「サムライ 評伝 三船敏郎」を読む

サムライ 評伝 三船敏郎

 図書館で借りていた松田美智子の「サムライ 評伝 三船敏郎」を読み終わった。黒澤明がらみの話題中心に読んでいたのだが、黒澤・三船コンビが1965年の『赤ひげ』を最後に解消した後も、じつはこのコンビで映画を作る機会が何度かあったという話があちこちに書かれている。

 最初は三船敏郎が稲垣浩監督と撮った『風林火山』(1969)で、この企画を知った黒澤監督が「自分に監督させてほしい」と迫ったという話。既に稲垣監督にオファー済みだと知ると、黒澤監督は「ならばタイトルと騎馬での合戦シーンだけでも自分に演出させてくれ」と食い下がったという。稲垣監督は戦前のサレント時代から活躍している大ベテランだし、三船主演の『無法松の一生』でヴェネチア国際映画祭の金獅子賞も受賞している巨匠。東宝では黒澤と並ぶ重鎮監督だった。そんな稲垣監督の下でなら、黒澤監督は自分が第二班の監督になっても構わないと思ったのだろう。だがこの話は実現しなかった。「黒澤監督は絶対に映像に凝るから、あっと言う間に予算超過になってしまう」というのが大きな理由だった。

 次は『デルス・ウザーラ』(1975)の主演に、三船敏郎が想定されていたという話。ただしこれは、もっと前の段階で、物語の舞台を北海道に移して三船敏郎主演で映画化するアイデアがあったという説もある。だからこの時点で、三船にオファーが行ったという話ではなかったのかもしれない。

 さらに1976年頃に娘の黒澤和子(現在も衣装デザイナーとして活躍)が結婚する際、黒澤明が三船プロに1,000万円の借金を申し込んだ時。互いの信頼関係があってのことだが、この時「担保は何がいいか」と黒澤側から申し出があり、三船プロは「三十郎の新しい脚本」と返答した。すると黒澤からは「それならもうアイデアがある」という話があり、製作予算5億円、予算超過に備えて東宝が7億出資するという話が一度はまとまったという。だが「脚本ができた」と見せられたのは、三十郎の続編ではなく『乱』の脚本だった。『乱』のアイデアを思いついた黒澤はそちらの脚本を先に書きはじめ、三十郎は後回しになってしまったのだ。

 結局この話は「予算がかかりすぎる」ということで流れてしまったのだが、『乱』はその後、仲代達矢主演で映画化されることになる。だがこの経緯を見る限り、黒澤明の想定としては、『乱』は三船敏郎主演の新作として企画されていたのだ。仲代達矢の『乱』も立派な映画だったけど、三船敏郎が主演だったらまたぜんぜん違う映画になっていたんだろうと思う。

 勝新太郎が『影武者』を降板したとき、三船敏郎は自分が出てもいいと言っていたはず。結局そこでは仲代達矢が代役になったわけだが、黒澤と三船というのは『赤ひげ』以降も互いに交流があり、信頼関係も決して損なわれていなかったように思う。チャンスさえあればコンビが復活することもあり得ただろう。でも一番のネックは、黒澤が黒澤プロダクションの社長で、三船が三船プロダクションの社長だったこと。彼らは自分が抱えているスタッフを食べさせていかなければならなかった。そのために三船はテレビドラマなどにも出演していたわけで、昔のように黒澤映画に1年半とか2年拘束されることは、事実上無理になっていたのだと思う。

 しかしそんな黒澤流の映画作りを、誰よりもよく知っていたのが三船敏郎なのだ。その上で、三船敏郎は黒澤映画に出たいと願っていたし、黒澤明も三船敏郎を想定して企画を考えたりしていた。なんだか切ない話だよなぁ……。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書, 日記

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