「マキノ雅弘—映画という祭り」を読む

マキノ雅弘—映画という祭り

 山根貞男の「マキノ雅弘—映画という祭り」をようやく読み終えた。「ようやく」というのは僕がこの本を発売時に購入しているからで、アマゾンの購入履歴によれば2008年10月に買っている。もう6年も前だ。それから本棚に突っ込んで放置していたわけだが、その間にこの本は新潮選書で絶版(あるいは品切れ)になってしまった。

 マキノ雅弘(1908-1993)の評伝を期待して購入した本だが、実際にはそうではなかったため途中で投げ出したのだと思う。これはマキノ映画の魅力について、著者が思う存分に語り尽くしている本なのだ。その最終到達地点は東宝で撮った『次郎長三国志』九部作(1952–54)について語る最終章で、この本はこの部分を書くために、長い長い遠回りをしながら「ワッショイワッショイ」や「二焦点の主人公」や「噛み合わない会話の曲折」について論じてきているようなものだ。

 この本は雑誌「新潮」に2007年から2008年まで連載された記事を元にしているので、新潮選書からの1冊として出版されることになった。しかしこれは新潮選書というシリーズのフォーマットがよくなかった。これは映画専門の出版社から(キネマ旬報社でもフィルムアート社でもワイズ出版でもいい)から、スチル写真をふんだんに盛り込んだ版を出すべきだったと思う。活字で映画の名場面を再現するというのは、映画評論家にとってはやりがいのある仕事だと思うし、この本は著者の言う『マキノ作品の名場面集』としての役目は果たしているだろう。だがこの本を読んでその名場面を頭の中で再現できるのは、結局のところマキノ作品をそれなりに観ている人たちでしかない。

 小堀明男の清水次郎長、森繁久弥の森の石松と聞いて、即座に頭の中でその役柄のイメージが思い浮かべられる人がどれだけいるだろう。こんなものは『次郎長三国志』のスチル写真を1〜2点添付しておけば済む話なのだし、東映版とのキャストの比較なども同じことが言える。マキノ作品には既に散逸しているものも多いのだが、それでもポスターやスチル写真などは残っているのものも多いのだ。写真集みたいな本にする必要はないが、各章の中でポイントになる作品については、スチル写真1枚、ポスター1枚なりとも掲載しておいてくれると、まだ作品を観たことがない人にとっても、既に作品を観ている人にとっても、イメージが大きく広がるものになったと思う。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書, 日記

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