僕って無神論者だったの?

15208826 僕は宗教に関しては「不可知論」の立場だと自己紹介することにしている。無神論者ではないが、さりとて何らかの神の存在を信じる有神論者でもない。神がいるかいないかは人間には判断できないのだから、神の存在の有無について何らかの判断を下すことを避けるわけだ。

 ところがリチャード・ドーキンスの「神は妄想である―宗教との決別」を読むと、僕はドーキンスと同じ無神論者に分類されるらしい。ドーキンスはこの本の中で「神の蓋然性のスペクトラム」というものを紹介している。それは「神は絶対100%存在する」という立場から、「神の存在確率は0%だ。神は絶対にいない」という立場までを7段階に分けるものだ。(同書 p.79-80、数字は算用数字に改めた)

1.強力な有神論者。神は100%の蓋然性で存在する。C・G・ユングの言葉によれば「私は信じているのではなく、知っているのだ」。
2.非常に高い蓋然性だが、100%ではない。事実上の有神論者。「正確に知ることはできないが、私は神を強く信じており、神がそこにいるという想定の下で日々を暮らしている」。
3.50%より高いが、非常に高くはない。厳密には不可知論者だが、有神論に傾いている。「非常に確証は乏しいのだが、私は神を信じたいと思う」。
4.ちょうど50%。完全に公平な不可知論者。「神の存在と被存在はどちらもまったく同等にありうる」。
5.50%以下だが、それほど低くはない。厳密には不可知論者だが、無神論に傾いている。「神が存在するかどうかはわからないが、私はどちらかといえば懐疑的である」。
6.非常に低い蓋然性だが、ゼロではない。事実上の無神論者。「正確に知ることはできないが、神は非常にあり得ないことだと考えており、神が存在しないという想定のもとで日々を暮らしている」。
7.強力な無神論者。「私は、ユングが神の存在を“知っている”のと同じほどの確信を持って、神がいないことを知っている」。

 で、僕はどのへんに位置しているかというと、5か6なんだよな。ちなみにドーキンスは6だと言っている。「無神論者」を自認しているドーキンスが6なら、僕も同じ程度には「無神論者」なのかもしれないね。まあそう言われたところで、別にどうしたというわけでもないんだけど……。いずれにせよこの6と7の間には、かなりの断絶があると思うしね。

 この本は図書館で借りているのだが、まだ全体の4分の1ぐらいしか読んでいない。とりあえずオンラインで貸出期間を延長して、最後まで読み切ってしまおうと思う。

 今日は午後からシネマート六本木で『フォンターナ広場 イタリアの陰謀』の最終試写。上映開始10分前に到着したのだが既に満席。補助椅子を出してもらってぎりぎりで試写室にすべり込むことができた。東西冷戦時代に起きた政治的テロ事件の真相を探っていく、骨太の社会派実録ミステリー。熊井啓の『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』や、松本清張の社会派ミステリーを連想させる力作。

投稿者: 服部弘一郎 カテゴリー: 日記

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