じつは何ひとつ変わっていない。毎朝自宅のポストに配達される新聞は、鉛活字でも電子製版でも購読体験に何の違いもないからだ。

 映画のデジタル革命も、今のところ似たようなものになっている。映画の撮影はデジタルになった。映画の編集も全部デジタルだ。映画館に配布されるのはフィルムから光学ディスクやハードディスクに替わり、上映もデジタルプロジェクターを使っている。でもそれによって、観客の観る映画体験が何か変わったかというと、じつは何も変わっていない。(例外は3D映画だが、これが映画の主流になるにはまだもう少し時間がかかりそうだ。)

 これに対して1920年代の終わりにトーキーが登場したのは、まさに映画の革命だった。これに匹敵するだけのインパクトを、映画のデジタル化はまだ観客にもたらしていない。

 世界初のトーキー映画は1927年の『ジャズ・シンガー』だというのが映画史の通説だが、これは必ずしも正確ではない。『ジャズ・シンガー』はトーキーを売りにした最初の長編映画だったが、劇中人物の台詞が音として発生される「トーキング・ピクチャー」の部分はあまり多くないのだ。それでもまあ、ここでは便宜的に『ジャズ・シンガー』をトーキー第1号としておこう。この映画のアメリカ公開は1927年10月6日だ。主演はブロードウェイの大人気歌手アル・ジョルスン。製作はワーナー・ブラザース。

 トーキーの技術は『ジャズ・シンガー』の時代になって開発されたものではなく、それよりずっと前から研究開発が続けられていた。世界で最初の「音と映像が同期した映画」は、映画発明から間もない19世紀末に作られている。エジソンの研究所で映画の開発にあたっていたウィリアム・K・L・ディクソンは、1894年頃に「The Dickson Experimental Sound Film」というサウンド映画を作っている。これはリュミエール兄弟による世界最初の映画(シネマトグラフ)上映会より早いのだ。映画は発明された当初から「音が出る」という仕組みを持っていた。それが普及しなかったのは、音を出す仕掛けにはそれなりの設備と費用が必要になったからだ。音が出なくても、スクリーンに映し出された写真が動くだけで当時の観客は大喜びした。だから映画会社はわざわざ音を出さず、音のない映画を量産して金を稼ぐことを選んだ。

 いつの時代も、技術の優秀さより経済的な合理性が優先するのだ。音の出る映画が日の目を見るのは、それから30年もたってからのことだった。その間に映画は「音のない動く写真」としての表現力を高め、映画上映に合わせて演奏される音楽などと組み合わされることで高度に洗練された芸術として発展した。サイレントからトーキーに移っていくハリウッドを舞台にしたミュージカル映画『雨に唄えば』(1952)には、トーキーのデモフィルムを見たサイレント時代の映画人たちが「お笑いぐさだ」「ゲテモノだ」と一蹴する場面が出てくる。これは当時の映画人たちの強がりではないだろう。当時の洗練された映画芸術に比べて、トーキーはあまりにも稚拙なおもちゃに見えたのだ。

 そんな中であえて「ゲテモノ」のトーキーに手を出そうとしたのが、当時のハリウッドで他社に一歩後れを取っていたワーナー・ブラザースだった。ワーナーは1926年に映画『ドン・ファン』で音楽と効果音だけを画面と同期させたサウンド版を作って自信を得ると、翌年に『ジャズ・シンガー』で初の「しゃべる映画」「歌う映画」を売り出して大ヒットさせる。ワーナーは翌年もアル・ジョルスン主演で『シンギング・フール』を作ってバカ当たり。これに負けじと大手のMGMもオール・トーキーの『ブロードウェイ・メロディー』を1929年に作り、この映画がアメリカ全土の映画館にトーキー上映装置が普及する後押しとなったという。

 かくしてアメリカは『ジャズ・シンガー』からほんの2〜3年のうちにトーキー化を完成させ、1930年にはほとんどの映画がトーキーになってしまったのだ。これを「革命」と言わずして何と言えばいいのだろう。

 トーキー革命は世界を席巻する。1929年から31年頃にかけて、世界中で「初のトーキー映画」次々に製作されていく。こうした初期トーキー映画の中には、1930年のフランス映画『巴里の屋根の下』やドイツ映画『嘆きの天使』、アメリカ映画『西部戦線異状なし』などの有名作品もある。日本では1931年に国産のトーキー技術(土橋式トーキー)を使った長編映画『マダムと女房』が作られている。撮影時の技術的な問題から表現に制約が多く、ちゃちなおもちゃと見られていたトーキーだったが、登場からほんの数年で映画人たちはその技術を使いこなし、サイレント時代に負けない表現力を手に入れてしまった。1930年代半ば以降の作品は、現在我々が観ている映画と表現技術の上では何の違いもない。トーキー化に最後まで抵抗していたチャップリンも、1931年の『街の灯』をサウンド版で製作、1936年の『モダン・タイムス』で歌声を披露し、1940年の『独裁者』で完全にトーキーに移行した。

 トーキー革命の革命たるゆえんは、それが旧体制を完全に滅ぼし尽くしてしまったところにある。

 トーキーの登場と定着によって、サイレント映画は完全に滅びた。もちろん一部の個人作家がサイレント映画を撮ったり、パロディやパスティーシュとしてサイレント映画が作られる例はある。例えばメル・ブルックス監督の『サイレント・ムービー』(1976)や、ミシェル・アザナヴィシウス監督監督の『アーティスト』(2011)などだ。だがこれらの作品が受けたからと言って、それに続けてサイレント映画を作ろうとする人は現れない。サイレント映画は滅び去った過去の表現技法なのだ。

 映画の歴史の中ではいくつもの技術革新が行われているが、新しい技術の登場でそれ以前の表現が完全に滅ぼされてしまった例はトーキー以外にない。カラー映画が登場しても、モノクロ映画は滅びなかった。各種のワイドスクリーンが登場しても昔ながらの画面サイズの映画は作られているし、ワイドスクリーンを実現していた70mmサイズの大型フィルムが滅びても、それらのフィルムが実現していたスクリーンサイズは残っている。(ビスタビジョンは滅びても、ビスタサイズはそのまま残っている。)多チャンネルのステレオ音声が普及してもモノラル音声が消えることはない。だがサイレント映画だけは滅び、今後も永久に復活することはない。

 革命は不可逆的な変化をもたらす。そういう意味で、映画の製作から上映までの流れがデジタル化しているのは、観客の目に見えないところで進行しているひとつの「革命」であるのかもしれない。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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