解釈改憲から見える政治家の政治不信

日本国憲法をリライトする

 安倍首相は「憲法改正」に並々ならぬ意欲を見せて自民党総裁に返り咲き、選挙でも圧勝した。その後は国民投票法を整備し、憲法の改正手続きを定めた96条の見直しを進め、その後はいよいよ憲法9条についての議論を始めるのかと思っていたら、なんだい、憲法解釈を変えればそれでOKなのかい……。

 憲法9条の改正については、もともと「集団的自衛権を明確に定義しておきたい」という目的で議論されていたはず。日本はもとより世界のどんな国でも、今どき「侵略戦争」を容認するようなところはない。どんな戦争も、それが自国防衛にとって不可避である場合に限って認められている。国民の生命と財産を守るための個別的自衛権・集団的自衛権だけが、国際社会で容認されているのだ(国際連合憲章第7章)。日本はこのうち個別的自衛権については現行憲法でも認められているが、集団的自衛権については行使し得ないという解釈を取ってきた。

 ところが国際社会に紛争は絶えず、日本も海外の紛争地に自衛隊を出すようになっている。そこでは他国の軍隊と共同行動を取ることもある。そこで集団的自衛権が行使できないと、活動に差し障りが出てくる……。これが「日本でも集団的自衛権を持った方がいい!」という意見が出てくるわけで、日本では1990年の湾岸戦争の頃から本格的に議論され始めた。この話は対中国の問題でごちゃごちゃしているから持ち出されてきたわけではなく、もうかれこれ20年以上も議論が続いている話なのだ。

 自衛隊が海外に出ているのは事実だし、そこで武装勢力から攻撃を受ければ自衛隊が何らかの形で応戦することもあり得るだろう。現在そうした事態が起きていないのは、単に運が良かったと言うだけの話だ。何の法的な手続きも決まらぬまま、現場判断で武器使用が行われてしまうのは大問題なので、自衛隊が紛争地に出て行かざるを得ないのであれば、そこで起きうる事態に備えて法整備をしておく必要がある。だがそのためには日本が集団的自衛権を持っていることを、明確にしておかなければならない。たぶんここまでは、日本人の多くが理解できることなのだ。僕も集団的自衛権は明確に規定した方がいいと思うよ。

 しかしそのために「憲法の条文を解釈し直せばそれでOK!」というのがよくわからない。現状追認で憲法をいかようにでも解釈し直すことでどんな行動も認められてしまうなら、今後も永久に憲法改正なんて必要ないじゃないか。

 安倍首相や自民党は「憲法解釈の変更で集団的自衛権は認められるようになる!」と主張する一方で、憲法改正へ向けた動きは今もなお着々と進めている。憲法条文を一言一句変更しないままでも集団的自衛権が認められるなら、条文を変更した後に一体何が可能になるんだかわかったもんじゃない。

 憲法改正論者はしばしば、現行憲法はアメリカの押しつけであっただの、英語からの翻訳憲法で日本の国柄に合わないなどと言う。だが現憲法の前に施行されていた大日本帝国憲法(明治憲法)が1890年から57年間用いられていたのに対して、現憲法は既に施行から67年たっている。明治憲法より新憲法の方が、既に歴史が長くなっているのだ。現在日本で生活している人たちの多くも(政治家も含めて)、物心付いた頃には現憲法になっていたはず。日本は現憲法下で経済発展を遂げ、欧米に肩を並べる先進国となった。日本は少子高齢化や人口減少で今後少しずつ確実に衰退していくと思うが、それでも今後何十年かは世界の一等国としての地位を保ち続けるだろう。でもそれはすべて、新憲法のもとで成し遂げられたことなのだ。

 日本国憲法の平和主義について「非常識だ」「異常だ」「こんな憲法は他にどこにもない」などと言う人がいるが、憲法というのはその国の顔である。「男は40を過ぎたら自分の顔に責任を持て」という言葉があるが、憲法制定から70年近くたってもいまだ自国の憲法に自信が持てない日本の政治家たちというのは、まったく情けない限りだ。

 もちろん世界の情勢は時々刻々と変化しているし、日本の置かれている立場も、日本社会の有り様も、好むと好まざるとに関わらず常に変化している。そこで憲法に不都合が生じているのなら、憲法自体を堂々と改正すればいい。集団的自衛権にしろ何にしろ、その必要性が本当に国民に理解されているのであれば、堂々と国民に信を問うて国会で憲法改正派が3分の2の議席を取り、憲法改正を発議して改正案を可決し、国民投票にかけて憲法を改正すればいいのだ。なぜそれができないのか? なぜ解釈変更という姑息なことをするのか。それは政治家が憲法改正の必要性について、国民を説得する自信がないからだろう。

 憲法改正議論を避けて解釈改憲で良しとする安倍自民党の態度からは、「どうせ国民に政治のことは理解できっこない」「どうせ憲法は改正できっこない」という、政治家の側からの「政治不信」が見て取れる。政治家自身が、政治に不信を抱き、絶望しているのだ。何度も言うが、まったく情けない。政治家が政治に絶望している国で、国民が政治に希望を持てるだろうか?

 (タイトルが内容にそぐわないような気がしたので、一度公開した後にタイトルを変更しました。)

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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