『ガレキとラジオ』のやらせ問題

ガレキとラジオ

 東日本大震災やその後の原発事故については多くの映画が作られたが、僕はその全てを観ているわけではない。というか、観ていない映画の方が多い。

 映画『ガレキとラジオ』は僕も昨年2月に試写を観て、映画瓦版にも感想を書いている。「ドキュメンタリー映画としては決定的に素材不足、取材不足だなぁ」だなぁ……というのが僕自身の偽らざる感想で、その不足した素材を補うように、役所広司のナレーションでまとめているのが工夫なんだろうと思った。映画としてのまとまりはあるけど、ドキュメンタリー映画としては足腰が弱いのですね。だから僕のこの映画に対する評価は特に高いものではない。

 もちろんこれは、映画で取り上げられている「FMみなさん」の活動を否定するものではない。むしろ僕はこの活動にきちんと密着し、寄り添うことができなかった映画に不満を感じるわけです。監督たちは東京での仕事がいそがしくて、そうたびたび南三陸にも足を運べなかったんでしょう。でもその取材不足の穴が、映画から透けて見えてしまうのは残念でしょうがなかった。もちろんそうしたほころびを繕うために、役所広司やMONKEY MAJIKが動員されたのかもしれないけど。

 でもこの映画はその不足している素材部分ですら、「演出」で補っていたようだ。これは「FMみなさんの活動」という映画の根幹部分ではなく、ラジオリスナーの姿を演出して作ってしまった。映画を観ているとこれは演出だと何となくわかるんだけど、僕もこの女性が普段ラジオすら聴いていない人だとは思わなかったな。

 僕はこういう演出がドキュメンタリーとして「禁じ手」だとは思わない。ドキュメンタリーは自由な表現形式だ。被災地でラジオを聴いて勇気づけられた多くのリスナーを象徴する人物として、何らかの虚構を作ったって構わないと思う。それは津波で流された犠牲者たちの声を、役所広司がナレーションで演じているのと同じだ。でもそれは、虚構を虚構だと明示してほしいんだよな。

 例えばこの映画を観れば、役所広司のナレーションが虚構だということは誰にでもわかる。だったらリスナーのお婆ちゃんも、東京から誰でも知っている女優さんを連れて行って、劇中ドラマとして挿入すればよかったんだよ。その上で例えば映画のエンドロールに「ナレーション:役所広司」と同じ並びで「ラジオを聴く老婆:泉ピン子」(まあ別に誰でもいいんだけどさ)とあっても、それによってこの映画のドキュメンタリーとしての価値が減じたわけではないと思うしね。

 「ドキュメンタリーには再現も演出も許されないのだ!」というドキュメンタリー原理主義者みたいな人も世の中にはいるけれど、実際のドキュメンタリーというのはフィクション作品とゆるやかに連結しているものだ。『ガレキとラジオ』はそうした連結を半ば意図している作品だろうけれど、ドキュメンタリーとしてもフィクションとしてもかなり中途半端だったと思う。

 まあドキュメンタリー作品としての悪質さでは、佐村河内守を取材したNHKスペシャル「魂の旋律 〜音を失った作曲家〜」(動画)の方がずっと素性が悪いわけで、『ガレキとラジオ』に関しては「ふ〜ん」というぐらいなんですけどね、僕は。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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