「『ふしぎなキリスト教』と対話する」を読む

ふしぎなキリスト教と対話する 図書館で借りていた「『ふしぎなキリスト教』と対話する」を返却した。公立図書館は宗教関連書籍の蔵書が少ないのだが、これはたまたま近所の図書館で借りられたのがラッキーだった。何しろこれ、自分で買おうとすると2,800円+税なのです。元ネタの「ふしぎなキリスト教」は新書版で300ページなのに、注釈付きの批判本が400ページの単行本になっているということを著者自身があとがきで書いているが、ページ数もそうだけど値段が3倍だもんなぁ……。

 しかしこれは内容的には素晴らしいもので、この値段に見合うだけの価値はある。本という商品は奇妙な物で、読んだ後でないとその価値が計れないところがあるのだが、この本については「図書館で借りずに買っちゃってもよかったかもな」と思ったぐらいだ。もっとも読んでしまえば、もう買うことはないわけだけど……。それもまた本という商品の奇妙なところだな。

 著者は「ふしぎなキリスト教」だけでなく、それ以降に発行された批判本「ふしぎな『ふしぎなキリスト教』」や、「ふしぎな〜」の著者たちによる続編的な企画本「やっぱりふしぎなキリスト教」も踏まえた上で、「ふしぎなキリスト教」の著者である大澤真幸と橋爪大三郎の問いかけや問題提起、キリスト教の定義づけなどについて自分なりにコメントしていく。批判本ではあるが、相手の間違いを指摘する仕事は先行する「ふしぎな『ふしぎなキリスト教』」に譲って、むしろ建設的な議論につながるきっかけとして「ふしぎなキリスト教」を用いようとしているようだ。

 どんな本でも100%が間違いであったり、100%正確であったりすることはない。「ふしぎなキリスト教」はいろいろと間違いの多いデタラメな本で、その点ではまとまった知識を得るための1冊の本としてまるでダメダメなのだが、だからと言って「ふしぎなキリスト教」に書かれている事柄が100%まったくダメだというわけではない。その中にはキリスト教の側が真剣に向き合わねばならない重要な問いかけもあれば、キリスト教の中からはなかなか出てこない巧みな定義づけや例えがある。「ふしぎなキリスト教」に書かれている事柄は、まったく玉石混淆なのだ。そして読んだ人ならわかるとおり、玉より石の方がずっと多い。とても歩留まりの悪い本なのだ。しかし本書「『ふしぎなキリスト教』と対話する」の著者は、そのわずかな玉を丁寧に拾い上げてホコリを払ってみせる。なんとまあ、お優しいことか。

 しかしこの本は「ふしぎなキリスト教」というベストセラーをダシにして、カトリック司祭(神父)である著者の考えるキリスト教を提示し、解説する本なのだ。「ふしぎなキリスト教」にこと寄せて、中身は来住英俊神父によるキリスト教の入門書になっている。表面的には「ふしぎなキリスト教」の石を取り除けて玉を礼賛する便乗本のようにも見えるが、じつは「ふしぎな〜」が提示した土俵に自ら乗り込んで、カトリックの神父の立場から相手の挑発を受けて立ち、最後は相手を土俵から押し出してしまう天晴れな本だと思う。

 というわけでこの本を返却し、入れ替わりに借りてきたのは次の4冊。A・E・マクグラスとJ・C・マクグラスの「神は妄想か?―無神論原理主義とドーキンスによる神の否定」。半藤一利の「日本のいちばん長い夏」。長谷川町蔵の「21世紀アメリカの喜劇人」。野地秩嘉の「TOKYOオリンピック物語」。これらは年末年始の読書として帰省先に持って行くつもり。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 読書, 日記

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